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僕の職場に歳は30歳くらいの男性で知的障害の人がいる。
人より学習能力が劣っているというか、要するに頭が弱い。
周りの人の中では彼に同情する人がいる。かわうそうだと。

通常我々が心や体に傷を負った人をみて同情するのは、
自分がその人の立場になれば辛いと思うから、同情するのだと思う。

だから知的障害の人にも同情するのだと思うのだが、しかし
同情されている知的障害の当人は本当に不幸なのだろうか?

仮に痴ほう症やアルツハイマーなどにかかっている人をみて、
同情はあまりしないと思う。
その人の親族など近い人には同情する場合もあるが、その当人自体
には同情はしないだろう。

それと同じことで、親兄弟はたいへんだったことだろうと思うが、
知的障害者の当人に同情する必要があるのだろうか?

実は以前僕は、その知的障害者の人に幸せかどうか聞いたことがある。
彼の答えは、「わからない」だった。
彼は自分が障害者ということを知っている。
そのため生まれつき人よりハンディを背負っていることがわかっているが、
その分得していることも知っている。
楽な仕事を与えられて、早く帰れるし怒られる事もない。
障害者年金もあるのだろうか、パチンコしたり酒を飲みに行く金もある。
はたして彼は本当に不幸で同情するべき人なのだろうか?

A 回答 (10件)

 そのちっぽけな得が、君の感覚に「羨ましさ」を与えるものなら、今すぐ目でも突いて障害を持てばいい。


 我々はそれでもやっぱり「障害はない方がいい」と思ってしまうのは、その得より自分が上回る証拠じゃねぇか?やはりその人が助けを求めるならさしのべるべきではないか。彼が「わからない」と言うのは、全てが自分だけで完結できないのだろうという、自己満足感の薄さじゃないかな。
 同情という感覚を持つというのがすでにズレているが、共感だと思うよ。共感を持てない者は、今が幸せでない時に陥るものだから、ある意味障害があるんだよね。同情されたいか?
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siyuusukexxx様、こんばんは。




「不幸」・・・幸せではないこと
「同情」・・・本人の身になって、ともに感じること
だそうでうす。


!、「幸福な人(の幸せ)に同情する」ってのも、あるのか。
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1.もし社会が、個人の優劣を競う場であるならば、能力が


  劣るのは「かわいそう」な事である。

2.もし「優劣を競う場」でなく、社会=分業=互いを助け合
  う場であるとしても、その目的が物質的豊かさ(肉体的
  増殖、経済的利益)であるならば、社会に貢献する能力
  が低いのは「かわいそう」な事である。

3.もし生きる目的が「物質的豊かさ」ではなく、精神的
  豊かさであるならば、その「社会への貢献」は物質的な
  生産性ではなく、精神的な充足量によるものであり、
  他人を思う愛の深さ、自己の生命性の社会的拡張を
  自覚化(他我=博愛)し得る認識の深まりであって、
  「能力」を比較して「かわいそう」と思うような自己チュー
  で即物的な人間の方が「かわいそう」である。
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>障害者年金もあるのだろうか、パチンコしたり酒を飲みに行く金もある。


はたして彼は本当に不幸で同情するべき人なのだろうか?

本気でそう考えてるのだったらゆゆしきことですね。

年金はある人にとっては保険であり、別の人にとっては保障です。
後者の場合、「一般的なこと」の損失補てんです。
補てんされた時点で一般化されます。
ですが、ご質問者様は「得」だと思っているのだとしたら勘違いもはなはだしい。
パチンコしたり酒を飲みに行けるためのお金は、本人が障がい者になったことの対価ではないのです。

障がい者の気持ちはどうでしょうか?身体は不自由だが、心はフリーという方もいるかもしれません。
身体は自由でも心が不自由なのが精神障害です。
人は働かないと不安になる生き物だそうです。
働くということはお金を稼ぐ労働だけではなく、貢献するということも含めます。
精神的な病によって、働けない状態になったり、何かの依存症になったほうが不幸かもしれません。
パチンコや酒に年金を消費する障がい者は同情すべきではないという意見、これは、障がい者への社会保障に疑問を抱かせるためのネガティブキャンペーンのようです。

また、痴ほう症やアルツハイマーが同情すべきで、知的障害者はその対象ではないという理由が「彼は自分が障害者ということを知っている。」だそうですが、理解が足りませんね。
自閉症などはメタ認知に欠けていることが特徴です。

メタ認知
『現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を言う。 自分の認知行動を正しく知る上で必要な心理的能力。』(ウィキペディアより)

つまり自分のことを把握できない知的障害もあるということです。
対してアルツハイマーは器質的な病です。前者は社会生活ができますが、後者は介助がないとできません。
また、アスペルガーの特徴である、文脈が読めない、自己中心性などの症状でふりまわされる周囲の苦労については、家族も大変な苦労を背負っていますよ。
最もコミュニケーションが必要な身近な人間の苦労はそれができないということにおいて、アルツハイマーと同様の苦労があるということです。

そのように、知的障害者イコール不幸という考え方が浅慮なのです。
天賦の才は発達障害や精神病の発症なくしては芽生えないというくらい、なんらかの知的、心的な障害を持つ有名人は枚挙にいとまがありません。

たとえばアスペルガー症候群ですと、ダ・ヴィンチやアインシュタインから、エジソン、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツなど。

