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地図で見れば上が下総、下が上総になっていて妙な印象を受けます。
上下といってもいろんな観点があるだろうと思いますが、どういうわけで地図の上側を下総、下側を上総としたのでしょうか?

A 回答 (4件)

>上下といってもいろんな観点があるだろうと…



都に近いほうから順に上・中・下、あるいは前・中・後とされているのです。
都とは、古くは奈良周辺、その後は京都の時代が長かったのです。
したがって、京都に近いほうから上・中・下 (前・中・後) と考えれば良いのです。

たとえば備前・備中・備後は京都に近い東側が前 (上)、越前・越中・越後は逆に近い西側が前 (上) になるのです。

おたずねの房総半島の南側は、京都から行くのに東京湾をぐるっと回るより、三浦半島の久里浜・浦賀あたりから舟で渡ったほうが早いので、南側が上 (前)、北側が下 (後) となりました。

>どういうわけで地図の上側を下総、下側を…

地図を作るのに北を上と決めたのは、西洋人が地球儀を持ち込んだ安土桃山時代以降のことです。
武蔵とか上総とかの国名は、奈良時代にはもうできていますので、現代の感覚でいう「上が北」は当てはまりません。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/22 11:15

天皇がおられる京都に近い方が上方なのです。

これに似たものが越前・越中・越後や備前・備中・備後のように京都に近い方が前なのです。
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この回答へのお礼

当時は江戸ではなく京都が中心だったんですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/22 11:14

国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、


いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。
上総国と下総国の場合、元々東海道は海つ道(海路)であり、房総半島の南部の上総国の方が畿内により近い位置関係にあったのがその由来とされる。

そうです。\(^^;)...マァマァ
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この回答へのお礼

たいへん勉強になりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/22 11:12

今と違って、武蔵・下総間は当時湿地帯で、陸沿いに行くことが困難でした。

そのため、三浦半島から船で房総半島に向かったため、南が上総なのです。
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この回答へのお礼

なるほど。
たしかに印旛沼とかありますよね。
それに荒川や江戸川があるし。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/22 11:11

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