アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

これは「哲学」に投じる質問ではないのかもしれませんし、また「哲学的」な回答を頂いても理解できない可能性が高いのですが、こちらには知った方がいるのでこちらに投稿します。

最近「人と言葉が通じていない」と感じることがしばしばあります。
勿論日本人相手に、日本語で話しているのですから、海外へ行って「言葉が通じない」ということとは意味が違うのですが、この「通じなさ」の感覚をどう表現したらいいものか。

なんというのか、「語法」「話法」が違うというのか・・・

最近わたしはOkewbで、アンケートのカテゴリーに質問しています。(インターネット上で、ディスプレイ越し、という限定付きですが)そこで話が理解できると感じるのは、面白いことに「思想・心情」の点ではわたしと正反対の人が多い。彼らの質問を読んでいても、或いはわたしの質問に寄せられた回答を読んでいても、他の、ひょっとしたら思想・心情的には、わたしに近いかもしれない、彼ら、彼女らの「表現」にときに強い違和感を感じます。いやひょっとしたら、わたしが違和感を感じている人たちは、わたしが「主義・主張」が異なりながらも「言葉が通じている」と感じている人たち程、内面に「ポリシー」というものはないのかもしれません。

「通じていない」という感覚は「疎外感」とは違います。なんというか「波長のズレが大きい」とでもいうのか。
本との相性にも似ている気もします。
書店であれこれ本を手に取って数ページ眺めて、なんとなく「合う」「合わない」と感じるように。
この時「合う」と感じたのは、そこに書かれている「内容」に共鳴するところからきているのか、或いはそれ以前に、表現の仕方によるのか?繰り返しますが、「難解で理解できない」ということとは違う不通状態です。

「言葉が通じていない」と書きましたが、実は「ひとと通じていない」という感覚かもしれません。
では「話が通じる」「人と通じる」とはどういう状態を言うのでしょう?
また「同じ言葉を使う」ということは、「同じ言語を使う」こと、と同義でしょうか?

上手く表現できませんが、思うところありましたらお聞かせください。

尚、初めに書いたように、単に「知った人がいる」という理由で、ここに投稿しました。
「哲学」の門外漢です。お寄せいただいた回答が理解できず、形式的なお礼になるかもしれません。

質問者からの補足コメント

  • こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。

    >《言葉が通じる》というのは その相手と自分とは 考えが違うと分かることです。

    ええっと、「考えが異なる」ことと、「意思の疎通が出来ていない」ということの相関関係を「わかりやすく」説明していただければ助かります。

    更に

    >その点で 互いに互いが分かれば 言うこと無しです。

    「違いを理解する」・・・ちょっと質問の主題とはズレますが、「アナタトハ、チガウ、トイウコトヲ、リョウカイスル」で、その上での「交流」は可能でしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 00:52
  • うーん・・・

    科学的=哲学的?なご意見ながらとても参考になりました。
    「言語」ということに限定せずに、
    例えば何故わたしは、駅や電車、バス車内での執拗な人工音声によるアナウンスにこれほど拒絶反応を起こすのか、などのことについて、刺激と受容体の相関関係についてご意見を伺えればと思います。
    これも今回の「(自分の?)言語圏でのディスオリエンテーション」と関係があるように思います。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 02:10
  • 昨日ここまでいただいた11件の回答に自分なりの感想を書き込みました。

    その後、現時点でぶらじゅろんぬさんはじめ7件の新たな回答を頂きました。

    率直な感想として、「ああ、みなさんの貴重な時間を無駄に使わせてしまった」という気持ちです。

    つまり「質問する以上、もっと明確に、正確に言語化してから問いかけるべきだ」ということです。

    みなさんは、わたしの質問に戸惑っておられているようです。「どういう質問なのか?」と。

    一方でわたしはみなさんが「おそらくこういうことを言いたいのであろう」と推量してお答えくださった回答を、やはり、単なる知識不足(無知)によって理解するに至らなかった。

    今回に関しては、「言葉が通じる通じない」以前の愚問、或いは不完全な質問であったということです。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 12:29
  • Glory_777さん、

    お礼は改めて後ほど、

    ただ、Glory_777さんに「書かなければよかった」とまで思わせてしまったことについて、深くお詫びをいたします。

    理解不足、配慮不足、言葉足らずをお詫びします。

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 13:42
  • kanto-iさんはじめ、みなさんの、今日の投稿に対しての「お礼」において、なにやら八つ当たりめいた態度をしたかもしれません。
    kanto-iさん、あほなさん含め、12件目以降のすべての回答をお寄せ下さった方に、先ずお詫びをさせてください。

