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江戸時代、日本のほかのアジア諸国(インドなど)はほとんどがヨーロッパ諸国の植民地になっていたと学校で習ったのですが、日本はアメリカ船やイギリス船など、船は来て開国は迫っていますが、植民地にはなっていません。
それが何故なのか不思議です。どなたか教えてくださいm(__)m

A 回答 (8件)

大体皆様の言われるように、極東にあり遠く、また軍事政権(武士)が支配してたので手間取る割に得るものが少ないと考えたようです。


しかし小笠原諸島は危機一髪でした。
そもそもヨーロッパ人も多く上陸していた島ですが、ペリー来航の時、先に小笠原に眼をつけたイギリスにはケムプエルの著述した「日本志」を根拠に「ここは日本固有の領土」と主張して手を引かせながら、日本にはそれを隠して「無人島だから日本領土とは認めない」と主張するふてぶてしさで、アメリカ領に組み込もうとしました。
幸い日本側もこの出典を知っているものがいて渋々手を引いたとか。
実際小笠原には幕末に上陸して住み着いたヨーロッパ人の子孫が生活してるとか聞きました。
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この回答へのお礼

そうなのですか!小笠原諸島が危機一髪だったとか、アメリカが上手くアメリカ領にしようとしていたことなど知りませんでした。
とても参考になりました。有難う御座いました!

お礼日時:2004/06/23 22:30

後は、列強間のバランスもあるでしょう。


東南アジアでは、ベトナムがフランス領、ビルマ(現ミャンマー)がイギリス領で、その中間のタイは両列強勢力の狭間で、植民地にはなっていません。
日本でも薩摩・長州はイギリス、幕府はフランスから援助を受けましたよね。
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この回答へのお礼

にらみ合いのおかげでということもあるでしょうね。確かに。
ご回答有難う御座いましたっ!

お礼日時:2004/06/23 22:36

日本が欧米諸国の植民地とならなかったのは、幾つかの理由が


あります。

・インドなどでは、国内の紛争にイギリスが介入し、相手
 を弱体化させながら、植民地支配を進めました。
 しかし、日本はまがりなみにも徳川幕府による統一支配
 がされていました。
 また日本も鎖国はしていましたが、長崎を通じて海外の
 情報は仕入れており、国内紛争に外国を介入させること
 の危険さを熟知していたため、明治維新の際にも倒幕側・
 幕府側ともに外国の直接介入を防ぐよう、最大限の努力
 をしました。

・イギリスはアヘン戦争で清国を武力で開国しますが、この
 戦争は国内・国外ともにたいへん評判が悪く、以後イギリス
 は、武力で支配地域を広めるより、貿易によって利益を
 得る政策をとるようになります。
 また薩英戦争でイギリスは薩摩藩と戦争しますが、予想
 以上に薩摩が奮戦したため、薩摩藩を通じての通商路線
 にいっそう傾くようになりました。

・開国当初は攘夷という名目で、外国人へのテロ活動が、
 極めてさかんでした。
 現代のアメリカ人のように、当時の欧米人も出先の植民地
 での行動がけっこう横暴でしたが、日本人の一部(主に
 下級武士)は他の国のアジア人のように従順ではなかった
 ので、日本を武力支配することへの困難さを感じていた
 ものと思われます。
(この外国人切り捨てという行動の最たるものが、生麦事件
 だったかと。もっとも切られたイギリス人が、明らかに
 日本の国法を犯していたので、相手に非があったと私は
 思うのですが)

なお、以前に類似の質問にも回答していますので、併せて
読んでいただけると幸いです。

『日本史について、教えてください!!』
 http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=644354

参考URL:http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=644354
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この回答へのお礼

分かりやすく、参考になりました。
とても詳しい説明有難う御座いましたっ!

お礼日時:2004/06/23 22:33

#3です。


国が変わっていたから、というよりも明治政府の方がより危機感を持っていた、ってことでしょうか。
どちらかというと、江戸幕府側は長く続いた鎖国体制もあって海外の情報に疎かったに対して、明治政府は、中心となった薩摩が薩英戦争で実際に英国と戦った経験などから、欧州列強の実力を正確に把握していました。ですから、明治政府が出来て最優先とした政策は富国強兵策で、列強に劣らない軍事力の整備でした。もし、江戸幕府が健在だったならば、危機意識が薄く軍事力整備できず、列強に支配されていたのではないかと思います。
中国や朝鮮でも日本と同じような動きは起きていましたが、清朝、李朝が健在だったために富国強兵策を実施することができずに列強(と日本)によって植民地化されてしまいました。
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この回答へのお礼

なるほど。分からなかった所も分かりました。
下のお礼のところに書かせて頂きました質問にまで答えてくださって有難う御座いました~!

お礼日時:2004/06/23 22:27

当時の日本の文化とか戦力にある程度の評価をしていたかとも思う


例えばイギリスと薩摩の戦争にしても
イギリス?と長州の戦争にしてもかなりの善戦をしている
当時の日本人に国(藩)を守る気概が有ったのでは?
なんせ武士道 死ぬ事を見つけたり なんて教育です
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この回答へのお礼

参考になりました。有難う御座いますっ!

お礼日時:2004/06/23 22:17

基本的には、欧州の植民地はアフリカ、西アジア、と西から東へという風に広がって行ったので、極東にある日本は比較的時間に余裕が持てたことがあるでしょう。



また、既に日本を支配していた江戸幕府が末期状態にあり、明治維新が比較的順調に進んだというのも大きいと思います(李朝の支配体制の強かった朝鮮、清朝の中国は植民地化されてしまいましたし)。
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この回答へのお礼

やっぱり遠かったから免れたという事が大きな要因なのですね。

明治維新が比較的順調に進んだからというのは、江戸幕府がそのまま権力を保持していたら欧州諸国に支配される事になっていただろう…、と言う事でしょうか??国が変わりかけていたから攻撃とか仕掛けにくかったのかな?

教えてくださって有難う御座いました!

お礼日時:2004/06/22 02:37

江戸時代には、まだまだアジア諸国はヨーロッパの植民地になっていなかったと思います。



確かにインドにおいてはプラッシーの戦い(1757年)以降に植民地化が進んでいましたが、ベトナムについては第1次サイゴン条約(1862年)あたりからでしょう。中国の植民地化開始は南京条約(1842)以降ですし、韓国の植民地化は明治以降ですね。

上記の年代を見てもわかるように、おおむね西から順番に植民地化事業は行われて来たわけで。このことから、日本がヨーロッパから遠かったため、植民地化される前に時間的余裕があったことが大きな要因だと思います。

実際、明治革命に手間取っていたら(たとえば江戸政権をフランスが支援し、京都政権をイギリスが支援するような形で長期間の内戦が起こっていたら)、植民地化される可能性は十分あったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

アジア諸国では、まだ植民地にはなってないところが多かったのですか。
なるほど…日本は遠かったために植民地にはなっていないのですね。

年表&ご説明分かりやすかったです。有難う御座いました。

お礼日時:2004/06/22 02:32

江戸時代末期にはヨーロッパ諸国ではクリミア戦争、アメリカでは南北戦争があったため、列強が日本を植民地化する余裕がなかったこと、また日本には「さむらい」という戦闘集団があったことが知られており、


手を出せなかったからだ、ということを高校の先生から聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

早速のお答え有難う御座います。

そうなんですか~!確かに自国が戦争していたら、日本に手を出している余裕はありませんよね。わかりやすいお答え有難う御座いました!

お礼日時:2004/06/22 02:04

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