プロが教えるわが家の防犯対策術!

 あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。

 あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。

 理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。



 認識から実践へとすすむことを何故しないのか?

 実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?

 《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?



 要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?

 

 ちょっと抽象的すぎますか? 

 ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。

 在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。

 起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?

 哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?

A 回答 (23件中1~10件)

お礼読んだよ。


やあ、私の手法ではね、

要するに 回答としても書いたようにすでに死者の国を通り過ぎて来ているのだから 早くそのことに気づいて欲しいし 気づくようにしてやって欲しい。

最近これに手が届きそうなとこまで、追い詰めつつあってね。
死ぬなんて御免だ。
こういう形の開眼から、生きる自らの意思と言うのを自覚させようたという成り行きになりそうだ。
ただし、オカマの懇願がみっともなかったらその限りではない。
タコをどりを面白がっているが、悪党づらした私なりの親切は全うしているよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 そうだなぁ。

 げんみつに言えば:
 ★★ もうすぐ君はシアワセになれるよ。
 ☆ これは 気休めに過ぎない。

 気休めに過ぎないという意味は あしたになれば・・・ きっと明日には・・・という先延ばしをしているということ。

 永遠に先延ばしになってしまうということ。



 たとえば明日は明日の風が吹くというのは 明日に期待を置いているわけではない。そうではなく いまを思い切ったのである。

 あるいは 《とき》が満ちるという自然史過程をさとったことである。

 すなわち そのいま《シアワセになっている》ことである。

 というより すでにシアワセになっているとさとることである。




 また《悪党づらした》という言葉があるが これは ほんとうの悪党ではない。

 ほんとうの悪党は わたしのように《ぶっきらぼう》がそれだ。何にも言わずに突き放すこと これだ。


 あんたは 言ってみれば 介護士みたいにもろもろの細かいことでお世話をしている感じである。つまり 悪党ではない。

 悪魔なるわたしなら その相手に 立って歩け! というところである。そう言って ほっぽり出す。




 自分自身に自信をいだくのではなく ナゾのなにものかにお任せである。




 ちょっときつかったかな。

お礼日時:2014/10/16 05:18

>参加者は それぞれ自分の目的において参加しているに過ぎないということでしょうか。



そういうことです
もちろん真実の探求がダメだと言ってるわけじゃないですよ
ただ、bragelonneさんの主張だと質問者も回答者も真実の探求をしなければならないことになります

>ぢゃあ それでよいのではないでしょうか?

それでよいのであればこの問題提起は解決です
真実の探求のために日常・非日常の認識論を合わせて回答すべきという主張を曲げて
あくまで探求したい人だけで探求すればいいということを認めるってことですから
わざわざ冒頭でことわらなくても済みますね
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ただ、bragelonneさんの主張だと質問者も回答者も真実の探求をしなければならないことになります
 ☆ なぜ?

 わたしが怒ったらこわいから?