    「誰とも通じ得ない」と感じた者が、最後に拠り所とするのは結局、己自身しかないのではないか?
    己を否定してしまえば、周囲に誰ひとり理解者がいない以上、存在していくことは困難だと思います。

    >これは、Grass_RootsさんがGrass_Rootsさんのことを
    もっと深く理解して行けば、解決に向かいます。

    これはGrass_Rootsは溺れかかっているGrass_Roots自身を救えるか?とは意味が違うのでしょうか?
    若し同じ意味であれば、それは「無理」のようです。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 15:14
  • あほなさん、瀬里香さんのご友人ですね。

    せっかくわかりやすい回答を頂いたのに、どうも感情的になってしまいました。改めて、回答へのお礼と併せて、お詫びをいたします。

    ただ、感情的になったとはいえ、先ほどのあほなさんへのわたしの返事はやはりその通りなのです。

    みなさんとのやりとりで見えてきたのは、「通じる・通じない」というのは「言葉」以外の情報に左右されているようです。

    特に今回の回答の中で、頷いたのは、言葉は信号・刺激であるという指摘です。
    つまり言語は言語である以前に、物理的な音であり、ノイズでもある。

    わたしはこの段階で立ち尽くしているように思います。

    No.13の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 15:23
  • 先ほどは感情的になってしまっていたようです。

    >要は考えすぎですね。

    これはおそらく「傍から見れば」至極まっとうなご意見だと思います。

    思ったことを反射的に述べましたが、「お礼」として適切ではなかったこと、お詫びいたします。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 15:27
  • ぶらじゅろんぬさん。先ず、再三にわたり、長文の考察を頂き、重ねてお礼いたします。

    以前こちらで、「あなた方は「哲学音痴」で根っからの阿保ですか?」と訊かれていましたね。
    どうもわたしは否とは言えないようです。(苦笑)

    ひょっとしたら、ぶらじゅろんぬさんは、わたしと話が通じると、どこかで勘違いされたということはありませんか?

    見解の相違、ポリシーの相違以前に、知能の差が大きすぎるように思います。
    で、あれば、当然ながら、ぶらじゅろんぬさんのここでの友達である瀬里香さんとわたしとの間にも
    「知性の点での」大きなギャップがあるのでしょう・・・まぁそんなことは薄々感じてはおりましたが。

    わたしはぶらじゅろんぬさんさんを拒否も否認もしません。居直るつもりもありません。けれども、
    今回のやりとりで、Grass_Rootsが全くの凡人であることに気づかれたことと思います。

    No.12の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/17 15:57
  • しかし、経験的に「(わたしの)言葉は届かない」ということを知っているのなら、
    言葉を費やす=手を差し出すことは結局は徒労なのかもしれません・・・

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/18 01:39
  • ぶらじゅろーぬさんの「中和作用」はよくわかりますよ。
    ぶらじゅろーぬさんの他の人とのやり取りを見ているとハラハラしますが、
    ご本人は結構柳に風と受け流していらっしゃいますね。
    これは真似できないなぁと、いつも感心しています。
    わたしはすぐカッとなってしまいます。自分で自分の感情をコントロールできないからです。
    これを「障害」のせいにするか、単に未熟なだけか?それは何とも言えませんけれど・・・

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/18 02:04

A 回答 (36件中1~10件)

意思の疎通ができるかどうかということではないのか。

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この回答へのお礼

こんにちは。

そうですね。簡単に言えば「意思の疎通」が出来ていないことだと思います。
そのディスコミニュケーションの状態で非常に疲れていて、どうしてこういう状態が生じるのかを知りたいと思いました。

或いは単に、ここで、誰か「話の通じる人」を探したかったのかもしれません。

ご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2016/04/17 00:45

ぐらす_るーつさん こんにちは。



簡潔にまいります。

《言葉が通じる》というのは その相手と自分とは 考えが違うと分かることです。
その点で 互いに互いが分かれば 言うこと無しです。

プロフィールで知りましたが フリッツくんは 箸にも棒にもかからない思想しか
持ち合わせていないとわたしは言い切っています。
この回答への補足あり
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同じ言葉を使うというのと、同じ言語を使うというのは同義じゃないでしょう。



一文字違いますよね?

