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1. 哲学は けんかである。哲学的にけんかをすればよい。

2. 同じくけんかである自然科学は しかしながら その仮説を実証しえたなら 結着
は〔一たん〕つくのに対して 哲学の場合には なかなか決着がつかない。社会科学にし
ても政策をめぐる見解が違ったなら 社会の一部ないし全体において実験をするしかない
が 哲学なら――特にはその基本が存在論にあるだろうから―― 結着をつけることは並
大抵の問い求めではむつかしい。主観を避けた存在論では 絵に描いた餅になる。

3. ゆえに 段階を互いにそのつど高めつつも 永遠に対話をつづけなければならなく
なる。この意味で 哲学は けんかである。

4. けんかならば けんかの方法があるはずだ。




5. 何よりもまづ先に 相互に見解を明らかにしたならば とうぜんそれを認識せねば
ならない。

6. それには相手の言い分をまづは全面的にただしいと見なして受けとめるのがよいの
ではないか。そうすると 間違いについて早くよく分かる。

7. とうぜんのごとく 同じ内容を共有する部分とそして異なった見解を持つ部分とに
分かれる。特には後者の――けっきょくこちらとしては間違いだと思うところの――相手
の見解について批判する。そうして互いにさらになお問い求めをつづける。

8. 批判がなければ 全面的な互いの同感に到ったという対話の場合を除けば 哲学・
思想ではないであろう。




9. むろん哲学は 思想がおのれの見解に従って突っ走るのに対して そうではなく一
たんはその独走を禁欲し あらゆる可能性を考慮しておくというかたちであらゆる場合に
ついて迂回作業としての認識や思索を 行動への準備段階としておこなう。おこなうので
あるが ただし それではまだ生きていない。それだけでは 生きていない。

10. したがって まったく同じ世界観を共有する場合を除けば 哲学するということ
は 互いの見解についての批判合戦となる。

11. このときどういうわけか人びとのあいだでは 批判はするな・自己主張はやめよ
・議論をするのはみっともないといった通念がまかり通っているように見受けられる。

12. とすると どういうことになるか? いつかどこかで――たぶん外国発という―
―お墨つきが出れば それを有力な仮説なりあるいはすでに定説なりとしてすでに押し戴
き その説の中身を《研究する》ことが 哲学だということになる。らしい。

13. そのような手枷・足枷をありがたがっている傾向がいちじるしい。あとは熱心に
――自己主張を禁欲して――研究に没頭する これが 哲学であり学問だというのであろ
うか?


ご教示ください。



14. ちなみに《価値自由》を説いたM.ヱーバーとか言うひとも おのれの価値判断
を―― 一たん控えるとしても――しないと言っているのではない。

15. 自分で自分の手足を縛る《ダルマさんの禁欲主義》は いったいどこから出て来
たのか? 《お墨つき》〔ならそれをありがたく戴く〕というのは 明らかに価値判断で
あり自己主張であり ダルマさん主義から自由な少数者に対しては けんかを売っている
にひとしいことなのに。

16. だから 哲学は むしろ社会通念のほうから けんかを売られている。というこ
とになる場合が多いのではないか。哲学としてのけんかではなく 哲学するなかれという
通念が売るけんかであり 哲学する側にとってはその売られたけんかを買うかそれとも放
っておくかの問題となる。

17. つまり煮詰めに煮詰めれば 世の中のクウキには右へならえするべしとクウキが
説いている大日本クウキ教のもんだいであろうか。

質問者からの補足コメント

  • BAは保留とします。あしからず。

    またの機会を俟ちます。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/11 11:07

A 回答 (2件)

哲学はケンカである??



確かに、そうとも言えるね。

しかあ~~~し、それでは、品格がない。

。。

よって、 私の理論では、哲学とは矛盾に挑戦する学問なのです。

森羅万象、この世の事象のすべては、極めると逆転する、のです。

それゆえ、矛盾で出来ているのです。

これを、私は、陰陽逆転の法則、と呼ぶ事にしています。

自然哲学とは、
学問であり、世界中の、大人も子供も、皆が、それどれのレベルに合わせて、自分達で思考する学問なのです。



では、この辺で、

ごきげんよう

逆転地蔵
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

敢えて詳しくないことがらを例に出しますが かのアインシュタインと誰だった
か ボーアと言いましたかとは 何度もけんかをしていますよね。むろん議論で
あり批判の応戦です。

日本では そういったふつうの学問じょうの《品格のある》議論であっても あ
らそいと見なされ すべて品の無いけんかだと言って貶められます。

おかしい。のではありませんか?

というように 世間の常識が いつかどこかで《逆転》するのではないでしょう
か?

★ 私の理論では、哲学とは矛盾に挑戦する学問なのです。
☆ つまり いま述べたような世間の《矛盾に おおいに 挑戦して》いただき
たいものですね。

★ 自然哲学
☆ に返答しかねてしまいましたが。

★ ~~~~~~~~~~~~~~
 哲学はケンカである??

 確かに、そうとも言えるね。
~~~~~~~~~~~~
☆ この線をもっと積極的に推し出して欲しいとは思います。

お礼日時:2016/04/04 16:11

だから~~~



確かに、哲学とは、質問者さんの思考の通りであり、ケンカなのです。

しか~し、そのような呼び方では、品格が無い、と言っているでしょう。

解かり易く言いましょう。

例えば、<戦・いくさ><戦争・せんそう>これを、<殺し合い>などと呼べば、品格が無いのです。

ですから、<殺し合い>とは、言わないのです。

もっとも、下品な連中は、<殺し合い>などと呼ぶようです??

しかあ~~し。

私は、<戦、戦争、>と呼びたいのです。

。。

従って、哲学も、ケンカで有っても、ケンカとは呼びたく無いのです。

あくまで、哲学とは、矛盾に挑戦する学問と呼ぶべきだと、思っています。



森羅万象、この世の事象のすべては、極めると逆転する、究極の思考の学問、陰陽逆転の法則、なのです。

これは、宗教のように、特定の誰かが?偉そうに、語る事では無いのです。

世界中の、大人も子供も、皆が、自分のレベルに合わせて、自分で思考する、自然の法則の学問なのです。

質問者さんも、是非、これから、御自分で、思考なさる事を、お勧めします。




正しい、正しいとは、誰にとって正しいのか?

それは、正しいと言う者にとって、正しいだけであり、そうは思わない者にとっては、正しく無い、誤りなのです。




これは、多少の誤差は無視して、確定としよう??とする、相対論と。

その、相対論が無視する、多少の誤差を追及する、量子論の関係のような関係なのです。

ですから、質問者さんの主張も、私の主張も、人それどれであり、互いに正しくても、互いが互いを否定するのです。


では、この辺で

ごきげんよう

逆転地蔵

この回答への補足あり
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この回答へのお礼

品格の高いご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/07 20:28

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