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このカテのある常連様のご投稿で、恥ずかしながら初めて「仮説演繹法 」を知りました。
「仮説演繹法 」とは、“既知の「事実」に基づいて新たな「仮説」を立て ・・・” なのだそうですね。

そのご投稿は、<仮説演繹法という科学的立論にもとづくもの>だそうです。
ところで、そのご投稿の冒頭は下のようです。
<1. まづ《神》とは 人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして想定されるものです。概念としては 絶対性または無限として説明されます。>

質問は、上の文は、“既知の「事実」なのですか?
あるいは、新たな「仮説」なのですか?

A 回答 (14件中1~10件)

>「事実」なのか、新たな「仮説」なのか


文章から判断して、これは明白。
・《〇〇》とは ◇◇です
となっているので、事実でも仮説でもなく、コレは定義です。

定義というのは、
◇◇であれば、ソレは神である。
が成立しているような文章のこと。
例。
正三角形の3角は等しい。  
・3角が等しい三角形は正三角形である。  これは正しいので、定義。
正方形の4角は等しい。 これは間違い(それ、長方形だ。)。
これ定義ではなくて、性質を述べているだけなので「事実」もしくは「仮説」。
 ※これから証明することなので、事実なのか仮説なのかは、まだ解らん。

・《神》とは 人知を超えていて.......
は、百科事典のコピーなので、ますます、定義というほかはないです。
※事典類は、まずは用語の説明をしてから性質の解説しないと読者
 がチンプンカンプンになる。よって、解説の前に定義を書く。

つまり、定義とは、以下を判断すること。
1神教の神  神。
多神教の神  神。
比喩としての神(例:マンガの神=手塚治虫 現人神=歴代天皇) 人であって神ではない。 
天使や悪魔  神。 (ブリタニカで明言。悪魔のほうだけだけど。)
妖怪(天狗、河童、鬼) いちおう、神?
大昔に地球を訪れた異星人  神??? 現時点で人知超えてる。

判断が簡単な順に並べてみました。
ここを明確にしておかないと、そもそも、演繹ができません。


一方、
・神とは全知全能の存在
とすると、
1神教の神 神の可能性が大。
多神教の神 1柱は神かどうか判断を保留。残りは神ではない。
      (多神教の神どおしで戦ったら勝者は1柱。勝者以外は全能でないことが確定するから、定義により神ではない。)
天使    神の指示を受ける者なので決定権が欠落。神ではない。
悪魔    悪魔の親分が元天使。神ではない
という風に変化。今後の論理展開が大きく変わります。
よって、定義は極めて重要です。

 
>科学的立論にもとづくもの
ここで言う科学とは、社会科学でなくて自然科学。
以下、仮説演繹法とアブダクションをごちゃごちゃにします。
自然科学の場合、コレ区分けしてもあまり意味ないので。
どこが仮説演繹でどこがアブダクションなのか、自己判断してください。

>観測事実
 モノが動くと風を感じる。
 我々は、通常、風を感じない。
>以上から演繹できる仮説
 地球は動いていない。
>観測事実(続き)
 惑星の運動。逆行したりする
>仮説
 周転円使えば資料全部が観測誤差範囲に収まるのでコレで説明できる。
>検証
 それ以降の仕様追加してみたけど、周転円で問題ない。
 よって、地球は動いていない。
>別仮説の提示
 地球でなく太陽が中心。
 ※惑星の運動の説明の精度は、天動説、地動説で、だいたい同じ。
>反論
 モノが動くと風を感じる という観測事実、無視していいの?

科学的立論は、こういう風に行うわけです。

一方、宗教が絡んだ場合は

>観測事実
 A国とB国で戦争した。
 A国に、「戦争したら勝つ」という神託があった。
 A国は戦争に勝った。
>以上の仮説
 神託は常に正しい。
>検証
 B国にも同様に「戦争したら勝つ」という神託があった。
 B国の神託は「こうすれば戦争に勝つ」だったのだが、そうしなかった。
>検証の解釈
 神託の解釈をミスったので負けた。
 よって、神託は正しい。

科学の論理と、どこが違うか、そこ認識してほしい。
仮説演繹でどこがアブダクションなぞ、話題にすらならない大差があります。
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この回答へのお礼

詳細なご説明をありがとうございました。

<《神》とは 人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして想定されるものです。>は、定義なのですね。
書いているご本人はおそらく事実としてみなしているのでしょうが。