アゲアシ取りをしているのでなくて、

普段からここがポイントじゃないかと思っているからです。

質問者さんと同じか分かりませんが、人と言葉が通じていないと感じるとき、

最初に大きな溝があると感じています。


と申しますのは、

この一文字違うという部分も役立てて、

ニュアンスを伝えたり、汲み取ったりしようとしている人と、

「言語って言葉を格好良く難しく言ったものでしょ?」

と、単に気取った表現であると捉える人がいるように感じています。


ですので、

まずは、この二つのどちらの人であるかを先に識別するようにしています。

そういう意味では、同じ日本語をつかっていても、

二つの種類の国があると捉える(例える)ことができます。


主義主張の前に、言葉に対する使用者の期待度が違うわけです。

使い倒そうとしている人と、他に気になる事があって、それほど重要じゃない

と思っている人がいるようです。


後者の方が言葉に対して感じていることを想像してみます。

「言葉の違いは、難解さ(=気取り度合い)で変化していて、

 種となる情報の種類は同じである。

 難しい言葉を使うとは、気取ることである。だから良くない。

 乱暴な言葉を使うと、フレンドリーであり謙虚だ。

 だけど、気持ちが込められていないといけない。

 大事なのは、自分の本心や心。

 本気で相手を心配していれば、乱暴な言葉でも伝わる。

 これが通じるのが親友とか、愛し合っている二人なんだ。

 自分の場合は、そういう人と出会っていないだけなんだ。」

と言う感覚じゃないかと思います。


しかし実際は、

「より多くの事情をにじませたい。」

と言う思い込めて、変化するものでしょう。

哲学論議が好きな人でも、

前者の発想でいる人もいるはずです。

哲学を弄びたい気持ちと、言葉に対する期待は必ずしも一致しません。

自分のニュアンスを伝えるものだと思っていない人は、

人の言葉をかりつづけてしまい、

自分の事情を何も伝えられないことになります。



しかし、後者の中でも、

「より正確に自分のニュアンス伝えることが大事だ」とする人と、

「相手が理解できるものを選ぶのが大事である」

とする人に別れると思います。

どちらも正しいとは思いますが、

今生きている時間を楽しむという気持ちに欠けていると思えます。


私の考えと言えば、

「少しでも違えば、似ているのであって同じじゃない。」

とするのがが妥当とし、

そして、

「この違いをどう使うか?」

どんな気持ちを込めるか?と工夫するのが面白いと思っています。


言葉を単なる情報を伝える物として大きく捉えれば、

食べ物でいうところの、栄養になれば良いと言う考え方になるでしょう。

また、食べ物でさらに例えていけば

「美味しくいただければ栄養が無くても良い。」という反対の主義もあります。


さらに例えて考えてみます。

野性に生息するものをそのまま口に入れれば、

毒となるものもありますし、それ以前に食べ物じゃないものもあります。

口に入れて良いものか否か?

私たちが言葉を発したとき、こうした次元での違いが出てくるはずです。



私たちの言葉は、

そのままでは、食べられる水準に達していないのではないでしょうか?

大根をそのまま齧ると辛いのですが、

野に生えている草を口に入れたことがある人は、

「これは甘い。」

と言って感謝します。

食べ物とはそういう一定の水準をクリアしているものでしょう。

私たちが思い思いにつかう言葉では、

ここに達しないのが常ではないかと思います。


そうした中でやっと食べ物の次元に到達した誰かの言葉があり、

ここで、美味しい、不味い、栄養がある、栄養が無い、

更に加えて、今は不足している栄養、今は取りすぎている栄養、

緊急の時には、適量であれば、薬になるもの。

などがあるのだと思います。

体調によって、そのとき美味しく感じたりする食べ物があります。

言葉も同じように、デリケートなのではないかと思います。


また、素材と栄養はおなじでも、調理によりおいしさが変わるものがあります。

この過程で栄養が失われたり、補完しあって別のものに変わるものもあります。

同じ調理法でも、調理する人によっては美味しさも味も変わります。

ここに心は関係ありません。


料理を習ったことが無い人は、

自分には美味しい料理が作れないと思っているでしょう。

言葉も似ており、同じような特徴を持っているはずなのですが、

何も習っておらず、練習もしていない状態で、出来ていると感じてしまいます。

これは不幸な錯覚だと思っています。


もし、その人が大切な人と言葉を交わす必要があるとき、

どのような言葉を発するのか?

