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《什一献金》《十一献金)という言葉をご存知ですか。
クリスチャンの信者は、収入の1/10を自身の所属する教会などに税として払わなければならない、という宗教的掟のことです。

~~~~~~~~
マラキ書
第3章
3:8人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。 3:9あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。 3:10わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

http://bible.salterrae.net/kougo/html/malachi.html
~~~~~~~~
などの記述がその根拠とされており、これは神さまが定めた掟です。
この掟を破る自由は与えられていますが、この掟を破る者は義人たりえず、悪人となります。


で、皆さんに質問します。

 1 神はなぜ(1/10の)捧げ物を要求するのか? 1/10の根拠は?
 2 収入の1/10を収めないと、神のあわれみにあずかれないのか? 納めない者は神から呪われるのか?


カトリックの信者さんたちは、毎月、収入の1~3%くらいを教会に納めているらしいですけれど、これでは律法違反ですよね。
行為義認の観点からしますと、このことは義ではない。であるから、「神やイエスの救済にあずかれない」となるのでしょう。
さらに言葉を連ねるならば、

 3 この律法を破るということは《神を試すこと》になるのではないか?


教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (20件中11~20件)

大嫌いですよ



あっ そう・・

そんな人でも慈しみ 愛を与えるのが 神なので どーでもイイ・・

どーせ 最終的には 神の元に辿り着けるから

じゃ(^o^)/
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この回答へのお礼

☆どーせ 最終的には 神の元に辿り着けるから
◇わたしは、ゲヘナ行きなので、キリスト教の神のもとに行けませんよ。
裁きの時、黄泉の世界を出され神の前に立つことがあるかもしれませんが、
すぐに黄泉の火の池に投げ込まれ、第二の死を迎えるに決まっています。

それに、イエスは「誰もが神の国に入れる」とは言っていませんよ。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/13 00:26

こんばんは。



>>《什一献金》《十一献金)という言葉をご存知ですか。

話には聞いたことがあるやうな気がする、その程度です。ですから、詳細な回答はできません。特に現代的な意味についてはまつたく回答不能です。回答番号1はおもしろいご意見ですね。

>>などの記述がその根拠とされて

マラキ書を引用してあるのは、意図的なのですか。律法に関してであれば、モーセ五書のレビ記27章30-33節をとりあげるのが妥当かと思ひます。

>>1 神はなぜ(1/10の)捧げ物を要求するのか? 1/10の根拠は?

回答番号1の方に敬意を表して今回は俗な見方をします。
レビ記27章には当然のことながら、祭司についての記述があります。レビ記とはさういふ本です。最終的には神のものでも、実質上は、祭司のものです。

日本の消費税10%と同じく、根拠が不明なのですが、十戒との関連なのでせうか。それともレビ族を除いた十一部族だから、十一なのでせうか。十分の一の根拠は私ではまつたくわかりません。

>>2 収入の1/10を収めないと、神のあわれみにあずかれないのか?
>>納めない者は神から呪われるのか?
>>3 この律法を破るということは《神を試すこと》になるのではないか?

古い契約は終了したのですから、ユダヤ教ならともかく、キリスト教では守る必要はありません。こんな税金を要求するのであれば、鯖や豚肉を食べることも禁止のはずです。


そんなことよりも、回答番号5の「お礼」のエンテメナの碑文のことに目が向きました。日曜日に倉庫の整理をしていて、学生時代のシュメール語の授業のノートがでてきて、エンテメナについての碑文を読んだばかりなものですから。運河の最近の発掘や研究の成果についてはわかりませんが、いろいろ言はれてゐるのですね。
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆マラキ書を引用してあるのは、意図的なのですか。
◇意図的です。
この質問をする前にすこし調べたのですが、とある教会(カトリック)の信者さんあての月定献金の封筒に『マラキ書』のこの言葉が記されていたそうです。
(現在は、この引用が削除されているそうです。)


☆モーセ五書のレビ記27章30-33節をとりあげるのが妥当かと思ひます。
◇『レビ記です』と、教会の聖職者はレビ人じゃないから徴収できない、となってしまいます(ポリポリ)。