 すべて自由です。よ。

お礼日時:2014/10/17 20:04

>☆ 自己中心的にして 他者のことをも思いやれ。

でしょうか。《小事から大事へ》と。

それ以前でしょうか。
「まずは自身を見ろ」

その先の話しは、それが無ければ
話しが始まらないでしょう。

と言うことで、きりがいいようですので終わりとします。

お邪魔様でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~
 それ以前でしょうか。
 「まずは自身を見ろ」
 ~~~~~~~~~~~  
 ☆ それでもよいですけれど たとえば《実存》という言葉をはさんだことは 自己について その本質といった観念の世界に入るのではなく いま・ここなるわれについてその思いや意志をおもんじつつ 行動に出ようという意味ではありました。




 おつかれさまでした。

お礼日時:2014/10/17 15:06

>お節介のようですが 真実の探求としては そうなるはずです。



仰る通りですが、それをここで言うのは場違いでしょう
だってここは真実の探求を目的として設けられた場ではないですよ

>一括して一般的なかたちで 問いを問うてもよい。このように思いますが どうでしょうか。

一般的には問えないでしょうね
もちろんbragelonneさんのように真実の探求をするために活用する人もいるでしょうけど
そうじゃない人もいますので・・・
ですのでこのような形で問題提起するよりも、まず質問文の冒頭に
哲学的真実の探求を旨とする質問であり、回答も真実探究の態度を持って行うことを望む
と、ことわっておいた方が効果があると思いますよ
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ だってここは真実の探求を目的として設けられた場ではないですよ
 ☆ 意味が分からないのですが。

 参加者は それぞれ自分の目的において参加しているに過ぎないということでしょうか。

 それはそれとして認めた上で しかも哲学と銘打っているからには 参加者がどう思おうと自由ですが 真実の探求という要素はあると言ってよいのではないでしょうか。


 ★ もちろんbragelonneさんのように真実の探求をするために活用する人もいるでしょうけど / そうじゃない人もいますので・・・
 ☆ ぢゃあ それでよいのではないでしょうか?

 一部の者がほかの一部の人たちに あらためて問うてもよいはずです。

 おれはいやだという人は そう答えればよいでしょうし そもそも質問をパスすればよい。となります。

 つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 まず質問文の冒頭に

  哲学的真実の探求を旨とする質問であり、回答も真実探究の態度を持って行うことを望む

 と、ことわっておいた方が効果があると思いますよ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とするのと 同じことですよ。

お礼日時:2014/10/17 15:03

>これを しかしながら世間では 自己チューと言って 落としめています。



認識不足でしょうね。
人に必要以上に干渉して、人を変えようとするから自己中です。
自分を認識し、明らかにする所から自分がどう動くかを選択するのは
自分の道を歩くだけでしょう。

たとえば歩いていたとして、ゴミがたまたま落ちていた。
自分がそれを気にくわなかった。

人に「拾え」と言うのは自己中で、自分で黙って拾うのは
自己中では無いでしょう。

そういう日常の当たり前の動作も、明らかにしていなければ
人は何も見えない状態に陥ります。

明らかにせずにいれば、その違いなどどうやって分かりましょうか。

日常の小事を認識できなければ、自分の大事も適切に選択できるのか。
そして、集団における大事の選択など任されないでしょう。
日々の足元から、認識は作られていきます。

小事をおろそかにしているほど、人間は根底から覆されるのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ★ 人に必要以上に干渉して、人を変えようとするから自己中です。
 ☆ なるほど。《干渉》を始めようとするそのときが 自己中なる状態だということですか。


 ご回答をありがとうございます。


 ★ 人に「拾え」と言うのは自己中で、自分で黙って拾うのは / 自己中では無いでしょう。
 ☆ なるほど。自己中として閉じ籠っている――つまり蛸壺状態にある――からこそ 他人に何かを言おうとする。ですか。おもしろい。


 きよらかなおそれを抱いた控えめの自己中心のウゴキは むしろ自分の行動――あるいは 実存――をこそ大切にするのだと。



 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そういう日常の当たり前の動作も、明らかにしていなければ
 人は何も見えない状態に陥ります。

 明らかにせずにいれば、その違いなどどうやって分かりましょうか。

 日常の小事を認識できなければ、自分の大事も適切に選択できるのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 自己中心的にして 他者のことをも思いやれ。でしょうか。《小事から大事へ》と。

お礼日時:2014/10/17 11:55

>あり得ないといった前提で考えるだけでは おかしい。


>こういった問題点です。煮詰めて言えば。

あり得ないという前提で考えるだけでどのような問題が起きるのですか?
というのも結局は質問者が納得すれば問題解決なわけですから
あり得ないという前提だけで考えることは本質的な問題ではないと思うからです
もしも質問者がそこに引っかかるならお礼欄や補足欄で指摘するか、別の質問を立てれば
よいと思います