アスペルガーの偉人たち
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4902082071/re …


もうひとつ大切なことについて述べさせてください。「同情」という言葉についてです。
純粋な同情でも、それを本人に伝えることは相手を傷つけることのほうが多いです。
同情は思いやりですが、憐れみともいえます。それは相手のその状況は不幸であるというフィルターでみているからです。また相手の不幸を自分は被っていないという余裕から生じます。

それに対して「共感」は対等であり、真心です。
相手と同じ経験はできないが、苦しみ、悲しみ、また喜びなどの感情という共通項において、他人の気持ちが己れにも同じことのように反映する心のことだと思っています。
その違いは「理解」です。同情は理解できない、する必要がないという考えに対する言い訳でもあるでしょう。勘違いした「情」でも無関心よりはマシですから。共感は相手の境遇を評価せず、自分のことのように受け止めることができる考え方の姿勢ができていると思っております。

また、カウンセリング理論では、同情は禁物だと教えられます。
実際、この同情によって傷つくクライエントは多いです。
またカウンセラー個人の意見も禁物です。それはカウンセラーの準拠枠で、クライエントの感情や考えを決めつけてしまうことになるからです。
何らかの障がいを持つ人を不幸な人、同情すべき人、というような見方も準拠枠であり、そうしたフィルターで個人や人間を見れないエセカウンセラーと同じです。

発達障害、精神障害者は「一般」に対するアンチです。
固有性をマジョリティに埋没させようとする健常者へのアンチテーゼです。
凡人は「同情」をもって彼らと仕合せである自分らとを区別し、憐れみをもってその幸運なだけの境遇に対して安堵しようとしているのですか。だとしたらそれこそ「差別」というものですね。
そして彼らの本音に対する勝手な想像をする代わりに、彼らの潜在的な能力には考えが及ばないのですね。
私などは幸福な凡人より、才ある知的障害者に生まれたかったと本気で思ってますが。
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当人が自分は不幸だと思っていても、そうでなくても、健常者でないひとは健常者に比べて不幸だと思います。

これに説明が要るでしょうか。

>そのため生まれつき人よりハンディを背負っていることがわかっているが、
その分得していることも知っている。

ハンディキャップをもったひとはそうでない人に比べて不利なので、社会がそれなりに補償して健常者に近い生活が送れるようにしているので、それを得をしているという見方でみるのは間違っているのではないでしょうかね。彼らは自分が得をしているとは思っていないと思います。そういう見方をされていることが分かれば、さらに引け目を感じて不幸感が倍加するような気がします。

人間は自我を持った動物です。誰でもそれなりのプライドを持っているのです。そのプライドが失われたら、そのひとは生きる望みを失うでしょう。
>彼は自分が障害者ということを知っている。
つまり自我を持っている、プライドも当然持っているとせねばなりません。一般的にそういうハンディをもった人間は、表面上はおだやかでも、その内面、プライドはずたずたにきずついています。しかし生きていかねばならないとも思っているのです。非常に精神力が強いのです。同情するのは周囲の勝手ですが、実際にそれが伝わると彼らはさらに傷つきます。
彼らに前向きの思いやりを見せ実際に行動することは悪いことではありませんが、同情するべきではないとおもいます。
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こんにちは、しゅうすけさん。



わたしなら、勝手に「かわいそう」などと憐れまれたら相当腹を立てると思います。
ひとそれぞれ本人にしか分からない苦しみや喜びがあると思いますので。
何か困っていることはないかと本人に聞いて、まめに想像するしかないと思います。


 
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私も障害者なのでそれを踏まえて書きますが



僕の職場にも知的障害の人が働いています

知的同士だと喧嘩や揉め事も多いようで 僕の職場に来ているのでしょうけど

僕もこの年になってもう結婚も無理だろうと思うし

障害に症状があるので 残業とかやりたい事もできないことが多いです

やはり健常者の青春を過ごし 仕事は大変ですが、障害なく一人前とみられたほうが自負心も持てます

障害者で普通の施設で働いている人もいますが 同じように働いていても単純ばかり労働をさせられたり

差別的な待遇や発言を受けるようです。私も働いていたのでそれはわかります。

その人も周りが健常者なので結婚できません しないんじゃなくて出来ないんです。

同情するとすれば、それは不幸だから同情するのでしょうし

同情しないとしても 健常者のような自己実現は難しいと思います。

同情する人もいれば同情しない人もいるのが現実ですし

能力に障害があることはけしてその人にとっても良い事じゃないですね。
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そもそも同情をべき論で語るのは無理があるんじゃないですかね。


同情するなというのは道で死んでいる猫を可哀そうだと思うなというのと同じですよ。
感覚的なものが大きいのですから。
つまりどう思おうと人の勝手でしょ、ですね。
ある意味で人間の共感能力は大したものだとも思います。
ただ、自分が同情している相手を不幸だと考えるのはいかがなものかとは思いますが。
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幸・不幸は主観であって、本人の感じ方次第ですから、何とも言えません。



ただ、障害者が「不幸」だと言わない事は、社会システムの成功の可能性を表している言葉ではないでしょうか?

人生において、望ましくない結果が訪れる事は、誰の身にもある事です。

其れを受けても自身が不幸かは判らないというのは、安定した生活を社会が保障すればこそです。

誰も同情もせずに奴隷の如くに扱う社会であったら、不幸でしょうね。
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知的障害者の方に関わりのある仕事をしています。


ご存じかと思いますが
知的障害と言うのは認知症のように病ではないのです。
先天性でもって生まれたわけですから
健全者が普通に生きているように
知的障害はその人自身の生命そのものなのです。
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