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もう一度言います。幻とは、全てが幻という事です。現実はありません。錯覚です。目を覚ませばそのことがわかります。『今、自分は幻夢の中にあり、幻想を現実と勘違いしているのだ』と決めてください。「この現実の中には、自分一人しか存在していなくて、自分に見えるもの、聞こえるものは全て自分の内なる世界が反映しているのだ」と決めてください。そうすればあなたの現実は本当に変わり始めます。あなたが信じていた現実は、ガラガラと音をたてて崩れ始めることでしょう。今がその時です。あなたが変わることによって地球は変わり始めます。輝く地球へと変わり始めます。あなたの地球にはあなた一人しか存在しないのですから・・・。
http://www1.ttcn.ne.jp/turu/24tanin.htm

→ この世=現実=他人は、全て幻なのですか?

A 回答 (8件)

まあ、そうです。



現実に、一台の自動車があったとすると、10人いれば、10人感じ方が違うでしょう。たとえば、車に興味ないひとは、自動車の色くらいしか認識しない。カーマニアなら、どのくらいの価値があり、どういう難点があるかすぐに判断できる。

これが自動車ではなく人間ならば、さらに多くの違った認識が各個人の中に引き起こされます。よって、この世=現実=他人は、各個人にとって統一性のない認識状態であると考えられ、それは幻と表現されることもあるでしょう。
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人は自分が感じる世界で生きていますからそのように思ってしまうのでしょう。

されど他人の行動によって自分が存在する世界が影響を受けています。幻に影響される現実なんて考えられるでしょうか?したがってすべては実態です。その実態にあふれる世界をそれぞれの個は自分の物差しで見、判断しているのです。
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いや、無いねぇ。


自分があるから他があるし

他があるから自分がある
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全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に


詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に
認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動(時系列化=
プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光(感受表面
(潜在的認識可能性)での量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ。
自我仮説(記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説
(予測=空間の広がり=未来=光速下)の相補分化。
つまり、自己存在成立のための必要として(不確定性
原理の相補性に基づく)環境は認識される。

他人は、その「潜在的認識可能性」を時系列化するプロ
セスの射影としての、時系列外の「認識可能性」である。
そうした原理的な時系列化において、本当は昨日の自分
も遠くの他人も量子的に不連続であるにもかかわらず、
「他人の痛みを自分のように感じる」という精神疾患の
一種として、過去の異なる認識可能性(宇宙膨張=物体
収縮=プランク定数hの収束)を自己=過去(自我仮説)
とする事で、意識(空間仮説)を派生させているのだ。

自我成立のための相補的な環境性において、先に触れた
ように他人も必要の一環(社会生命的自覚)であり、また
環境との物質循環も伴い、自己の生命性の拡張としての
自覚化=愛による自律的社会行動において、肉体的有限
性も寿命の有限性も超えられる。
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いわゆる「独我論」とかいった解釈に相当する考え方ですね。


映画で言えば「マトリックス」に登場する概念でしょうか?

でも、たとえば、「こうやって、質問をされ、解答を閲覧しておられるvanticeさんが存在する」ということが、唯一つの事実であって、他は全て幻想だと決めた途端、恐ろしい犯罪に手を染める可能性もあります。
http://www.kotaku.jp/2013/08/imitation_of_a_movi …

そのように考え得る「私」が存在するということは、そのように考える「私と同じように考える他者」が存在する可能性を否定することはできません。否定できない時点で、そのような考え方は「がらがらと音を立てて崩れ去る」のです。

もし、「たった一人の思考のみが現実であって、他は全て幻」だというのであれば、引用元の記事を書いておられる方からすれば、vanticeさん自身も「幻」だということです。

「そんなことはない!!」と、少しでも思うのであれば、引用元の記事を書いておられる方の思考そのものが「まちがっている」と考えるべきでしょう。
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幻夢を認めるならば、その幻夢を見ている己の存在を認めることになり


己の存在を認めるのであれば、己を存在せしめている現実世界を認めることになってしまうと思います
我々が見ているのは幻夢だとしても、それは直ちに現実の否定にはならんでしょう
少なくとも幻夢を見ている我々が存在するという現実は幻夢を見ていたとしても存在することになるからです

ただ現実という言葉を狭い意味で使えばもっと卑近な例で幻夢を見ていると言えるかもしれません
例えば社会や国家などは実体がないという意味で現実には存在しません
しかし常識人は社会も国家も存在すると思っています
そういった意味で抽象=幻夢をこの現実世界において見てしまっていると言えるかもね
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「幻とは、全てが幻という事です。

現実はありません」
→幻ではなく、全てが現実です。
あなたが幻と思いたいのでしょうね。
この社会で生きていることが、そんなに辛いのですか。
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★ 幻とは、全てが幻という事です。

現実はありません。錯覚です。
 ☆ だそうですが だとすると そのように《世界はまぼろしだ。現実はない。あると思っているその意識は 錯覚だ》といま・ここで認識し意識しているそのわたし・もしくはその意識は 何なんですか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。いえ、私が質問しているのですが。。。私=わたしですよ?

お礼日時:2015/08/14 17:10

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