さらに、
~~~~~
レビ記

27:30地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。

http://bible.salterrae.net/kougo/html/leviticus. …
~~~~~
とあり、
海や川、湖などで漁業を生業にしているものは免除されるのか、という厄介な問題が出てきます。



☆古い契約は終了したのですから、ユダヤ教ならともかく、キリスト教では守る必要はありません。
◇なるほど、なるほど。



☆そんなことよりも、回答番号5の「お礼」のエンテメナの碑文のことに目が向きました。日曜日に倉庫の整理をしていて、学生時代のシュメール語の授業のノートがでてきて、エンテメナについての碑文を読んだばかりなものですから。運河の最近の発掘や研究の成果についてはわかりませんが、いろいろ言はれてゐるのですね。
◇シュメルについて書かれている文献(日本語)で、エンテメナの王碑文のいくつかを見ただけでが私もくわしくは知りません。
ただ、ハンムラビ法典に見られる「目には目を、歯には歯を」という同害報復思想というのは古代オリエント的なものではなく、被害者への金銭による賠償を基本にするものだったようですね。
「目には目を」というのは、目を潰した人には最高でもその人の目を潰すことしかできないという量刑の限度を記したものだということをいう研究者などもいるようですよ。
実際には「目には目を」ということは行なわれなかった、と言われているようです。

お礼日時:2014/11/13 00:13

確かに・・解からないから質問してるのは判る・・・が 「納めない者は神から呪われるのか?」って(笑)



神が人を呪うのなら もう とっくに人類は この世に存在してません(笑)

キリスト教を信仰してるのなら そのくらい解っての信仰を・・・
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この回答へのお礼

私は、キリスト教を信仰しておりません。
教養の一つとして、聖書やキリスト教などを勉強しているだけです。
そして、キリスト教なる宗教を好きか嫌いかと問われれば、大嫌いですよ。

お礼日時:2014/11/12 22:44

ドイツ連邦には宗教税があり、給与(収入)から天引きされます、連邦はそれをキリスト教の各派の人口に従ってぶんぱいします。

もちろん信教の自由があるから、ユダヤ教、仏教、モスレム、無宗教の方々は申告すると全額戻って来ます。
これは租税、付加価値税(消費税)とは全く別。
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この回答へのお礼

ほ~、ドイツには宗教税があるのですか。
まったく知りませんでした。

貴重な情報の提供、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 22:28

似たようなことが日本でもありました。

僧兵を抱える宗教集団に寄進すると領主への年貢を免れたのです。また寺社の荘園もそのような性格のものです。さらに戦国時代の門徒衆と呼ばれる浄土真宗です。越前や伊勢や石山がまるで宗教王国のようになっていたのです。だから信長に攻撃されたのです。
神に1/10寄進するほうが、領主に年貢を納めるよりも安くついたのでする。結局は誰が取るのかの問題です。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

ヨーロッパ史やキリスト教史などの知識が基本的に欠如しているおり、しかも、ローマ教皇直轄地の税制について知らないので何とも申し上げられません。
どうだったのでしょうかね。
中世ドイツは、ローマ教会から牝牛のように搾りに搾り取られて───このため、ドイツは《ローマの牝牛》と呼ばれていた───、国家や領民は疲弊してしまっていますから、ローマ教会による搾取、取り立てはかなり苛烈なものだったようですよ。

お礼日時:2014/11/12 22:26

 こんにちは。

例によって ほとんど誰からもまだ承認を得られていない自説を述べます。


 1. 神と人との契約は アブラム(のちのアブラハム)とのものが 基本であり 大幅に強いて言えば このけっきょくはアブラハムなるおぢさんの――人類史における最初の――信仰というものの成立が すべてだと捉えます。

 2. したがって 新約聖書のときには言うまでもなく 旧約聖書の時代にあっても この《信仰》という動態が 人と神との関係のすべてであるからには 《献金》や《いけにえ》などはまったく要らないものだと捉えます。

 3. アブラハムのあとに モーセと契約したのは――モーセとて 個人としてはアブラハムと同じ信仰に立っていたのであり―― あくまで民のあいだの秩序を或る意味で優先させたため 倫理規範としての律法もがあたえられた。と採ります。