お礼日時:2023/03/11 16:47

神は未だ実証された事がなく神の存在を考慮しないと説明出来ない事象現象が未だに観測されていない


上記の事実を合理的に判断するならその答えは「如何なる神も存在しない」となります。ですが不存在証明=悪魔の証明は科学的には不可能である事からそれを考慮すれば「神が存在するかしないか分からない」と言う答えになります。
ですが普遍神の主張者は普遍神が存在すると断言しています
存在していると断言しているにも関わらず存在していると断言出来る客観的かつ論理的かつ合理的な根拠を未だ提示していません
何故提示しないのか?それは上記の根拠を一切持ち合わせていないから提示出来ないのです。
上記の根拠なしに存在すると断言すれば存在すると断言出来る上記の根拠の提示を求められても提示出来ない=断言出来るはずがないのです
ですが断言出来ない事を認めると断言している事と矛盾しかつその矛盾を受け入れたら自己否定になるのでそれを避けるために詭弁を用いているのです
それが存在するがそれを実証・立証出来ない理由の提示です。その理由それが「人知を超えたる」と言うことです
ですがそうして神の存在の実証・立証の追及を躱した場合今度は神の不存在の可能性が排除出来なくなるのです
神の不存在の可能性を認めると自己矛盾に陥るのでそれを認めるわけには行かないのです
ですから論理的なテクニックを駆使して体裁を整えることで神の不存在の可能性があたかも排除したかのようにするのです
上記を踏まえれば
神の存在が分からないとした上で神が存在すると仮定するとしない神が存在する前提の仮説はそれがどのような形式を取ろうともそれは単なる独断でしかなく如何なる形式を取って神の実証・立証不可能性を示したところでそれは詭弁に過ぎないのです。何故なら「人知を超えたる」と言える客観的かつ論理的かつ合理的な根拠が示されていないからです
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/03/18 13:36

★ (№12お礼欄)


ちょっと気になった点。
<☆ アブダクションは 《結論 Result 》を先に持ってくるわけです。まだ証明していないのに。>について。
先に持ってくるのは観測されたなどの明白な事実であり、これからフロー流れが進行するのだ、と思いますが。

☆ 演繹法や帰納法とちがって 哲学にあっては いわゆる形而上学としての議論でけっきょく神といった雲をつかむような形而上のものをめぐって 仮説法を用いるということだと思います。


すなわち 神をめぐる議論では:
★ 先に持ってくるのは観測されたなどの明白な事実であり
☆ という・ふつうの仮説法のやり方そのままですすめるわけには行かないのだと思います。


《人知を超えている / 絶対性 / 無限》といった観測された事実は そのままでは《経験された事実》として用いがたい。

《人知を超えている》といったふうに神のことを知覚しえているかも知れませんが その知覚が 確証されるかというと おそらく100%完全にではないはずです。

したがって――推論の方法として考えるに 人間もさるもので 確実性や明晰性を保証するために奥の手をもちいてのごとく―― はじめに《確実な事実だと想定する命題》を・したがって仮説として 提出します。・・・というふうな方法を編み出したのだと思います。



だったら そこから推論がたしかに演繹法のごとく導き出されるかたちで:
★ これからフロー流れが進行する
☆ というふうに展開するはずです。




たとえば 次のように展開します。:

絶対性
→ 擬人化して:絶対者
→ 物語化して:天地の創造:造物主

また同じ過程で
→ 属性として:真理・道・生命;真善美;愛;全知全能;摂理

→ その神が 人間にハタラキカケをおこなうか?
 《ある。そして 同時に 無い》
 ・・・・・


→ これが 《神》であり そのような認識は 生活日常ないしその現実にとって 不都合はないかと尋ねて ないとなれば 仮説法による議論はひととおりの仕事を果たしたことになるかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2023/03/18 13:36

アブダクションも仮説法なので かんたんな図示をしてみます。





Deduction: Rule→ Case→ Result
(演繹法: 大前提 / 小前提 / 結論 )

Induction : Case→ Result→ Rule
(帰納法)

Abduction: Result→ Rue→ Case
(仮説法)



☆ アブダクションは 《結論 Result 》を先に持ってくるわけです。まだ証明していないのに。

とうぜん(結論ゆえにとうぜん) 事実を持ってくる。または 経験事実にもとづく事態をえらぶ。

事実だと言えない場合は 事実だと仮定しその想定を結論として提起する。つまりは重ねて 仮説する。



その結論に 定義が盛り込まれる場合があります。(定義を問うている場合です)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
ちょっと気になった点。
<☆ アブダクションは 《結論 Result 》を先に持ってくるわけです。まだ証明していないのに。>について。
先に持ってくるのは観測されたなどの明白な事実であり、これからフロー流れが進行するのだ、と思いますが。

お礼日時:2023/03/14 08:18

★ (№9お礼欄)


質問の<<1. まづ《神》とは 人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして想定されるものです。概念としては 絶対性または無限として説明されます。>は。事実ですか、仮説ですか、定義ですか。

☆ 
① 《まづ・・・です。》という体裁は きちんと事割っていませんが これから議論するための用語を定義しますと暗に言っているはずです。


② すでに示したとおりに その定義内容がどのように成り立っているかについては 《観察された事実を取り上げてこれを理論立てるかたちに仮説としてまとめたもの》です。

③ 神について《人知を超えたもの・超経験なるもの・絶対なるもの》といった特徴が――辞書や事典などで――観察されそれとしてみとめられている。これを・つまりその意味での《事実》を取り上げ 定義に用いる。

④ ただし なにぶん《人知を超えた絶対なるもの》をあつかっているからには そうは言っても《そのどこが事実だ? 経験的な観察を事実として扱うと言っても 相手は 超経験なるものではないか?》という批判がつきものです。

