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決して死にたいわけでも自殺願望があるわけでもありません。
むしろ、人生楽しみたいと思っていますし、夢や目標もあります。

しかし、いつかは死ぬときが来る。
自分が人生楽しんだところで、夢を叶えたところで
自分にとって、世界にとって何になるんだろう。
これから生きていくこと、夢や目標に向かって努力すること、人生楽しむことに意味あるんだろうか。
最近そんな風に思ってしまいます。

生きる意味ってなんなんだろう。
いつかは終わるのに。人生楽しむってなんなんだろう。

いろいろとご意見聞かせていただけると幸いです。
スピリチュアルな話にも関心があるので、そういった視点からのご回答も頂けると嬉しいです。
もしかしたら、勇気や後押しがほしいだけかもしれません。

A 回答 (20件中1~10件)

人生は結局、思い出づくりなんです。


誰と関わって、何をして、何を学んで、という。
地球に生まれて、地球で味わえることを、ご馳走としていただく。それが生きる喜びです。
そして、亡くなることで、人生を卒業できる。
だから、せっかく生まれたのだから、自分を人生を大切にして、少しでも世のため人のため自分のためにやっていくことです。
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一つお金について勘違いされている方が多いと思いますので言わせてもらいます。


お金は世の中を回す優れた道具です。お金で成り立っているといっても過言ではありません。
お金があるから便利な生活が送れ生きていくことが出来るわけです。
お金を得るために働きます。働くから世の中が回るわけです。
便利で豊かな世界を幸せに感じてください。
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生きる意味を知りたいと思う時、実は内在的な関係性から言うなら、貴方は生きる意味を知っています。

何故なら、どんな偉いと思われる人がどの様な答えを持ってきて貴方に勧めたところで『貴方が納得する事が出来ないからです。』

貴方が納得する時に、貴方は自分自身からの了解を得るという意味があるからです。

沸き上がる疑問は、その疑問が湧き上がった原点にまで戻るなら、疑問を抱いた時、自分の中に既に答えは用意されています。

こう言った意味が分る事を悟ると表現します。

自分が自ら疑問を抱いて、自分が自ずからその疑問を解消するという意味です。

こういう事を理解したいと思う心を、宗教心或は神経質或は、失楽園と表現します。何故なら自分から天国を捨てているからです。

天国という意味はこう云った疑問を抱かないで、安楽に過ごしている状態を言っています。その天国に一番近い存在を幼子と聖書は書いています。この意味が分る時、『生きる意味』を知る事が出来ます。他の言い方をするなら自分自身を知るといいます、詰まるところ宗教の意味が分と言う事です。

宗教が分かる、という意味は『自分自身を内在的に突き動かしている者を知る事』という意味があります。この者に従うという意味です。

或は迷うという意味は、この者の言っている事が分らなくなった、或はこの者が何だか分らないという意味があります。

そこで『この者』を分りやすく説明している動画がありますので載せてみます。


URL:

もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

この動画の語っている事実が、自分自身と対話をしているところです。

この対話の相手を知る事を『自分自身を知る』とソクラテスは言っています。或は禅で『父母未生以前本来の面目』と形容しています。

この者とは自分自身の『命を働かせている働き』という説明で分ると思います。

幼子や赤ん坊が何も学ぶ事無く『知っている事柄全てを包括して働いている働きそのもの』という意味です。

分りやすく書き分けるなら、一つは『生命体としての生命維持機能』の内『身体の生命維持機能』という意味です。体温の調節でも呼吸や血流やホルモンの調節機能や神経系統の全てを司っている者という意味です。


一つは『生命体としての生命維持機能』の内『行動を通しての生命維持機能』という意味です。危険が迫った時などには、自我意識をさておいて、その者が身体も心も支配する場合があります、或は優勝が掛かった一打を打つ場合等では『自我意識が出なかった時に出て』体と心を支配している者です。自分が『我を忘れた時に働いている者』という意味です。


一つは『生命体としての生命維持機能』の内湧き上がる考えや、湧き上がる感情詰まり『心を形成させている生命維持機能』と言う意味です。

今書いたように三つに分けて書いていますが、人間の生命維持活動という意味に置いてはこの三つには『不可分』の部分がありますので、取り立てて書く必要など無いのかも知れませんが、人間の分別によって分けられているという意味に置いては、分ける必要もあるのかも知れません。

この三つに分ける事によって分かる事があるからです。

『失楽園』が三つの形態に分けられているからです。先に書いたものと関係しているからです。

自我意識という『我』が自分の『命の働き』と仲違いしている現象を説明する為には便利になるからです。


『身体の生命維持機能』との仲違いを自律神経失調症や難治性の身体の疾患の内検査で異常が見付けられない症状の説明が付くからです。

『行動を通しての生命維持機能』との仲違いを神経症や強迫行為や恐怖症と呼ぶ事が出来る様になる事です。自分で自分の行動を制限して『自分で自分の自由を奪っている現象』を説明する事が出来る様になるからです。

『心を形成させている生命維持機能』との仲違いを心を病むと説明出来るからです。

詰まり失楽園からの開放の糸口を『心の矛盾の解消』と言う観点から完治に至る道筋を示す事が出来る様になるからです。

今書いた三つの失楽園に全て共通する事は『身体の検査でも脳の検査でも異常が見つけられない事』が挙げられます。他の共通点は『生き難い思い』が付きまとっている事です。何処から押し寄せているのか分らない『漠然とした不安や恐怖感』です。