心はこもっていても、おいしい訳がありません。




また、不用意に言葉を選んで失敗したと後悔する人がいたとします。

しかし、料理と同じくらい練習が必要なものと思っていれば、

「不用意に失敗をした。」

と考えませんでしょう。

不運により生じたのではなく、必ずそうなる運命だったと言う事です。

しかも、それに気がついていないので、何度も繰り返すことになります。


私は40歳を過ぎるまで、音痴でありまして、音感が全くありませんでした。

全ての音が同じ音に聴こえていました。

上手い歌とは? 感情が篭っている歌? としていました。

それなのに、「音程は誰でもあうでしょ?そこが鍵じゃないよ。」と思っていました。

しかし、聴音と言う(ソフトでしたが)チェックをしましたら、

殆どの音を聞き分けていない(大雑把に捉えている)と言うのがわかりました。

その後は、注意を続けたので、音痴が治りました。


気がつかなければ、

一生そのままであり、音楽には才能が無かったと思い込んだでしょう。


私たちの日常には、こうしたことが多くあるのじゃないでしょうか?

本当は、精度においての上下しかない。

ところが、精度をあげる必要がある事と、その感覚が不足しているため、

「自分はもう合格ラインを超えている。」

と誤解をしてしまい、

「違いが生じているのは、気取っているせいだ。

 もしくは、それ以外の才能とか真心とかそうしたものが無いからだ。」

と結果としての違いに理由をつけているのだと思います。

また、明らかに劣っていても、それを自覚できない場合は、

「xxさんらしい。俺はおれの主張があるから、俺らしく行くよ。」

と主張や個性の違いとしているのではないでしょうか?


個性は、食べ物の次元に到達してから生じると思います。


また、

栄養が無いモノを美味しく調理することは、社会では悪の一つとされています。

もしこれの中毒に成れば、長い時間をかけて当人が疲弊します。

さらに、摂取している方は自分では止めることができず、

文化や風潮として定着しやすく、被害も拡大しやすいからです。


言葉も同じだろうと思います。

摂取してはいけない概念や考え方を美味しく調理してしまえば、

これを頂いて心が病みます。

心が弱ってしまい、耐久力が減ります。


確かに体力が落ちているときには、甘いものの効果は馬鹿に出来ません。

しかし、

出来ることならば、

栄養があって薬に成るものに、甘い味付けをして欲しいものです。


栄養があって薬になるというものは、

その考え方を自分の人生で広く応用し、現実を変えられるものであること。

合理性によって納得できて、試す気持ちになれるものであること。

結果に対しての気休めではなく、未来に対してのノウハウであること。

そうした安心感から、心が回復していけるものでしょう。


失敗について、原因を分析し、対策を練って、次に備えると良く言います。

しかし、失敗した人にそれが通じるでしょうか?


そういう正しさを伝えるよりも、

「実はさっきのあんたの失敗は、惜しかったんだよ。・・・」

と話すほうが、相手にやる気が出ますし、現実その通りに行動してもらえます。

時間がたてば、自分の助言以上に工夫をしており、更に上にいっているでしょう。



私が思うに、こういうものを言葉が通じたと捉えるべきです。


ですので、

食べ物じゃないものを人の口に押し込んでいることに気がついて、

自分で反芻しても美味しいと思えるものを、

言葉を使って楽しんで作るべきだと思います。


質問者さんの質問の答えになっているか分かりません。


合う合わないと言うセンスの話が出ましたので、

それは違うのじゃないかと思い、コメントをしました。


人は、

ありのままの自分を是とし、通じ合えない場合に理由を作る場合があります。

その理由として、種類の違いをあげるひとがいます。

しかし精度の上下があるだけだと思います。

自分が上にある場合は、過去同じ状態であったはずです。

その場合は、理解できないとは思わないでしょう。


それらを加味した上で、もし本当に違和感があるとしたら?


冒頭あげました。

二種類の捉え方の違いです。そして、ご自身の体調(メンタル含む)でしょう。


言葉が通じるとはどういうことか、考えてお答えしました。


以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

はじめまして。

頂いたご回答、多分に参考になる意見が含まれているようですが、これが「本」なら読みやすいのですが、
パソコンの画面をスクロールしながら読んでいると、なかなか理解に及ばなくて。

>私たちの言葉は、
>そのままでは、食べられる水準に達していないのではないでしょうか?