 4. つまりは モーセの律法は――もともと信仰(つまりは 神の聖霊)のチカラによってこそ守ることができるのであって 人間がその能力と努力だけでは誰も守ることは出来ないというものであって―― イエスの登場したときからは そのオシエの人への拘束力は 基本的に消えたと捉えます。

 5. アブラハムとの契約は 信仰だと言いましたが そこでヤハヱーが約束したことは 要するにアブラハムのような信仰人が 浜の真砂のごとく湧き出て来るであろうという未来社会のことです。むろんイエスのときからの青写真になると思います。

 6. あとは イエスの登場するまでは ヤハヱ―はもっぱらユダヤ民族のための神であったわけで そのためいろいろと心の狭い思想が出て来ていると考えます。異民族に対する民族浄化としての戦争などが いちばんの問題であると思います。

 7. いけにえなどは その習慣は決して絶えなかったのですが 基本は《わたし(=神)の求めるのは あわれみであって いけにえではない》(ホセア書6:6)という見方であると考えます。旧約のときからです。

 8. 律法に対する人間の態度をめぐって イエスの語ったところを最後に引いてみておきます。:
 
 ▲ (マタイによる福音書12:1~8)~~~~~~
 1: そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
 2: ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
 3: そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
 4: 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
 5: 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。 
 6: 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
 7: もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
 8: 人の子は安息日の主なのである。」
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆ 2. したがって 新約聖書のときには言うまでもなく 旧約聖書の時代にあっても この《信仰》という動態が 人と神との関係のすべてであるからには 《献金》や《いけにえ》などはまったく要らないものだと捉えます。
◇要らないでしょうね~。
神への感謝の念が自然にそのような形で現われたのならば、それはそれで有りなのでしょうが。

もっとも、アブラハムおじいさんがイサクを神に捧げようとした、という厄介な問題があらたに出てきますけれども、これはそのような事実があったと考えるのではなく、寓話として読み、解釈するべきなのでしょう。



☆ 6. あとは イエスの登場するまでは ヤハヱ―はもっぱらユダヤ民族のための神であったわけで そのためいろいろと心の狭い思想が出て来ていると考えます。
◇なぜ、ユダヤ人は割礼をしなければいけないのかを知らないのですが、
ユダヤ人のこの割礼という風習・律法について、パウロが『ガラテヤ人への手紙』で
~~~~~~
5:2見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。 5:3割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。 5:4律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。 5:5わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。 5:6キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

http://bible.salterrae.net/kougo/html/galatians. …
~~~~~~
と言っていますよね。
パウロ神学なので、クリスチャンでもキリスト者でもない私には、これがキリスト教一般の考え方かどうかは知りませんけれど、パウロには脱ユダヤの動きが見られますよね。
だから、エルサレムにあった原始キリスト教会と喧嘩別れする結果になった。
エルサレムとパウロ、どちらが歴史上存在したイエスの立場により近いのかは分かりませんが、パウロは律法学者であったわけですから、ユダヤの律法(主義)の限界について誰よりも知っていたのでしょう。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 22:10

古代社会というのは、マルセル・モースが「贈与論」で言っているように贈与互酬制を原理としていました。


貨幣経済が登場する以前の古代共同体が人と人を結び付けている紐帯が、贈与互酬制でした。
モースは、人に物を贈与すると「マナ」とか「ハウ」という霊がその物と一緒に相手に渡り、贈与された者はそのお返しをしないと霊が祟るから、お返しをしないではいられない、そうして物を人に贈与し、贈与された者はお返しをすることで、共同体が成り立っていた、と言っています。
この贈与互酬制が宗教に現われたのが、「供犠」でした。
神から生命を贈与されたのだから、そのお返しに、「人身御供」をして生命を捧げないと神の祟りを招く、そういう「人身御供」の習俗は古代世界に広く見られます。
ウェーバーの「古代ユダヤ教」によれば、ユダヤ教が「供犠」とか「人身御供」という古代社会の贈与互酬制の習俗を断ち切って、神との「契約」という観念を歴史上初めて持ち込んだ、と言っています。
それによって人類は「呪術から解放された」のだ、と言っています。
昔は呪術で、人に魔が憑りついたと言っては呪術師が神秘的な「お祓い」や「祈祷」をしていましたが、キリスト教はその種の「呪術」「お祓い」「祈祷」などを追放してしまいました。
キリスト教は神から授かった、贈与された生命という贈り物に対するお返しをイエスの「罪の贖い」によって犠牲に捧げたのだから、もはや人類は神に対してお返しをしなくても良いことになり、新たに共同体は神と人間との「契約」によって作られた共同体になりました。
これが旧約聖書の、モーゼの神エホバとの契約、つまり「十戒」です。
西欧世界は、古代共同体の贈与互酬制に代わって、相互契約の観念を導入することによって、「人身御供」とか「供犠」を廃止したのです。