⑤ したがって定義としては 《人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして〈想定される〉もの》ですと言っています。つまり この定義は 《仮説として》用意しているものだということです。



⑥ 以上のように 定義にそえられた《概念としては 絶対性または無限として説明されます》といったおぎないを含めて お尋ねのくだりは:

 観察された事実としての事項を取り上げている。
 ただし 絶対性なるものをあつかうからにはそれらをそのまま
 《事実》として持ち出すわけにはいかない。
 すなわち その取り上げた項目を用いて理論立てるのだが 
 事実のごとく想定し
 したがって 仮説として 
 全体を定義として示している。

ということです。
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この回答へのお礼

そうですか

お礼日時:2023/03/13 15:25

「人知を超えている神」について根本的な事を言えば


人知を超えている神が存在しいると言える客観的かつ論理的な根拠が何一つ示されていない
人知を超えていると言える客観的かつ論理的な根拠が何一つ示さされていない
のです
つまりこれは客観的かつ論理的な根拠が無い独断に過ぎないと言うこと
独断に過ぎない主張をもっともらしく説明しようとしていますがその説明自体に論理性や合理性がありません
単なる言葉遊びに過ぎません
これは明らかに思い込み=信仰の現れであり言い換えるならば思考停止状態と言うこと
思考停止状態の者が気取って哲学ごっこをしているに過ぎ無いと言うことです
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<客観的かつ論理的な根拠が何一つ示されていない>ですね。

お礼日時:2023/03/13 15:25

《人知を超えている神》という規定と:



◆ 科学ではわかりようが無い神

☆ とは 完全に互いに別の内容です。




前者では 人の知性を超えたチカラなる神が 人間にハタラキカケを成すことがあり得る。無いかも知れないが あるかも知れない。どちらとも決められない。

相対的で有限なる存在に対するに 無限で絶対性なるナゾの何ものかは チカラの次元が違うということです。



神のチカラは あたかもニュートリノのごとく 人間の心身なる存在をつらぬいているかも知れない。そんなことはないかも知れない。

しかるに 《人知を超えている》ということは 《その神が人に対して エネルギをあたえているかも知れないし 同時に――同時にです――あたえていないかも知れない》という意味です。

《神から人へのハタラキカケが つねにあるかも知れないし 同時につねにないかも知れないという重ね合わせの状態が 常態である》というふうに推理されるのです。





すなわち 人間の持てるチカラ〔だけ〕ではどうにもならないが ひとたび神の側からハタラキカケがあったなら そのチカラを享けて何がしかのことが人間にも分かることがあるかも知れない。ないかも知れない。どちらとも人間が決めることは出来ない。




形而上学を扱い得るか否かで 哲学と科学とは こういった差がつくのです。
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この回答へのお礼

質問の<<1. まづ《神》とは 人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして想定されるものです。概念としては 絶対性または無限として説明されます。>は。事実ですか、仮説ですか、定義ですか。

お礼日時:2023/03/12 18:00

《神》とは 人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして想定されるものです。

>とした場合神はヒトの知性で推し量れる存在ではない。であるならばそのような存在は立証・反証共に出来ません。何故ならば立証・反証どちらもヒトの知性の成したものだからです
つまりそのような存在に立証可能性も反証可能性も無いと言うことです

科学では立証可能性・反証可能性どちらも必須事項で有る
故に立証可能性も反証可能性も無い神と言う存在は科学ではありません
いくら科学的手法を用いて科学的な体裁を取ろうとも科学でない事に変わりありません。
科学ではわかりようが無い神を人知を超えたる存在と断定しているならそれは想像に基づく想定。それはツ科学ではなくて文学となります
神とは物語=文学上のキャラクターだということです
ですから上記は想定は神の物語の作者のキャラ付けとなります
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
質問の<<1. まづ《神》とは 人知を超えていて超自然ないし超経験なる場またはチカラとして想定されるものです。概念としては 絶対性または無限として説明されます。>は、事実でも、仮説でも、定義でもない、ということですね。

お礼日時:2023/03/12 17:58

オマケ


△ A 人知を超越した絶対的能力をもち / 絶対的存在 /
△ B 絶対的,超越的な存在 / 人間をこえた力

☆ すなわち――☆ これらの《既知の事実》の中から取捨選択した事項をあたらしい命題として《仮説》としたものです――:

上記が事実だと言える客観的かつ論理かつ科学的な根拠は一切ありません
つまり上記は事実ではなくて主張者の思い込み=信仰に過ぎません
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この回答へのお礼

再度ののご回答ありがございます。
同感です。

お礼日時:2023/03/11 08:01

次の説明における①項を どうして見失っているのでしょう?



☆☆ (No.1 回答者: bragellone ) ~~~~~

§ 1 ▼ ヰキぺ:仮説演繹法 ~~~~~~~~~~~

① 既知の事実に基づいて新たな仮説を立てて、

② その仮説から演繹して予測し、
③ それを主張として論証し、実験や観察をして確かめるという方法である
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

そうですか

お礼日時:2023/03/11 07:59

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