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 あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。

 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。

 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。



 認識から実践へとすすむことを何故しないのか?

 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?

 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?



 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?

 

 ちょっと抽象的すぎますか? 

 ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。

 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。

 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?

 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?

A 回答 (23件中21~23件)

こんにちは。




この質問には直接関係しないのかもしれませんが、
私は2、3日まえから《アイドル》について考えております。
偶像ではなく、若くてかわいい女の子のアイドルです。


で、至った一つの結論が、
《アイドル》は《球振り》の装置であり、シャーマンのごとき存在なのであろう。
その歴史は古く、《アメノウズメ》まで遡れるのではなかろうか、
です。


アマテラスは、岩戸に《引き籠もり》、《蛸壺》状態に至ります。
没交渉の状態に至ります。
そこで、アメノウズメがアイドル(ゆかたん)のように歌って踊ります。
《お祭り》が行なわれる。

http://www.dailymotion.com/video/x23x031_%E3%81% …

ウメノウズメ一人が歌い、舞っても、《お祭り》(アイドルのコンサートやイベント)にはならない。
《魂振り》を行なうには、参加者一人一人の《囃(はや)し》、《コール》が必要なんです。
何だか外が騒がしいぞと、外に引っ張り出される。外に出ないまでも、岩戸(自身が立てた言戸)を少し開き、お祭りの様子をこっそりと覗きみようとする。
そして、知らず知らずのうちに、この熱狂に包まれ、
「ゆか! ゆか! ゆか! 超絶かわいい ゆかたん!!「ゆーかたん! ゆーかたん!」とともに絶叫するのでありましょう。
ここで《魂振り》が行なわれる。
これはアポロン・理性的なものではなく、ディオニュソス的喧騒であり、より深く生と結びついている。理性にとってはノイズのごときものかもしれません。
しかし、
この時、この《蛸壺》は、個ではなくアイドルを媒介として全体とつながり、《個》と《全体》が完全に溶け合った状態に至っているんでしょう。《全一》状態。

『ログ・ホライズン』の《てとら》(アイドルです)の言う通り、「(引き籠もりには)アイドルが不足している」のかもしれない♪♪


こうでも考えないと、日本的現象である《アイドル》とその《お祭り》は説明がつかない。
国民(というそうな)は
「着信0件 メッセなし
俺の携帯ゆか専用
俺とゆかたんコードレス!!!」
という《蛸壺》ですんで。


☆ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。
◇《アイドル》は、《蛸壺》が作る繭の一つですよ。
フィクションであり、虚構であり、妄想の権化です。
そして、《アイドル》はその役割を完全に果たす必要があります。
《アイドル》は、非日常(ハレ)的存在であり、日常性(ケ)を感じさせてはいけない。トイレに行くなんて思わせてはいけない。まして恋愛など論外!!
《アイドル》は人間でないので。

そして、この《繭》である《アイドル》とその《お祭り》があれば、
日本人は生きていけるし、その同一性を失わないのでしょう。
《蛸壺》を一時的に脱却できる。


究極のアイドルは、天皇なのでしょうけれどね。
天皇が災害の被災地に行く───儀式であり、神事です───だけで、被災者は慰められ、魂が振られる。
そして、その様子をTVなどで見た多くの国民は《蛸壺》状態を脱し、「(あの人たちのために)何とかしなければ」と奮い立つ。


みたいなことを、
日本的現象である《アイドル》とその《お祭り》について考えております。
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この回答へのお礼

 ◇ ~~~~~~~~~~~~
 そして、この《繭》である《アイドル》とその《お祭り》があれば、
 日本人は生きていけるし、その同一性を失わないのでしょう。
 《蛸壺》を一時的に脱却できる。
 ~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ここで引っかかりがありました。初めから読み継いで来て。


 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 俳優は わざをき(業・技‐招き)ですからね。
 《魂振り》としてのように まづは《われに還らしめられる》。そういうワザが降りて来る。

 《藝能》というのは 初めにはむしろ《学問》のことを言っていたとか。(これは 確かめていません。ちょっと読んだものですから)。



 ですからもし《蛸壺》から引っ張り出されるためであるとすれば むしろ《繭をつむぐこと》はもう要らないわけです。そうですよね?