1、「なぜ神は10分の1の捧げものを要求するのか?  10分の1税の根拠は?」
それでしたら、あなたの指摘された旧約聖書に典拠があります。
中世のヨーロッパはその3分の1が教会領で、税金は収入の10分の1でした。
この10分の1税は中世だけでなく、ローマ帝国の属領も10分の1税というものを徴収されました。
もし、税を納めるのが嫌ならば、兵士を出さねばなりませんでした。

しかし、その広大な教会領も「カノッサの屈辱」の頃のヘンリー4世と法王の対立の頃を頂点として次第に衰微し、16世紀に英国のヘンリー8世がローマ教皇庁と対立して、英国内の教会領をすべて没収すると、まったく形骸化しました。

2、「収入の10分の1を納めないと神の憐みにあずかれないのではないか? 納めない者は神から呪われるのではないか?」
すでにイエスが十字架で人類の罪をあがない、自分を「人身御供」として捧げたのですから、もう人民は10分の1税を納めなくても、神エホバから祟られることはないはずです。
そしてユダヤ・キリスト教は「贈与互酬制」に代わって「契約」によって営まれるようになったはずなので、神の代理人であるローマ教皇庁とは対等の資格で、契約によって税を納めれば済むはずです。

3、「この律法を破るということは<神を試す>ことになるのではないか?」
ユダヤ・キリスト教の「律法」は神エホバとモーゼの「契約」に基づくものですから、一方的ではなく、相互契約です。
もし、教皇庁がその「契約」を破って、一方的に人民に10分の1税を同意なしに、強制的に徴収しようとするなら、それは「契約違反」であり、それによって神から祟られるはずはないはずです。

以上、ユダヤ・キリスト教によって、古代共同体の「贈与互酬制」の「供犠」とか「人身御供」という習俗が「契約」にとって代わり、近代的な「契約社会」に移行したという、ウェーバーの「古代ユダヤ教」の考えに基づいて、述べさせていただきました。

この回答への補足

◇ユダヤ教には今日でも《大贖罪日》があり、供犠が行なわれます。
と書きましたが、
《大贖罪日》はありますが、司祭階級(レビ人、その末裔とされるサドカイ人)が消失し、さらに神の宮であるエルサレムのソロモンの神殿が失われているので、この供犠を行ないたくても行なえませんね。
ですが、ユダヤ教から供犠が失われたのは、供犠を行なう司祭階級、神の宮が失われたためであり、ユダヤ戦争(66~74年)でエルサレム神殿が消失したからです。
 ───エルサレム神殿はローマ軍によって焼かれた。そして、神殿と深く結びついていたサドカイ人も神殿の喪失とともにその力を失い、消滅した───

ユダヤ教の供犠について、ググってみましたら、
~~~~~~
しかしユダヤ人はローマ帝国の影響下にあった他のどんな民族よりも長い間、特別な場合には人間を生贄にささげる習慣を保持していた。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM …
~~~~~~
というものを見つけました。
ネットの記事なので、この記述を鵜呑みにはできませんけれど、出典が明かにされているので、まったくのデタラメというわけではないのでしょう。
そして、この記述が正しければ、ユダヤの民において、ローマ軍によるエルサレム陥落まで、人身御供の風習があったということになるのでしょう。

補足日時:2014/11/13 10:33
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この回答へのお礼