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ というのも結局は質問者が納得すれば問題解決なわけですから
 ☆ このお考えには与(くみ)し得ません。

 なぜなら――そういう場合は 人生相談についてはあり得るかも知れませんが―― 問題は・哲学としては 出来るだけ万人にとって普遍的な内容を持つ答えであるようにと志向しているからです。

 質問者の納得が まだまだ普遍性に欠けているという場合が いくらでもあります。問題解決には 哲学としては 成っていない場合です。お節介のようですが 真実の探求としては そうなるはずです。




 直前の かんと‐あいさんも議論しておられるように 《前提》についてどう扱うかを初めとして 世界におけるいま関係する情況や当事者についての情報をいかに多く得ておくかによって その解決へ向けての選択肢にも いろんな幅が出て来ます。つまり そこで意志決定するための選択肢についても 前提が変われば・そして情報の量や質が違えば それに応じて中身が違ってきます。

 ですから 質問者ひとりが納得したからと言って めでたしめでたしと成るとは限りません。これが 哲学です。場合によっては 答えがない場合も・見つからない場合でさえあると考えられます。つまりは 次善の策で その質問者は納得したということになるはずです。



 ★ あり得ないという前提だけで考えることは本質的な問題ではないと思うからです
 ☆ ですから 両方です。前提は。
 今後も変わらないという前提と変わり得るという前提と 両方を大前提とするはずです。そういう問題ではないでしょうか。




 ★ もしも質問者がそこに引っかかるならお礼欄や補足欄で指摘するか、別の質問を立てれば / よいと思います
 ☆ それは そうでしょうね。

 と同時に そのように個別に一つひとつ対応するのと並行してこのように一括して一般的なかたちで 問いを問うてもよい。このように思いますが どうでしょうか。

お礼日時:2014/10/17 11:30

お礼ありがとうございます。




>ということは すでにクセ(エートス)となった選択の仕方としての意志決定であるように思われます。
>いつもの決断を繰り返している。こういうことではないかと。

そうですね。
誰しも人云々を延々と誰かに問う前に、己の蛸壺姿に気がつけってことになりますかね。

そこからしか、己を活かす道ってのは始まらないのではないかと思います。

自分の問題をないがしろにしていると、人の姿に自分の問題を投影します。
人の姿が気になった時こそ、自分に目を向ける時と思っています。

哲学者も、それを書いている人もいますが
仏教などもそれを書いていたと思います。

その人の認識で、その書いてある事を拾えるか拾えないかも決まってきます。

己の考えは、自身が起点です。
起点を誤らないよう、常に自分を認識するようにしなければ
選択の結果は、望まない方へ望まない方へと向かうだけです。

対人関係の摩擦の多くは「自分に気づけよ。自分の姿を見ろよ」と
周りが教えてくれているだけに過ぎません。

耳を塞ぎ知らぬ顔をするか、機会を活かすかは
それもまた本人の選択です。

結局は、全てが自分に返ってきますから。

目をつぶり耳を塞ぐ人は、人に言われても気がつかない。
そういう人にとっては、自分を明らかにするのは痛くて
このように書くと怒り出すかスルーするか
はたまた、自分だけは当てはまらないと思うか。

そんな感じに過ごして行く訳です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 そうですね。ご回答をありがとうございます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 己の考えは、自身が起点です。
 起点を誤らないよう、常に自分を認識するようにしなければ
 選択の結果は、望まない方へ望まない方へと向かうだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 少々反発を感じるでしょうが 考えるのは 自己という物差しで世界を認識することに成らざるを得ないので 《自己中心的》になります。つまり 《自身が起点です》。

 これを しかしながら世間では 自己チューと言って 落としめています。
 
 しかもそれだけに留まらず この自己を抜け出して ただただ世界の――モノをつうじての自然科学的な――認識に集中しようとする動きにまで発展して行っています。

 つまり 認識論の蛸壺への閉じこもりです。


 すなわち・すなわち:
 ★ 目をつぶり耳を塞ぐ人は、人に言われても気がつかない。
 ☆ どころか その科学的認識こそが 世界についての真実であると強く強く思い込んでしまっています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 そういう人にとっては、自分を明らかにするのは痛くて
 このように書くと怒り出すかスルーするか
 はたまた、自分だけは当てはまらないと思うか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 世界は《無》だと思っているのでしょう。《自己》に目をむけよ 内に省みよと言ったところで それはすべて世界なのだ 自己などは存在しないとまで 思っている。のではないでしょうか?

 これが 《しゃべる蛸壺》であると質問者は考えています。

お礼日時:2014/10/17 11:14

お礼ありがとうございます。



認識している量というか範囲というか、その大きさは
認識を意識上に顕在化しないと選択肢は増えません。
選択肢が無けれな悩みますが、認識が上がれば状況が同じでも選択肢は多く見つけられます。


>この選択としての意志決定が 往々にして 表示されていない場合があるようだ。

そうでしょうか。
背景や根拠は表示されなくても、誰しも意思決定のみが
