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心は実体しているでしょうか?

何故、心(思考している主体)は実体しないと言われているのでしょうか?

明らかにここには、世界を見て、音を聞いている主体が,ある,ように思えます。

例えば、「雨が降っている、学校に行きたくないなぁ」という一連の流れがある場合、,学校に行きたくないなぁ,という思いが生じる為には、その前の,雨が降っている,という景色を,見てなければ,なりませんし、 更には,学校に行きたくないなぁ,と思っている主体は、その前の雨が降っている景色を見て、その景色を保持しておかなければならないはずです。

ここまででも明らかに、景色を,見ている,、その景色を,保持している,という心の働きが必要なはずです。

何故、見ている、聞いている主体は実体していないと言えるのか?

その理由を具体的に答えられるという方はおられませんか?

尚、私は哲学ど素人ですので、 難しい言葉は控えて頂けると幸いです。

質問者からの補足コメント

  • あなたのその解釈もまた、時間が立てばただの誤解だったという事になるかもしれませんね。

    ゲーデルの不完全性定理がそれを証明してくれています。

    故に、心は実体である可能性は否定出来ません。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/13 21:21

A 回答 (12件中1~10件)

実体するという言葉の意味は広義で考えると


「ある範疇の中である領域を占める」
ということになると思います。

まず、そもそもの狭義の意味で
空間の中に体積という領域を占める存在としては
‘主体は実体していない‘。

ただしそこからスライドさせて
概念という範疇の中である認識という領域を占めることを
概念の中に実体するとして比ゆ的に解釈すれば
‘主体(と認識される一つの概念)は実体している‘。

というように考えることができるんだろうと思います。
意味の解釈に仕方によるんでしょうね。
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辞書には「哲学としては変化する物の根底、基盤、ともなるような普遍的なもの」と云った意味の事が記されて居ます。



心は変化しますがその"私"は普遍的と云えます。
でもそれも生きているあいだは、と云う事で何れ生滅してしまいます。

また、過去の哲人たちや現在の哲人たちも"実体"と云う事に付いてはそれぞれ独自の見解を持っている様で、これと云った定義は確立されて居ない様です。

しかし普遍のものの事を実体と見る訳なので、人間に在っては生きている間の"私"は実体と云って良いかと思いますし、永遠の実体と成ればそれこそこの"宇宙"の存在であると云えると思います。

私の心が千変万化するように、この宇宙に繰り広げられる現象も休みなく千変万化をくり返して居ます。

宇宙の存在を実体とすれば、そこで繰り広げられ現われる"現象"は実体有る故、と思います。

"私"こそは束の間の事ですが実体と云って良いと思います。
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心は実体とは言えない?


だったら"私(わたし)"って、何なの?
って、思いますよね。

私の心は確かに変化、しっぱなしです。
人間の心は喜怒哀楽と云う感情で埋め尽くされてるし、肉体的には苦楽が付きまとうし、昨日まで好きだったのに、或ることがきっかけで今は嫌いだったり、本当はどうなの、って思います。

でも、"私"は生まれてからずっと"私"であって、一度も違う自分になったことなどありません。

そう思えば、"私"は実体であると云ってみたくなります。
少なくとも生きているあいだは。
だから、期間限定で。

途中ですがここまで。
考えがまとまったら"続き"を回答?するかもしれません。
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あなたの感じている世界は、脳内の現象に過ぎません。


それが外界を反映しており、その「外界」には認識体とは独立して
“存在”があるという考えは、相対性理論(時空の計量は認識体との
相対において決まる=先入的な絶対時空の否定)と量子論(存在の
本質は確率的である=不確定性原理)において否定されています。

相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によって
しか存在は無い、という帰結を潜在的に持っているのです。
客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束
の時系列化=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、相対的に無の風
は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての
時空仮説=宇宙を認識するという訳です。
無=不確定性無限の潜在としての認識可能性(感受表面での量子
相互作用=光速=現在)からの、自我仮説(時間の流れ=記憶=
過去=超光速)と空間仮説(空間の広がり=予測=未来=光速下)
の対発生。

即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の
相補として生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」
という無の射影として、量子=存在は生じていると言えます。
無いとは分からない事が有なのです。
「心は実体している」の回答画像9
この回答への補足あり
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「雨が降っている、学校に行きたくないなあ」、、小学校にでしょうか、中学校にでしょうか。

いずれににせよ、雨が降っている事とは関係ない、と心理学に多少通じている者なら、「生きたくない理由を隠している」と断言するかもしれません。
また日本語に詳しい者なら、哲学以前の日本語を学びましょう。と言うかも知れません。
実体する、とは?昔流行った。個人名などに、する、を付ける言い方。JKするとか。ベッキ-する、哲学する。と言うような崩壊した日本語。でしょうか。
若い頃、スピノザ、した? 時。実体という言葉は神と同義だと、感じました、西洋思想には、神の実体、とか、愛の実体、などとの言葉が未だに見られるようです。ホテルに聖書と共においてあった。佛教経典には。
心なる実体は存在しない、と釈迦が言った。ありました。
心とは何か?実体とは何か?と 別々に考えましょう。
心、思考している主体には、姿も、色も、形もない事は、子共にでも解る、体験する事。でしょう。
現代はバ-チャルの時代。大人までもが、夢、妄想、と現実の区別がつかなくなっている時代。とも言われているようですが。
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心はモノとして捉えられないので、唯物論を仮定すれば、心もないということになります。



しかし、唯物論は反証不能な考えであるため、唯物論は宗教の一種、あるいは形而上学なのです。
したがって、「心はない」という考えも、宗教の一種、あるいは形而上学に含まれます。
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何故、見ている、聞いている主体は実体していないと言えるのか?


    ↑
雨が降っている、という認識は存在します。
しかし、認識が存在するから、その認識の主体までもが
存在する、というのは論理の飛躍があります。

認識だけが独立して存在する、つまり
認識の主体が存在しない認識も存在するかも
知れないからです。

認識が存在する、と、認識の主体が存在する
との間を結ぶ論証が必要です。

その論証ができないので、主体が存在するか
疑わしい、となるのです。
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心は実体しているかと言われれば、していないというしかないでしょう。

それは、思考している主体は心ではなく、脳だからです。
世界を見て、音を聞いて、それによって感じたり、行動を起こさせているのは脳がやっていることです。
心というのは、それらの機能を概念的に表現した言葉に過ぎません。だから、実体としてある、と言えるものではないと思います。
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心というものを機能であるという見方をしてみると。


例えば自動車の機能は走る事で、その本体は自動車です。
人間においても、心あるという事を働きと見れば、その本体は人間となります。
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>心は実体しているでしょうか?



 していません。


 >何故、心(思考している主体)は実体しないと言われているのでしょうか?

 取り出して、見せること・見ることができないから。


 >何故、見ている、聞いている主体は実体していないと言えるのか?

 同上。


 >その理由を具体的に答えられるという方はおられませんか?

 養老孟司があちこちで答えている・書いている。
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