詳しい解説、ありがとうございます。


☆ウェーバーの「古代ユダヤ教」によれば、ユダヤ教が「供犠」とか「人身御供」という古代社会の贈与互酬制の習俗を断ち切って、神との「契約」という観念を歴史上初めて持ち込んだ、と言っています。
◇ユダヤ教には今日でも《大贖罪日》があり、供犠が行なわれます。
~~~~~~
出エジプト記

30:10アロンは年に一度その角に血をつけてあがないをしなければならない。すなわち、あがないの罪祭の血をもって代々にわたり、年に一度これがために、あがないをしなければならない。これは主に最も聖なるものである」。

http://bible.salterrae.net/kougo/html/exodus.html
~~~~~~

そして、この記述にそって、新約の『ヘブル人への手紙』が書かれています。
イエスが神に大祭司に選ばれ、自身を生贄にして、《大贖罪》を行なった、というわけです。
ユダヤ教の《大贖罪》は毎年行なわれるものであるけれど、イエスのそれは完全なもので一度でよい、となる。

また、契約思想は、ユダヤ教成立以前の古代オリエントにひろく見られるものです。
出エジプト以前にヒッタイトと古代エジプトの間に国際条約も結ばれています。
さらに、紀元前2100年頃には、世界最古の法典とされるウル・ナンム法典というものがシュメルで編まれています。

ウル・ナンム法典
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB% …

ラガシュのエンメテナ王(紀元前24世紀)の王碑文には弱者救済、都市民に自由を付与することが国王の責務であるとさえ書かれています。これは「都市民と王との間に契約関係が成立していた」と考えていいのでしょう。



☆昔は呪術で、人に魔が憑りついたと言っては呪術師が神秘的な「お祓い」や「祈祷」をしていましたが、キリスト教はその種の「呪術」「お祓い」「祈祷」などを追放してしまいました。
◇現在でも、カトリックでは《悪魔祓い》が行なわれていますよ。
キリスト教で否定されるのは異教の呪術やお祓いであって、キリスト教に基づくこれらは否定していません。
そのもっとも典型的なものが過去に何度も大々的に行なわれた《免罪符》でしょっ。



☆キリスト教は神から授かった、贈与された生命という贈り物に対するお返しをイエスの「罪の贖い」によって犠牲に捧げたのだから、もはや人類は神に対してお返しをしなくても良いことになり・・・。
◇これは《贖罪》の話であって、だからと言って、
キリスト教徒やキリスト者が旧約聖書に記述されている律法を免れるということにならないのでは。
イエスが贖罪をしたから、「汝、殺すべからず」を守らなくていいのですか。
イエスの死によって帳消しになったのは、それまでの罪───特に宗教的に問題となるのは原罪でしょう───であって、それ以後の人が生まれてからなす罪ではないのだと思いますが・・・。


☆もし、教皇庁がその「契約」を破って、一方的に人民に10分の1税を同意なしに・・・。
◇教皇庁が説明責任を果たしているかどうかは大いに疑問ですが、カトリックの信者になるという契約が教会と信者の間になされているのですから、同意はなされている、と解釈できるのでは。
これが嫌なら、教会との縁を切ればいいだけの話ですよ。

また、1/10税という掟がイエスによってご破算になったという根拠もないように思われます。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 21:33

日本では宗教法人の固定資産税や寄付は無税です。



という事は国が税金をプレゼントしているという事ですね。

総額10%以上だと思います。
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この回答へのお礼

なるほど、なるほど。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 20:12

聖書を引用してるのに  捧げ物の意味が解からないとは・・・・



もう一度 よーく聖書を読んでみれば?

何処かに書いてた筈だから・・・
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この回答へのお礼

分からないから質問しているのですよ。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 20:11

回答にはならないでしょう。


でも、あえて書きましょう。
信者という文字を一文字にして読んで下さい。
    
「儲かる」のです。
そう信者を集めれば教祖様は儲かる。
古今東西、宗教施設は物凄く立派な建物と決まっています。
それはすべて信者の寄付によって賄われた物にすぎないのです。
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この回答へのお礼

神さまを飯の種にしたというわけですね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/12 20:04

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