表現に多いように私は思えます。


>または 選択肢を考えるにしても その前提としてすでに大枠となっている現状を変わらないし変えないものとして決めてしまっている。のではないか。

これこそが、思考が囚われての認識不足でしょう。

認識も選択肢も自分で広げるしかないのです。
今の自分を越えていかないと、広い認識も多くの選択肢も
人は手に入れられないのです。

どんな問題でも、必ず解決方法は存在する。
見つけられる自分になっていなければ、悩み続けるか諦めるかになると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 そうでしょうか。
 背景や根拠は表示されなくても、誰しも意思決定のみが
 表現に多いように私は思えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ。なるほど。ここの話として そうですね。

 言いかえると すでにいつも自分をそこに慣わしている事柄の中で起きる問題とその認識と解決法といった感じですね。確かに 《実践》をふくむところの《意志決定》もおこなっているようです。

 ということは すでにクセ(エートス)となった選択の仕方としての意志決定であるように思われます。
 いつもの決断を繰り返している。こういうことではないかと。


 すなわち:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 認識も選択肢も自分で広げるしかないのです。
 今の自分を越えていかないと、広い認識も多くの選択肢も
 人は手に入れられないのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といったことに帰結するようです。

 質問は そのありさまがあまりにも蛸壺に――タコツボ地獄に――見えたものですから 少々粗く荒い言いまわしにしています。・・・

お礼日時:2014/10/17 09:20

お久しぶりです。


再度チャレンジです。
お礼は、長ければ不必要です。

哲学は、思考における図面を引く基本的手法。
概念構築に必要なもの。

一人で何かをする時は、割と簡単なことが多いが
自分以外の人が関わり合い、何かをやる事や共に過ごす時間など
共有を必要とする時、常に修正が必要になる。

つまり、共有している間その相手との関わりに
適切な関係でいるために、常にその場で哲学を使います。

相手とどういう関係を構築したいのか?
例えば仕事なら、信用・信頼・協力・成果など
自身が望むことに向かうために、言動の選択をしますよね。

その時必ず、私は哲学を使います。
互いにいい状態になるよう、その場で自身の言動の選択肢を
常に検討しながらコミニュケーションを取るようにしています。


例えば家族、家に帰って夜くつろいでいる時に
嫁さんが毎晩お茶を出してくれたとします。

相手を見ずに無言で、ただ飲むのか。
新聞やテレビから眼を移さず、ありがとうだけ言うのか。
毎回、相手の眼を見て、にっこり笑顔で
「ありがとう。君が入れてくれたお茶を飲むと、心の底からホッとするよ。」
などの感謝を添えて伝えるのか。

それは個人の選択であり、自分がどういう哲学的背景から選択をするのかは
それぞれが主体としての自由裁量に任されています。
その選択の根拠が自分の中に明確に無ければ、今の私でも選択はおそらく気分でぶれます。

根拠も哲学なら、言動も哲学をその場で臨機応変に使います。

一人で哲学なら、例えば片付けに三段論法とか使いませんか。
哲学は思考のための構造でもありますから、分解すれば考えの中に
手法は沢山含まれます。

そういう事を、一つ一つ丁寧に認識に上げて行く人と、そうでない人がいます。
私も以前は認識していませんでした。
自分で自分がどうやらまずいと気がついてから、選択を変えるようにしてきました。

が、普通は黙って気がついて、黙って変えていきますよね。
選ぶのは、個人の意思の自由裁量ですから。

やっていって分かったのは、日常の生活で適切な選択を積み重ねるのが
大切、あるいは重要な場面での選択にも全て反映されると言うことです。

そういう概念を、自分で日々構築するする訳ですから。

他者に向け愛や誠実で常に対応しているのか
見下したり、バカにして過ごしているのか
人とは直接会ってやりとりすれば、おおよそ見えてきます。

その人全てに、反映がにじみ出ますから。
だからはっきり気がついている人も、通常はその話しは出しません。
それは、おそらく自分で気づく必要があるからです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。

 先に 認識および思考があって そのあと 実行がある。

 実行としては認識論で得られた問題を解決するための選択肢 ここから選択することである。


 この選択としての意志決定が 往々にして 表示されていない場合があるようだ。

 または 選択肢を考えるにしても その前提としてすでに大枠となっている現状を変わらないし変えないものとして決めてしまっている。のではないか。

 そういう問いとして ご見解の内容と絡み合っていましょうか?

お礼日時:2014/10/17 05:41

やっぱり…



ナラハシが「ならわし」なら、そう書くべきです。
なぜわざわざ口語体を使う?議論の場には装飾はいりません。
そうやって読み手に余計な思考をさせるのは、靄を読めというよりは煙に巻くということ。それがBスタイルなのでしょうけれど。

あと、横レスながら根拠がないのは考えがないということと同じですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 あなたからわたしはブロックされているのを確認しました。

お礼日時:2014/10/16 20:57

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!