これは非常に考えさせられるご指摘です。

中国やフランスでは、同じ中国人同士、フランス人同士で、「あなたは上手な中国語を話しますね」「あなたのフランス語は上手ですね」と褒めるようです。わたしも含めほとんどの日本人は、「日本語ができる」「日本人である」「共通の母語である」から「通じる」と思い、そこで止まってしまっているように思えてなりません。

>主義主張の前に、言葉に対する使用者の期待度が違うわけです。

それが「期待」であるのかわかりませんが、不快な刺激を避けたい気持ちはあります。
他の方のご意見にあったように、意見の相違などよりはるか手前の、「信号・刺激」としての「快・不快」のレベルです。

>もし、その人が大切な人と言葉を交わす必要があるとき、

どのような言葉を発するのか?

心はこもっていても、おいしい訳がありません。

これに関してはなんとも言えません。
わたしは、「心がこもっている」かどうかは単に「言語」のレベルだけでなく、声のトーンや表情など、非言語的な情報もひっくるめて感受するものだと思いますので、必ずしも「言語の洗練度」は問題ではないという考えかもしれません。

>ご自身の体調(メンタル含む)でしょう。

確かにこれはその通りだと思います。

でもわたしは主治医の説明によれば、「人と上手くコミニュケーションが取れないというところに、二次的に鬱状態が派生している」
状態だと思います。

その上で、

>ありのままの自分を是とし、通じ合えない場合に理由を作る場合があります。

ありのままの自分を「非」とした場合どうなるでしょうか?

反論のための反論の意図はないことをご理解いただければ幸いです。

こちらも率直な意見を書きました。更にご意見あればお聞かせください。

お時間を割いていただきありがとうございました。

お礼日時:2016/04/17 02:43

「認識が異なっている」のではないでしょうか?



細かく言えば一人一人違うのですが、共通認識として通じる範囲が
一定は有ると言う認識でいますよね。

そこが「そう考えるのか!」「そう言う受け取り方か!」
「そこが重要?」「そんな解釈する?」などのような
まったく自分の考えの及ばないところに向かい、共通性が見出せない。

そう言う認識の元、結果としての発言に至れば
発言になる前段階が分からない。

世代間相違では、よくある話しですが
リアルであれば埋めて行けても、ネット社会では
個をその個人として理解するのは難しいですね。

Q&Aは、基本言い放って終わりも多いです。
「なぜならば・・・」と言うような論理性のもと発言する人より
感情と自分自身のものの見方で「これが正解」ですから。

そう言うことに良し悪しは無いですが、認識が違えば
感覚に違和感として上がってくるので、そこは避けられませんね。


質問者としてアンケートでしたら、補足で相手の真意への理解に努めるか
ある程度回答内容を統計的に受け止めていくなど
自分に合う付き合い方を選んでいく必要があるのかもしれません。

生きている時代が同じでも、育つ時代が違えば
「同じ日本人か?」と思えるほどの違いは出ます。
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この回答へのお礼

こんにちは。

すみません。どうも今感じている違和感をうまく言語化して質問することができていません。

>そこが「そう考えるのか!」「そう言う受け取り方か!」
「そこが重要?」「そんな解釈する?」などのような
まったく自分の考えの及ばないところに向かい、共通性が見出せない。

とは、ちょっと違うようです。そのような「目に見える相違」「見解の不一致」ということではなく、
なんて言ったらいいのかわかりませんが、例えば、
「このリンゴ幾らですか?」
と訊いて、
「あ、それ、一個120円だよ。もうリンゴも時季外れになってるねえ」
という答えと、
「120円」
というのは、求めている答えは同じでも何かが違いますよね。
これは「日本語が」(或いは言葉が)「通じていない」こととは違いますね。

そんな感じの違いからくる通じなさに苛立っている気がします。

質問が曖昧で申し訳ありません。

再度のご意見があればお聞かせください。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2016/04/17 01:04

もしかしたら、ことばよりも気持ちの分野かもしれません。


ウマが合うとか気が合うと言った事です。
相手が会話に身を入れていないような時は反応も曖昧になりますから。
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この回答へのお礼

こんにちは。

確かに今の気持ちはそれに近いような気もします。
では何故、ほぼまんべんなく誰とも通じていないと感じるのか?