 繭から繭へ というようなことになってはダメぢゃないですか。






 という引っかかりが起きると だいたい全体が読めて来ます。

 
 (あ) アマテラスオホミカミが天の岩屋戸に閉じ籠もったのは その原因が問題です。弟のスサノヲの心をうたがったし それが晴らされたあとにも口を利かなかった。完全に無視した。こういう問題です。《無関心》が心の死です。

 (い) つまりそのアマテラス自身の心が むしろ自分自身によって閉じ籠もってしまっていたのですから からだが岩屋戸から抜け出したとしても 一向に事態は変わりません。まぁ 魂振りとして・ひとつの段階として ひとまづ《みんなのいるところ》に顔を出したという効果はあるのかも知れませんが。

 (う) ですから 物語の語るところにもとづく限りで まだ《蛸壺》から《繭》へのお移りでしかないと考えられます。

 (え) 《ゆかたん》つまりアイドルないしアメノウズメつまりワザヲキですが たぶんそれはやはり《ヨリ(憑依)》なる心性に根を下ろしたような知性をベースにしているのであって いかにデュオニソスの乱舞による魂振りでも このヨリなる原始心性としての《われに還る》という問題に収まると思われるのです。

 (お) 言いかえると ヨリなる前(プロト)歴史知性の場合には やはり《蛸壺から繭の中へ》というごとく別の観覧車へ移る。だけではないかとなります。

 (か) ゴンドラを乗り換えただけではないか。アマテラスのその凍りついた心は。広場に出て来ても 雲の上の神隠れか神隠しかにしてもです。

 (き) ほんものの《ゆかたん》ないしアメノウズメならば――ということは すでにヨリ原始心性からイリ歴史知性に衣替えしているのなら―― みんなといっしょに余興もお祭りをもおこなってもよいのだけれど それは やはり《頓悟》でなくては 蛸壺も繭をも抜け出せないと知ってのことだと考えられます。

 (く) 即身成仏。即得往生です。それゆえにワザを招くのだからです。

 (け) それにお祭りは その年の初穂を神にささげて あとは神との共食を みんなでおこないます。感謝祭でもあるのだと思いますが そのあとです むしろどんちゃん騒ぎは。すでに繭をつむぎつづける世界――かのムラカミハルキ・ワールドがちょうどピッタリ当てはまると見るのですが――から足を洗ったあとでこそ イリ知性たちの祭りは始まります。
 これは アポローンとデュオニソスとのむしろ合体です。
 ただしこのお話はまだ終わりません。

 (こ) そこへ ヨセなる超歴史知性が登場します。スーパー歴史知性の登場とともに――わざわざまたまたお二階なる大きな繭を空(そら)いっぱいに幕のごとく張られてしまって やっぱりそして今度は 世の中全体が蛸壺の中に入ってしまった。アマテラスオホミカミの《冷たきこころ》がその霞のごとき幕であり繭であるかのようになってしまいました。《クウキ教 ないし 大いなるエーテル教》です。

 (さ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして、知らず知らずのうちに、この熱狂に包まれ、

  「ゆか! ゆか! ゆか! 超絶かわいい ゆかたん!!
  「ゆーかたん! ゆーかたん!」

 とともに絶叫するのでありましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (し) こうだとすれば この魂振りは むしろ何とかこのエーテル教のお祭り(つまり マツリゴト)をほめそやそうとするのが目的であって その中で ゆかたんはこう語りかけます。

  お兄さんたち! あらたないのちを得てください。
  みんなが一人ひとり 《りっぱな蚕に成ってね!》

 というわけで 蚕と繭の拡大再生産へと囃し立てられることになります。

 (す) このエーテルの祭典では:
  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 この時、この《蛸壺》は、個ではなくアイドルを媒介として全体とつながり、《個》と《全体》が完全に溶け合った状態に至っているんでしょう。《全一》状態。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 (せ) ◇ ~~~~~~~~~~~~
 こうでも考えないと、日本的現象である《アイドル》とその《お祭り》は説明がつかない。
 国民(というそうな)は
 「着信0件 メッセなし
 俺の携帯ゆか専用
 俺とゆかたんコードレス!!!」
 という《蛸壺》ですんで。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ いまの若い人たちは そんなに孤独なんですか? AKB って あっかんべええ! という意味ですか?

