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《成道》したあとに あぁ あのシッダールタちゃんぢゃないかと呼んではいけないらしい。
 経典にあるらしい。

 では 何故そう呼んではいけないのか? その根拠をおしえてください。

 つまり あっても大した内容のものだとは考えられない。
 理論として誰もが納得する理由などはなく 誰もが従わなければならない中身などはない。と考えるのですが これをめぐってご見解をお寄せください。

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    ★ 東洋大学准教授岩井昌悟先生:現代仏教塾 《初期仏教の輪廻思想》vol.1~6 ようつべ
     ☆ この講義を聴きました。

     よき研究者ですね。

     善業および楽果によっては まだ解脱しない。まだ また生まれ変わることがある。 
     無記業としてのおこないが 慈悲に通じる。


     《輪廻転生》は わたしは認めませんが 転生を別にすれば いいことを聴いたとよろこんでいます。ありがとうございます。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/26 00:08

A 回答 (2件)

先の質問ではどうも。



>>《成道》したあとに あぁ あのシッダールタちゃんぢゃないかと呼んではいけないらしい。
>>経典にあるらしい。
 これはパーリ『中部』(MNⅠ.171.18~172.1)にあります。 

>>では 何故そう呼んではいけないのか? その根拠をおしえてください。
 根拠としては、前にどっかの質問でお伝えしたことがある内容だと思うので短めにいきます。
 パーリ『増支部』には「仏は世間に生まれ、世間において成長したが、世間を超越しており、世間によって汚されることがない」(ANⅡ.38.30~39.3)とあります。だから、お釈迦様はバラモンに「あなたは神か?ガンダッバか?夜叉か?人か?」と尋ねられて、そのすべてを否定して自分は自分を何者かたらしめる汚れ(経には「濡」、輪廻に縛り付けるもの)をすべて滅しており、あえて言えばブッダとしか言いようがないとあります。(ANⅡ.37.23~39.9)これはブッダのありようを説き示したもので、パーリ『中部』にも、ブッダは「生じるということにもあてはまらないし、生じないということにもあてはまらないし、生じかつ生じないということにもあてはまらないし、生じかつ生じないでもないということにもあてはまらない。」(MNⅠ.487.31~488.2)として、私たちの五蘊でもってどんな定義づけしようとしてもどれもあてはまらないとしてます。これは、『スッタニパータ』でも、彼が存在するとかしないとか議論すること自体が成り立たないとしており(sn.1074~76)、私なんかも「いやいや、目の前にいるでしょ?」って言いたくなりますが私のこの認識自体が間違いなんでしょう。
 このあたりが根拠ですかね。お釈迦様は悟る前と後ではもうありようが違うわけですわ。だから、「よっ!ゴータマ。」とか「よっ!同輩!」と悟る前のありようのままで認識するのは間違いよってことなんじゃないかな。

>>つまり あっても大した内容のものだとは考えられない。
>>理論として誰もが納得する理由などはなく 誰もが従わなければならない中身などはない。と考えるのですが これをめぐってご見解をお寄せください
 ブラ氏の立場からすれば、大したことないのかもね。けど、これって悟った人のありようだから結構仏教では面白いとこなんだけどな。
 まぁ、この『中部』の初転法輪のところに関しては中村元先生はかなり否定的ですがね。この『中部』の中では、五比丘が「なんか、ほんとなれなれしく昔みたいに呼んじゃってすんません。」って謝るのに、お釈迦様が「それは過ちは過ちとして認識して反省してるんだったら、それを受け入れてやろう」みたいなことを言うんですわ。これに対して中村先生は、お釈迦様がこんな傲慢で失礼な奴なわけがない!だから、これは後代の付け加えだぃ!絶対そうだぃ!っておっしゃるんですよね(『中村元選集』第十二巻P487)。私も「そんな人じゃない」って思いたい部分はあるんですが、中村先生が論拠にしてる「お釈迦さまへの呼び方が古いものはラフで、後になると神格化された感じになる」って説はよくよく読んでみると、中村先生の言う最古層・古層・新層の区分から言うと案外新層の部分でもラフに呼んでるところが根拠になって「ほら、古い方がラフ」とか、最古層のはずのところでちょっと偉そうな呼び方になってると「これは、後代の神格化」って言ってたりしてて、じつはあんまり説得力がなかったりします。また、このお釈迦様の神格化説はいまでは結構いろんな人から「その見方変じゃない?」って指摘されてたりします。
 ですので、私は恣意的にこれが古いとか新しいとかはとりあえず横においといて、全体を理解していく方に努めています。

 まぁ、こんなとこですかね。あんまりまとまってませんが、詳しくは西義雄先生「最古の仏典に説く不滅の仏陀観」、谷川泰教「救済者としての仏陀ー『スッタニパータ』を中心としてー」、下田正弘「<物語られるブッダ>の復活ー歴史学としての仏教学を再考するー」、新田智通「大乗の仏の淵源」、あとユーチューブで現代仏教塾というのがるんですが、東洋大学准教授岩井昌悟先生の講義がみれますので、その中にも参考になるところがあります。どうぞこのあたりを参考にしてみてください。
 誤字脱字乱文がありましたらどうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