これは「哲学的な」質問・疑問というよりも、実際にわたしの「困った状況」です。

ご意見をありがとうございました。

お礼日時:2016/04/17 01:07

「人と言葉が通じていない」と言っても、関西弁を話す人と東北弁を話す人がお互いの言っている事が分からいというのとは違うのですよね。


つまり、二人の間に、標準語(共通語)の翻訳が入れば、理解し合えるというのは、「人と言葉が通じていない」とは、言わないのだと思います。

そうであれば。。。
「人と言葉が通じていない」というのは、言語としての言葉が通じないというよりも、「話が通じない」たとか、「会話が成り立ったない」というような感じのような気がします。
つまり、話の内容をお互いが理解し合えないという事ではないのでしょうか。

人が話す内容は、その人の思想というのか、知性や経験、物の見方・考え方や価値観等々によって、別世界の人の話ではないかと思える事があります。

例えば、同じ国防問題でも、非軍備論と武装論とでは、なかなか話がかみ合わないとか、宗教の信者と無神論者とでは。。。という事ではないのでしょうか。

そして、教条主義者とか原理主義者と言われるような極端な思想を持っている人で、相手の考えを受け入れる柔軟性がお互いに無ければ、話は全くかみ合わなくなってしまいます。

或は、喫煙問題に対する愛煙家と嫌煙家の話し合いや捕鯨に対する賛成論者と反対論者の主張等も、「人と言葉が通じていない」とか、「会話が成り立ったない」という類のものような気がします。

立場や価値観の違いが明確になり、それが際立ってくると、お互いに理解出来なくなるような事を言われているような感じがしますが、如何でしょうか。

で無ければ、話し手と聞き手がそれぞれ持っている文化や品性、資質の違いから来るのかも知れませんが。。。
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この回答へのお礼

>話し手と聞き手がそれぞれ持っている文化や品性、資質の違いから来るのかも知れませんが。。。

こんにちは。

多分この辺りのような気がします。
「通じなさ」は、自分は青だけれど、相手は黄色だという認識に基づいたものではなく、
なんとも言いようのない「不全感」のようなもの、違和感、拒否反応のようです。

それは政治的なスタンスの違いといったものではないというのは、質問でも触れましたが、
ネット上では、「自分とポリシーの点で正反対の人たち」の方が、より「言葉が通じる」と感じていることからも
わかります。

「スタンス」や「ポリシー」の異なる人と、どこまで接点を持ちうるかも、わたしにとっては大事なテーマなのですが、

今回は、ごく普通のどこにでもいる人、特に政治の話やスポーツの話をしているわけでもないのに、
何故か「自分からひどく遠くにいる」ように感じられてしまう人たち。ということのようです。

これは相手の問題ではなく、受信側、つまりわたしの受信の方法、或いは感度、性能の問題のようにも感じています。

マスマスわからなくなりましたか?(苦笑)

ご意見をありがとうございました。また何かあればお聞かせください。

お礼日時:2016/04/17 01:21

言葉とは、ある光や音の刺激パターン(信号)に対して、


反射的に特定のイメージ(過去の五感の相関した経験や、
そこから抽出された概念)を想起するように条件づけられ
たものです。

「言葉が通じる」=信号を介した双方で、同じイメージを
想起するには、まずその「条件づけ(言語の学習)」が
できていなければなりません。
しかしもう1つ、言語=刺激パターンは学んでいても、
その前提となる「五感の相関した経験」が大きく違って
いると、記号としては伝わっても、互いのイメージする
ものが食い違う可能性が生じます。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは。

psytex1 さんは、他のところで、「哲学は科学だ。古典哲学は「言葉の遊び」よく言えば「文学」だ」というようなことを仰っていましたね。ではわたしは古典派ですので、お手柔らかにお願いします。(笑)

回答にある、音の信号・刺激、という点で、考えさせられました。
つまりわたしが「話が通じているようだ」と(少なくとも限定されたネット上でですが)感じる人とは、どういう人たちかというと、
わたしにとって「耳障りのよい」日本語を書く人たちです。
つまり政治的なスタンス云々以前に、彼らの発話は「信号として受容しやすい」ものです。

一方で、信号として「不快な」刺激も。
それは多くの場合、「言語以外」の信号・・・例えばせわしない相槌、猫なで声、急いでいる様子、マニュアル的な対応・・・
そういう非言語的な領域での刺激を非常に不快に感じている自分がいます。

このあたりについて、更にご意見ありましたらお聞かせください。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2016/04/17 01:37

