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人間は死にたくないはずだ、だから死刑には皆なりたくないはずです。

それでも、中には 宅間守や加藤智大のように、死刑になりたくて 殺人を犯した ふざけた人間もおります。

しかし、少数事例を一般化するのは無理がありますよね(*^^*)

なぜなら、「死刑になりたいから」と言って犯罪を犯す犯罪者は、犯罪者全体の1%にすら達しないからです。

また、自殺者にしても年間三万人と言われていますが、一億三千万の人口から見るとやはり1%にも達していません。

したがって、自ら死を望む人々(犯罪者、自殺者など)は特殊な事例でしかなく、一般化できるものではないことは明らかですよね(*^^*)

また、自殺者について言えば、死ぬこと自体は目的ではなく、何らかのストレス要因(挫折、借金、病気など)からの解放の手段として死を選択しているだけであり、そのような理由が無ければ死ぬ人はいないでしょう。

私も 日本で自殺者が最も多く用いる方法と 死刑の執行方法の類似性から、何らかの関連があるのではないかと疑問に思いましたが、低学歴の私が 自分なりに導いた結論としては無関係だと思いますが、有識者の皆様は 死刑と自殺の関係を どう分析しますか?

A 回答 (4件)

だいぶ誤解があるようですが、宅間や加藤智の言う死刑になりたいは、言葉どおりの「死にたい」という意味ではありません。

それならその辺で首でもくくればいい話。
彼らの真の意図は、「あいつらを殺して俺も死ぬ」です。
嫁入りした女性が、ときどき暴力夫を殺して自分も死んだりするでしょう。あれと同じ。要は変形の無理心中です。
宅間や加藤は、周囲に冷遇されて生きづらさを感じていたから、無理心中に及んだのです。つまり、学の低いボキャ貧なため、心の内を正しく言語化できていないのです。
ここで誰しも疑問に思うのは、ではなぜ無関係な人間を殺すのかということでしょう。誰かに苛められていたなら、直にそいつを殺しにいけばいいではないか。なぜ彼らはそうしないのか。
それは、彼らを苛めてきた相手が、特定の一人に絞りきれないからです。
社会性のない生きるのがヘタな人間は、とかく集団から排除されやすい。また冷遇もされやすい。
つまり彼らを苛めていたのは、特定の個人ではなく、広く社会全般です。だから彼らが復讐するとしたら、特定の個人ではなく無差別テロの形態をとる。
要するにあの種の大量殺人は、広く社会全般に対する復讐と考えられるのです。
彼らがよく、「誰でもよかった」というでしょう。彼らを冷遇してきたのは特定の個人ではないからです。
なので、そのような人間が無理心中をはかるとしたら、街へ出て最初に出会う人間になる。被害者にとっては迷惑な話ですが。
で、殺した後は自分の死ぬつもりだったのが、死にきれず捕まっているだけなので、厳罰化等であの種の事件を減らせると考えるのはピンボケの議論です。自己表現の下手な奴へのケアを充実させる等の政策が必要となるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なかなか深い読みですね。

お礼日時:2014/11/24 15:13

”自ら死を望む人々(犯罪者、自殺者など)は特殊な事例でしかなく、


一般化できるものではないことは明らかですよね(*^^*)”
     ↑
数が少ないから特殊である、とは必ずしも
言えません。

自殺を初めて科学的に研究したエミール・デュルケーム
は、
「自殺は社会的に特別なモノではない。
 それが多いか少ないかが問題になるだけだ」
と結論しています。


”何らかのストレス要因(挫折、借金、病気など)からの解放の
 手段として死を選択しているだけであり、
 そのような理由が無ければ死ぬ人はいないでしょう。”
     ↑
人間という動物は面白いもので、ストレスが無いのも
ストレスになるのです。
ある程度のストレスは、必要なようです。


”死刑と自殺の関係を どう分析しますか?”
    ↑
上にあげたエミール・デュルケームは、自殺の
原因を集団との関係に求めています。

集団の価値観に飲み込まれた場合
集団から孤立した場合
自由があり過ぎてやる場合
などに分類していますが、
これをみると、犯罪と共通している部分が
多いように感じます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>これをみると、犯罪と共通している部分が
多いように感じます。
hekiyuさんの他の質問の回答では、死刑と自殺は別物であるようなことを書かれていましたが、hekiyuさんが
死刑を積極的に賛成される理由は何でしょうか?

お礼日時:2014/11/23 21:15

私も言われてみてはじめて二つはよく似ていると思いました。

しかし戦争に駆り出されて若くして死んだ人もやはり自殺だったのではないかとも思います。つまり社会が個人を排除するという点で全く同じではないかということです。従って自殺でない死に方ができる人は果たして存在するのかというほうが問題のように思えました。夏目漱石が「吾輩は猫である」の中で同じような問題を述べていると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/23 20:13

 このたぐいのことで質問しまくってるけど、もう一度。

まじめに。
 「1/4の奇跡」という本があってね、ある障害がでる遺伝子は、「なる」「ならない」をかけ合わせると、「なる×なる」「なる×ならない」「ならない×なる」「ならない×ならない」の4パターンにしかならないってのは遺伝の授業通り。で、「なる×なる」の遺伝子を受け取ったヒトだけ必ず奇形が出ることが発見されたのよ。つまり1/4は必ず障害を持つ子が生まれる可能性があり、それを絶やすことはできない。
 自殺の考えにスイッチを入れる遺伝子なるものも発見されている今、同じようなマイナス思考の遺伝子もあるはずだ。法で障害は治らない。つまり、ヒトを殺す考えの遺伝子を持つものも絶やせないと考えていいだろう。ある程度の抑止力はあっても、完全に絶やすことほどの関連性はないと考えていいと思う。
 そこから考えても、ヒトもそろそろ滅びに近づいている気がする。増えすぎたネズミは集団で入水することも知られている。滅びの遺伝子の発動が増えているとすれば、1/4の確率で、人を殺してみたいという者が発動し始めていることがあると考えても不思議ではない。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、確かに 日本人も含め 死刑に強い執着を示す民族は マイナス思考の傾向が強いような気がしますね。

お礼日時:2014/11/23 17:31

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