愚禿先生 あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 先生は とりわけ真面目でいらっしゃるんですね。

 でもそのせっかくの堅実なところは たとえば親鸞氏から見れば あまりにもブディズムなる信仰からは かけ離れていると見られるのでは? そう言うとあまりにもチンピラすぎましょうか。

 ★ このあたりが根拠ですかね。お釈迦様は悟る前と後ではもうありようが違うわけですわ。だから、「よっ!ゴータマ。」とか「よっ!同輩!」と悟る前のありようのままで認識するのは間違いよってことなんじゃないかな。
 ☆ 単純です。その人を 名前で呼ぶこととそしてどう認識するかとは 別です。となります。

 ぎゃくに言って そのあらたな境地を認識した言葉で《ブッダさん!》と呼ぶとすれば その概念で言わば規定してしまいます。言葉はそうですね。

 《愚禿》だってそうぢゃないですか。しかも 呼ぶほうは じっさいにはその呼び名の中身を認識しているかどうかは覚束ないと来ています。まして その境地には到っていないでしょう。

 それでも 事情を無視して 呼び名はこれだと決めるのは いかがなものでしょう? 

 それにいちばんよくないことは その《ブッダ》なる状態が まだ人びとにおいて検証されていず納得されていない段階にあるということです。

 唯仏与仏うんぬんと答えるのは ひとつの手ですが 《定義》すら明らかになっていないからには どうしてもそのさとりは《独り善がり》だと言われても仕方のない段階にあります。(いま現在においてもです)。


 ★ けど、これって悟った人のありようだから結構仏教では面白いとこなんだけどな。
 ☆ 哲学は 冷徹ですからね。説明に納得して認知します。いくら面白くても まだダメです。

 落としどころとしては 《未来に希望を持たせている段階だと認めましょう》となると思います。まだ そこまでです。

 けれどもその宙ぶらりんが 二千何百年もつづいている。こう捉えます。
 ただし 親鸞は別です。《義無きを以って義とす》は 信仰の真髄を説明し得ていると見ます。
 しかもだからと言って 呼び名とは何ら関係ないと考えます。

 あと この問題で中村元説については すでに上に書きましたように 無記でいます。

 あと ようつべの講義を取りあえず見てみようかと思います。

お礼日時:2015/06/25 16:27

やっぱりこれは推理、推測するしかないですね。



《客観》への私の結論を通して思った事は哲学は客観だ!と云うものです。
そして信仰は体験だけれども、哲学は推理、推測である!としました。

ブラジュロンヌさんも真理、本質に付いて推測して居る様に、この質問も言葉の内側を推理する必要があると思います。

これは、お釈迦様に接する時は悟る前の姿を見ても仕方ない、と云った意味の比喩的な表現だと思います。理屈という説明がなく、戒律的な感じがします。

三身の内の応身と見做しているからではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~
 お釈迦様に接する時は悟る前の姿を見ても仕方ない、と云った意味の比喩的な表現だと思います。理屈という説明がなく、戒律的な感じがします。

 三身の内の応身と見做しているからではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) ブッダというのは 三身常住なのですよ。法身とは言うまでもなく 報身とも 応身はつねに一体であるのですよ。ただし人間として出現しているときは 人びとは応身として見ている。

 (い) 応身なら さとる前と後とを共に見ても何ら差支えないはず。ゴータマは カッコウをつけているだけではないか。むしろ 人びとは両方を見て 自分のさとりのためにもまなぶとよいはず。

 (う) ところが 岩井昌悟というのは まだ若い先生ですが なかなかやりますね。ようつべの講義を聴いてまいりました。頭が下がります。それによると どうも善悪の彼岸は あんがい《無記》という視点にひとつの鍵があるようです。

 (え) 善をおこなうのは 人間のやること。ブッダは 善をも悪をも超えている。この世で超えている。それが 無記。つまり 無記なる意業――意志ないし心つもり――が 相手の・または世の中の善なる思惟や行ないをもそして悪なる行ないをも 中性子のごとくに素通りしてしかもそれらを捉えしかるべく配慮している。

 (お) 無記なるカルマ これが――人びとの主観の善をも悪をも受け留めつつ―― あたかも《客観》として相い対処している。言いかえると 慈悲に近い。慈悲は 中立である。

 (か) だけれども残念ながら ゴータマくんは そこまでの説明をよう遺さなかった。と思う。親鸞氏が 義無きを以って義とすると表現して 趣旨を説明している。

 (き) ゴータマ氏は いいところまで行ったペテン師だ。ちょっと飾りをつけてやった。

お礼日時:2015/06/26 12:54

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