こんばんは、blueさん。




ご質問は拝見しましたが今回は欠席します、と書いておしまいにしようと思ったのですが、これでは回答になっていないので少しだけしゃべります。


もともと言葉が通じることなど滅多にないと思います。そもそも自分の思ったことや考えたことを常に的確に言語化して話すことができる人というのはものすごく少ない。それ以前に自分が実は何を感じており自分が実はどうあるのかを常に正確に把握できる人も少ないのではないかしら。わたしは今回は多数派です。言葉だけでは上手く通じ合うことができない連中の一人です。話が通じなくて残念に想うことはありますし、不用意なわたしの言葉が相手を傷つけることもありますし、相手がしゃべった善意的な言葉たちを悪意的に解釈してしまうこともあり、それも残念に思います。たいていの場合、そのことに気づくまでにたくさんの時間がかかってしまうことも残念に思います。


自分の話した言葉が相手に通じて欲しい・相手の話した言葉が自分に通じてほしい、そういった期待や希望や冀望や欲望あるいは思惑なんかがあると、お互い損傷や痛手を負います。損傷や痛手は大きかったり小さかったり長かったり短かったりします。怪我をしたり病気になるのが当たり前なのと同じぐらい当たり前のことです。生きていれば当たり前のことです。でもわたしは、だから期待や希望するのはやめたほうがよさそうだ、とは思いません。絶望しっ放しでいるより怪我をしたり病気になったりするほうがずっとマシです。無菌ルームで一生を過ごすよりは胃腸風邪やインフルエンザを拾ったり出血したり骨折したりしながら人と繋がっている方がずっとマシです。



話が逸れてしまい申し訳ありません。今日はこれだけです。
無理矢理今日の結論を書くとしたら、
◇1.そもそも通じないのが当たり前。
◇2.なぜなら自分とあいつには【違いがあるから】。







批判や反論はどなたさまからでも歓迎しますし必ず拝読します。ただし、わたしはそれらに反応できないかもしれません。その場合はどうぞご寛恕くださいませ。

 

追伸。
かういう問題は、一つの回答で全てが解決するものではありません。なるべく多くの良質な回答者様となるべく多くの良質な話し合いを気長にしてください。わたしの話すことはたいていいつも的外れですから。では。
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この回答へのお礼

こんにちは瀬里香さん。

忙しいところ、意見を聞かせてくれてありがとう。

>もともと言葉が通じることなど滅多にないと思います。そもそも自分の思ったことや考えたことを常に的確に言語化して話すことができる人というのはものすごく少ない。それ以前に自分が実は何を感じており自分が実はどうあるのかを常に正確に把握できる人も少ないのではないかしら。わたしは今回は多数派です。言葉だけでは上手く通じ合うことができない連中の一人です。

この辺りは、ヴィトゲンシュタインの「語りえること」「語りえないこと」の、言語哲学を思い出しました。

全てを語り尽くせると思うことが、そもそも間違いのような気がします。

わたしにとって、「言葉の有効範囲」はどの程度なのかと思っています。つまりわたしの言語におけるストライクゾーンは極めて、或いは普通の人に比べて極めて狭いのではないかと思います。

あ、それから前回回答をしてもらった「あなたは語れるか?」についてわたしの「お礼」兼感想を伝えたいと思うのですがどうしたらいいですか?

とりとめのない「お礼」になってしまいました。
ええ、みなさんの回答、とても参考になります。

是非またのお越しを!

息子さんのお誕生日おめでとうございます!

お礼日時:2016/04/17 01:59

8番のneutralingです。

どうでもよい追記です。
ソロモンは、なぜ動物たちと話ができたのかなあ……あるひは、どのやうに動物たちの意思疎通をしていたのかなあ……ふとそんなことを想い、そのまんま書きました。そのまんま送信します。
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この回答へのお礼

>8番のneutralingです。

ええ、わかっています(笑)

ソロモンですか?わたしは動物たちと言葉が通じるというと、先ずアッシジの聖フランチェスコを思い出します。

あ、それから、瀬里香さんはプラポタさん(でしたっけ?)と似た話し方(書き方)をしますね。
昔からでしょうか?

