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デカルトの「我思う、ゆえに我あり」ってどういう意味ですか?
あと、オススメのデカルトに関する哲学書などありましたら教えて仕りたく存じます。

A 回答 (5件)

モトはラテン語の Cogito ergo sum です。

cogito というのは自己意識する、あるいは考えるという意味の動詞なんだそうです。また sum は英語で言えば am、is、are に相当する、自分がどうであるという意味を示す動詞です。ergo は「それゆえに」という意味です。

この文章には主語(我:ego)がありませんが、cogito も sum も主語が自分であることを示しているので、あえて冗長な Ego cogito ergo ego sum とはしていない、と考えられています。
直訳すれば回答No.2にあるように「思う、ゆえに、あり」になります。隠された主語は我です。

この世にある知識に疑問を持っても、それを考える自分が存在することは間違いなく、意識をしているという疑いのない確実性がすべての認識の確かな始点になる…ということらしいんですよ。
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意味としては、No.2さんが正解です。


つまり、人間の判断の根拠は、「思う」にしかないと言う事を最初に宣言したわけです。(最初は思う主体の「我」の存在は認識する必要はあります)
これを出発点にして、そこから「我」を根拠としない、正しい認識へ進む方法をデカルトは考えたわけです。
「方法序説」ちくま学芸文庫(解説が充実している)、「デカルト」野田又夫著 岩波新書(青版)なども良いと思います。
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この世はバーチャルリアリティーかもしれない。



そうでない、という証明は出来ないだろう。

しかし、そう考えている自分が存在することは
確かである。

そういう意味です。
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これは誤訳だと云う事が知られています。

逐語訳は「思うゆえにあり」で主語が無いのですが、それは言語の特性で間違いではありません。なお誰でも知っているが意味は「考えているのは誰なんだよ」と云う事で、カントもフッサールも引き継ごうとして、カントは神学へ行っちゃうし、フッサールの現象論はむつかし過ぎて分け分からん。
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世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは一つもないのですが、デカルトは考えている「自分」がいることは間違いなく事実であると気づきます。

世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。
だから「我思う、故に我あり」ということかと。

とりあえずは「デカルト入門」(ちくま新書)を。
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