 (そ) ◇ ~~~~~~~~~~~~
 《アイドル》は、《蛸壺》が作る繭の一つですよ。
 フィクションであり、虚構であり、妄想の権化です。
 そして、《アイドル》はその役割を完全に果たす必要があります。
 《アイドル》は、非日常(ハレ)的存在であり、日常性(ケ)を感じさせてはいけない。トイレに行くなんて思わせてはいけない。まして恋愛など論外!!
 《アイドル》は人間でないので。

 そして、この《繭》である《アイドル》とその《お祭り》があれば、
 日本人は生きていけるし、その同一性を失わないのでしょう。
 《蛸壺》を一時的に脱却できる。


 究極のアイドルは、天皇なのでしょうけれどね。
 天皇が災害の被災地に行く───儀式であり、神事です───だけで、被災者は慰められ、魂が振られる。
 そして、その様子をTVなどで見た多くの国民は《蛸壺》状態を脱し、「(あの人たちのために)何とかしなければ」と奮い立つ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 おあとがよろしいようで。

お礼日時:2014/10/15 18:08

日本人はなぜ認識論を日常生活で使わないのか


日常で使うことこそ哲学であり、使わないなら何の役にも立たない

ってことを言いたいのですか?
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この回答へのお礼

 ええ。そのとおりです。

 ご回答をありがとうございます。


 たしかに日常生活と言えば ここ(哲学カテ)でも人生相談のような質問の場合には 《具体的な実践》としての回答が寄せられます。でも ほかの場合には だいたい《世界はこう見られる》というところまでだと思います。

 こう世界が見られるのなら そのあと どうするのか? という問いがあってよいのではないかと。


 日常で使えるような哲学(または そのように実践する地点の寸前にまですでに明らかにしている認識論であり思想であるもの)が のぞましい。

 こう思っているのですが どうでしょう? という問いです。

お礼日時:2014/10/15 15:09

>ちょっと抽象的すぎますか?



というよりも理論が破たんした文章です。

以下は理論的な思考についてのあるサイトからの抜粋です。

『考えを表現する能力は、考えの中身そのものと同じくらいに重要なものです。

インターネット上の議論でよく見かけるのは、自分の言いたいことがうまく伝わらないときに、その原因を相手の読解力の低さに求める人です。しかし実際には書き手側の説明不足に起因することも多々あります。』

『考えを表現する能力は、考えの中身そのものと同じくらいに重要です。例えば多数決の場であなたの意見を通すためには、あなたと異なる意見を持つ者を説得して最多数の支持を得なければなりません。そのためには、異なる意見を持つ者でさえ納得するような、根拠のある論理的な主張を示す必要があります。

日本人のなかには、「主張を述べるさいは正しい結論さえ述べればそれで十分であり、根拠を説明する必要はない」と考える人がいます。しかし、根拠の無い主張が同意を得られるのは、もともと同じ意見を持つ者からだけで、意見の異なる人の同意を得ることはできません。それでははじめから何も主張していないのと同じことなのです。意見の異なる人を説得できるのは根拠のある主張だけです。

ただしその根拠が結論を正しく支えていない主張は非論理的な主張(詭弁)であり、そのような主張が論理的な思考をする人の同意を得ることはできません。論理的な人の同意を得られるのは根拠が結論を正しく支えている論理的な主張だけです。そのことについても第二章以降で詳しく解説します。

もしあなたがはじめから思想的な多数派に所属しているのなら、たとえあなたが根拠のない非論理的な主張をしたとしても、あなたと同じ意見を持つ多数の人からの同意を得ることができます。それによってあなたは知的な気分に浸るかもしれません。しかし意見の異なる者に対しては全く影響力がないので、やはりなにも主張していないのと同じことなのです。』
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この回答へのお礼

 ☆☆ (趣旨説明欄)  ~~~~~~~~~~~~~
 認識から実践へとすすむことを何故しないのか?

 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?

 

 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?

 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これらのくだりは 掛け値なしの表現ですから 分かってもらわねば困ります。



 ご回答に感謝しつつも 中身は 勇み足ですね。それをねらった――ようなかたちになってしまいましたね。釣ってしまいましたね。ふらうさん。

お礼日時:2014/10/15 14:16

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