わたしは自分がどこの「言語圏」に属しているのかわかりません(苦笑)

お礼日時:2016/04/17 01:44

№2です。

心を入れ替えて頑張って回答を寄せたいと思います。

《ことばが通じない》場合を考えて おこたえとしたいと思います。長いです。




1. まづ 《虚数》という概念をタトヘとして用いて話を運ぶかたちを採ります。それはこ
こで一般的に言って《想像力》の問題です。

2. それをひとつの鍵語として コミュニケーションを分析します。この言語交通としての
マジハリはまづ ひとの意志行為です。ここに焦点を当てて行きます。

3. たとえば《実数》であれば 意志のあり方は イエスかノーかあるいはその中間でまだ
決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。ほかにはないでしょう。

4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?


 
5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手
から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり こ
れが 虚数の世界の吸引力であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶって
いる。

6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては《〔その人にとっ
ては不確かではあるが〕実数の世界( a )》とそして同じくいま《考えあぐねているその想像
の雲に乗ったどこか心の世界( b i )》とで構成される複素数( a + b i )としての実態であ
る。ということになるでしょうか? どうなのでしょうか?

7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もは
や実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?
 
8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。実数( a )
の部分は ゼロになってしまった。すべては 虚数部( bi )にあって想像をめぐらしつづけ
ているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが実際は その想像という
のは うたがいに満ちさらにはその猜疑心がひょっとすると敵対心にまで広がっているかも分
かりません。

8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象のことが思い
浮かびます。



9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成す
としたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると
見ます。

10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性の
さらに自乗として限りなくつづく過程である。 

11. 複素数の場合を考えずに単純に言って 《わたし》が 数として《一》であるならば 
わたしは その一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつ
つ( 1 + α )またそこから脱線をもしつつ( 1 - α )しかも 元の一に立ち戻って生きる。
( α の加減から目が覚めて われはわれに還り 1 に 1 を掛ける。これを繰り返して自己の連
乗積をつくる。すなわち  1^n = 1 )。

12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。



13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか・自分から何を思ったかおのれ
自身をめぐるあらぬ方面からあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。

14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もは
やそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのご
とく 虚数なる想像の世界一色となる。

15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も
が できない。できなくなる。

15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをの
み叫び続ける。

16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭を
つむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。
《ウリナラ・ファンタジー》。


 
17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロにな
り 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?
 
18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス《一》( i ^2 = -1 )となる。

18-1.次のような解説を得たことがあります。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一度の《へそ曲がり(虚数 i への片向き)》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕
在化する。

  1 × i = i  : (へそ曲がりの)潜在化の過程
  i × i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程

 * 《 i 》とは imaginary number の i です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。交通渋滞。コミ
ュニケーション不全。
 
20. というふうに推し測った仮説です。

21. 《ことばが通じる》ためには イエスかノーかまたは保留かの実数での自己表現が 
必要でしょう。あるいは少なくとも実数表現が基礎になっている必要があると考えます。《少
なくとも基礎に成っている》というのは 相手とのあいだにすでに何らかの暗黙の了解があっ
て実数による表現を省略するといった前提がある場合です。夫婦や親友のあいだでの場合だと
思います。
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この回答へのお礼

こんにちは、bragelloneさん。

「心を入れ替えて」とはどういう意味でしょうか?(笑)

これは本来は「お礼」ではなく、「補足」に記すことかもしれません。ですから「お礼」と「補足」が逆になるかもしれませんが、ご了承ください。

「言葉が通じる」「ひとと通じる」ということに関して、ここに頂いたbragelloneさんの「回答」、正直わたしの理解力を超えているようです。
そもそも、日頃感じている「言葉が通じていない」という感覚を、きちんと整理して、的確な表現で質問ができていないとも感じています。

これはみなさんからお寄せいただいた「回答」に、拙いながらも、補足、補完として、質問者の思うところを伝えることで、「質問として」出来上がってくるものだと思います。ですから、ぼんやりとして漠然とした感覚として「現時点で伝え得る限り」の質問を投じました。「やりとりの過程で出来上がってくる質問」なんて、反則かもしれませんね(苦笑)

さて、bragelloneさんの「回答」は、なかなかわたしには理解できない。(少なくとも今の「ひとと通じないことで疲弊」した頭では理解が困難です。と同時に、わたしの疑問に対して「答てやろう」というbragelloneさんや、瀬里香さん、他のみなさんの「心」は通じています。

何を以て「通じている」「通じない」といっているのか?

どうもこの辺りにこの質問の鍵がありそうです。

極めてあいまいな質問に時間を割いていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2016/04/17 00:36
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