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高槻市東部にあるハイキングコース、太閤道について
本能寺の変の際に、中国大返しの道として通ったと言われています。
なぜ、西国街道を通らずに、わざわざ山道を通ったのでしょうか?
どなたか教えてください

A 回答 (2件)

西国街道も通ったと思います。



現在のハイキングコースが当時の太閤道と同一かは脇に置いておくとして、地図を見れば明らかですが標高300メートルを超える山道を大軍が通行するのは非現実的です。
本隊は(狭くて動きにくいことに変わりはなくともまだ平地である)西国街道を通り、別働隊が太閤道を進んだのでしょう。


ご存知の通り、山崎付近は山と川に挟まれた隘路です。
狭くなる箇所は阪急上牧駅付近と天王山のあるJR山崎駅付近。
地図だけ見れば明智軍が防衛線を引くなら、この二箇所の出口だと思います。

その上で明智勢に山側から横槍を入れられると最悪なわけで、それを防ぐ或いは逆に迂回して明智勢の背後や横に回りこむことを考えると、この山道を進む部隊は絶対に必要です。たぶんそれを念頭に進軍したのではないかと思います。

実際の合戦は上記2箇所より北寄りの小泉川で起こったのですが....。
まあ当時の山崎は東西に門を構えた自治都市のような集落だったそうなので、集落を巻き込むような布陣は両軍とも避けたんでしょうかね?


ご質問の趣旨とは外れますが面白い読み物を見つけましたので、ご紹介します。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e …

タイムマシーンが欲しいですね(笑)
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職場の団体旅行で天王山に登り、「山崎」の醸造所を見学しました。


そこでタラフク試飲させて戴きました(笑ホクホク)
別の機会に高槻市の京都大学地震観測所を見学し、亀岡市に抜ける道もドライブしました。
観測所入り口付近に藤原鎌足のものとされる古墳があることも知りました。
一帯の平野部が見渡せる絶好の場所でした。
山崎は交通の要所で、斎藤道三が油屋の主人に化けて商売繁盛させ、町の発展に尽くしたとも教わりました。
「天王山」は文字通りの交通の要所、諸街道を見渡せる小高地です。今でも囲碁などで、勝敗に直結する要所を「天王山」と言います。戦国時代の戦法では多くの軍が高地を選んで陣を張りました。
「天王山の争い」とは善く言ったものと感心します。
明智勢の本拠は亀岡。退路を塞ぐのに太閤道を抑えようとしたものかと思いますし、秀吉は治山治水の土木事業も盛んに行いました。単に「秀吉が開いた道」という程の意味かも知れません。
A No1 さんのご回答も大変参考になりました。
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