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徳川幕府は長期政権です。
長期間続いた秘訣というのはあるのでしょうか?
よろしくお願いします。

A 回答 (12件中1~10件)

政治学において、長期政権になるためには


納得の原理と、強制の原理を巧みに組み合わせる
ことが必要です。

納得の原理てのは、例えば民主制です。
民主制は納得の原理で統治している割合が大きい
政治体制ですので、安定します。

強制の原理が強い統治は、北朝鮮や中国です。
国民の納得が小さいので不安定です。

徳川幕府が長期政権になれたのは、この納得の原理と
強制の原理とで説明ができます。

実証研究の結果、徳川幕府の各藩に対する処置は
非常に合理的で、誰もが納得する場合が多かったことが
明らかになっています。

改易にしろ、実証研究の結果、藩に統治能力が無い
場合がほとんどでした。
恣意的にやられたことはあまりありませんでした。

かつてはマルクし史観が流行り、実証もしないで
農民などの庶民は貧しかった、と言われていましたが
これも、実証の結果
農民も結構豊かな生活をしており、下級武士の
方が貧しかった、という有様であることが
明らかになっています。


強制の原理については、武力、経済力があります。
俗に旗本八万旗と言われるほどの軍事力を有し、
400万石の経済力がありました。
400万石というのは、全国の約1/6です。

参勤交代ですが、これにより諸藩の財力を奪った、と
かつては言われていましたが、これも実証研究の
結果、そんなことは無かったことが明らかになって
います。
徳川幕府は、諸藩が競って豪華になるのを心配し、
派手にやるな、という命令書まで出しています。
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武力で統制。

(封建制)
自国通貨で自国流通。(鎖国)
が基本で、
武力での内乱の統制と
善政を基本にしたインフラ整備と農業政策が良かったのではないかと思います。
武力経費過多による地方疲弊が国力の減衰原因と感じます。
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徳川幕府が長期政権を保てたのは政権運営が上手だったからでしょう。


一つの例として参勤交代。
これは関ヶ原の合戦で豊臣側についた大名を外様とし江戸から遠い場所を領地とさせ、毎年4月に江戸へ出仕させることにより藩の軍資金を持たせないようにする制度です。
また、
例えば鹿児島の島津は毎年50〜60日かけて江戸に上り、現在の金額にすると約5億円を費やしたとされています。
いくら謀反を企てようともお金がなければ武器も買えなく戦もできないですからね。
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運が良かっただけでは? 黒船来航がもっと早ければとっくに時代は変わっていたはずです。

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簡単に言えば、勝てない戦、むやみな戦、乱世に嫌気がさした武士達と、民の為の文化や娯楽等を発展させたことと、厳しい命等、アメトムチがうまくからみあったのでしょう。

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No.3さんに質問だけど、



じゃあ北条執権の鎌倉幕府が150年もの安定した長期政権を善政期として続けられた秘訣はどうなんですか?日本を訪れたポルトガル人が、武器を持たない日本の農民の知的レベルの高さに驚き、ヨーロッパの農民と比べて舌を巻くほど高かったなんて書き残しているんだけど、そんなのも権力者による弾圧の結果だったんですか?江戸幕府に弾圧されていたはずの農民や町民の識字率がその当時のヨーロッパの農民や町民と比べて断トツに高かったのに江戸時代が悪政だったって主張するのは意味不明のなんですが、日本人なら持っているはず合理的思考が欠落していていつも意味不明なことを言って日本人を貶めようとする外国系の連中の外圧でも働いているような気が私にはしてならないんですが、やっぱ、そんなことは無くて、あれとこれとは別だなんて意味不明な答えが返って来るんですか?
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#2さんの参勤交代に一票です。


街道筋が潤い、富の分散になりましたね。
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【余談】



二代将軍秀忠より時代は下りますが、お芝居・映画でお馴染みの赤穂浪士(仮名手本忠臣蔵がベース)。
主君の仇討としては、見応えのあるストーリーですが、歴史の側面で捉えると、改易による藩の取り潰し。
そう言う憂き目の藩は、赤穂藩に限った事ではありません。
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享保の改革が成功したことが最大の理由です。


歴史の流れに棹さす保守の立場からの改革でしたが、これで、
幕府は相当量の富の蓄積をなしとげました。
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武士からも農民からも、徹底的に牙を抜いたことが、長期政権最大の要因だと思います。



武士は与えられた土地を守れてさえいれば幸せ、
農民は米を作りそれを食えていれば幸せ。
牙を抜かれた国民は、一言でいえば馬鹿に成り下がりました。
鎖国の影響もあって、それがおかしいとも思わないまま、300年が過ぎた
というのが実情であろうと思います。

事実、黒船がやってきても幕府は満足な対処ができず一方的にやり込められ、
知恵を付けた国民がちょっと逆らい始めたくらいであっさりと倒されてしまいました。
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