こう云った漠然とした不安感を聖書では『原罪』仏教では『業』と表現しているようです。

今は人間の分別心が働いた世の中になったために、宗教離れが進んでしまって、お寺や寺院や教会に行く人が少なくなって、医師の元に行く人が増えているように見えます、行く先も其々別れているようですが、元を正すなら、自身で解消する事で解消する問題と思いますが、教えてくれるところが無いように見えていることが残念と思います。
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私は生きる意味とは、パートナーとなる異性を見つけられ、人間としてのあり方を見定めれ、死ぬ時には十分生きたと後悔しないこと、であると思っています。



中でも人間としてのあり方というのは、逸脱せず、早とちりせず、かと言って遅すぎず、平静な心構えとおもいの清らかさを保ち、見るべきものを見て、心は朗らかであること。と考え、人生において大事な部分としています。
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そうなんです みんな最後は死ぬのです それなのに何故頑張って 苦しんで、楽しんで?



まず第一の生きる意味は存在するために生きるのです。

人間として人間存在として存在するために生きているのです。当たり前のようで要点です。

それからアイデンティティを持って存続するために つまり少しでも未来にも存在できる様に生きるのです。

そして問題は死んで後に何が残るか それが何になるのか?ということです。

もし人間が人間お次の存在にたすきをつなぐ前に滅びてしまったら 今までの40億年の生命の営み

何百万年の人間の営みは無意味に帰します。

人間はひどい人生を歩んだり、必死で掴み取ったり、祭りで喜んだりの営為の因果を残します

その結果が永遠に向かって人間の次の存在にバトンタッチするまで活きているのです

愛も活かすことです その永遠を目指す壮大なドラマのために 全ての人の生きた証が組み込まれ

消して無駄にはならないのです。

人間は永遠を目指して存続する存在にバトンを渡す為に生きているのです。その中に活き続けるのです。
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意味なんてありません。



しかし、それが別に悪いもの、こと、むなしいもの、こと、ではないじゃないですか。

だって、実際のところ、だーーーーーれもわからないんですよ?
なんで生まれてきて、死ぬのか。死んだらどうなるのか。

いわゆる悪態やアンチ、そういう類の発言では決してないです。
大真面目です。

私は学問としても実践でも哲学をたしなみます。ですから答えが出ない事を考えるのを否定する人間ではないです。しかし、この事だけは、考えるだけ無駄だと思います。

私は無宗教ですが、哲学者として好きな人間の一人にゴータマ・シッダルタ(釈迦)がいます。
何が好きかと言うと、「考えてもわからない事を考えてないで、いま、明日どうしたら楽しいかを考えようや」と言うスタンスだからです。(のちの、現在の、仏教とは全くべつものです)

安心できる言葉になるかどうかは別ですが、上記のような上で最後に一言言うのであれば

「等しく死を迎えるのです。つまり自分だけではないのです。だから全然悲観する必要性がないです。だからこそ楽しく生きないと損です」
あと、蛇足になるかと思いますが、
「じゃあ(悪事も含めて)好き勝手に生きたほうがいいじゃないか」と言うガキがたまにいますが、それがどうこうより、そんな事しても、そんな生き方しても虚しいだけで、楽しくないです。だからケンカした時より仲直りした時のようが快感やし、悪い事したときより良い事した時のほうが快感でしょ。
だからきれいごととかでは一切なく、善き事をする方向で生きたほうが結果楽しいかなとは思います。
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人生に悩むのは「自由」だからです。


奴隷のように自由が無い人生であれば悩んでも道は一本しか無いのです。
奴隷として生きるという…。

家畜だって同様。
家畜は食われるために生まれ育てられる。
彼らの人生には悩むなんて選択肢は無いのです。

自由だから選択肢が無限にある。
だから悩むのでしょう。
これは昔の多くの人達が、自らの命を代償にして得たものです。
悩むと言う事は命を代償にするほどの価値があるのです。
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 こんにちは。



 ★ これから生きていくこと、夢や目標に向かって努力すること、人生楽しむことに意味あるんだろうか。 / 最近そんな風に思ってしまいます。
 ☆ そのあとですよね。問題は。

 意味をつかまえて生きるのか。意味などはない けれども 生きると決めるのか。

 
 あるいは別様に 同じそのとき 次のような問いは持ちませんか?

  なぜ生きないのか。

 このようには 問わないのですか? なぜ生きるのかという問いと同時にです。

 そうでないと おそらくどんな答えが得られようと 堂々巡りしてしまうように思われます。すでに むなしいという気持ちを持ってしまっているのですから。

 その気持ちは 同じ気持ちとして 別様の・ぎゃくの中身のものとして湧いてくるものと対抗させるのでなければ なかなか退いて行かないと思います。



 あなたは なぜ生きないのですか?
 たぶんそこには理屈はないのでしょう。なぜ生きるのかの問いについても当てはまるのではないでしょうか。
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どんな死に方をしたいかという話です。



生きる意味より、死ぬ意味を考えた方が建設的です。
そして、自分の望む死に方をするために生きればよい。
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