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不倫も公私混同も道理から見て悪いことです。

私はある時仲間内で飲んでいて「浮気は悪いことだよね」と言いました。
その時のメンバーは全員男性の既婚者でしたが、誰も賛成をしないどころ
か、「ばれない浮気の何が悪い」と怒られました。
人が浮気が大好きなことは良く知っていますが、芸能人などが不倫をする
と寄ってたかって吊し上げます。

某知事がとうとう辞職をしました。まあ、「ずいぶん派手にやりやがった
なあ」とは思いましたし、もちろん辞職も当然ですが、人が公私混同が大
好きなことも私は商売をしているのでいやというほど知っています。サラ
リーマン時代にもそういうことはよく見ました。
ばれなきゃやります。言われなきゃやります。一度やったら「既得権」の
ように思います。
そういう人は少なくないのに、他人がやると「大悪人」として憎みます。

こういうことって、何の錯誤あるいは何の間違いと言えるのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 道理って、社会の基盤になるもので、哲学といってもいいと
    思うのです。
    それを、いったいなんだと思っているのかということでもあ
    ります。

      補足日時:2016/06/22 17:10

A 回答 (23件中1~10件)

学習し無い野獣は、嘘と騙しに頼り、学習する人間は、真実を求める極めて自然な現象ですね。

野獣には、お金を与え嘘の世界の生存の世界学習する人間は、生産力を増し生存に不自由無く暮らします。全て承知していきます。馬鹿を入れると当然発生する事が予想出来ます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/06/30 22:13

死の文化と生存の文化の違い糾える縄の如しですね。

そして、進化しています。協力がないと生存が出来ませんそれがわから無い野獣は、襲い生存を保ちます。自然の摂理ヌー大群がライオンに食われるのと同じ原理から学習する人間が生まれ大量になり野獣の人間は、襲い学習した人間は協力の生産世界を作りだしました。馬鹿な野獣は、寿命が短く学習する人間は、寿命が長くなるのです。当然の結果ですね。一生は、あまり変わら無いどう生きていくかが将来の次世代に影響するのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/06/30 22:12

12です。



> 一番の難物は情報の「仮想現実性」だと思います。これによって、
> 要するに「何が何だか分からなくなっている」のではないかと思います。

そのとおりだと思います。あと「透明化」でしょう。何が何だか分からなくなっています。
現代社会には「公」と「私」の分類はそぐわないのかもしれませんね。

ビッグデータの試料みたいな私たちですから、こういう視点はどうでしょう。

1人ずつの行動は偶然や影響関係に左右されてばらついたり偏向したりしていますが、ひとたび人々の触角が同じ方向を向くと、《気圧》の高い所が局所的に生まれて、その渦中に置かれた1人が天候を左右することになる。。。

> また、「道理」が「宇宙の摂理」「教え」であるならば、その根本
> の部分は一枚岩で永続的であるべきだと思います。

「道理」は、、、、
事と次第によるので、無理を通すと引っ込んだり、曲げて例外になったりするということでよろしいのでは。

倫理という日本語がありますね。
中国由来の語で人倫と同義となり、ethicsの訳語を同時に担っています。基本的にethicsは、社会を形成する人間において、「社会のために」どう共存していくのがよいか、という哲学です。「社会秩序」のためには人々は努めよということにもなります。ただし、プラトンのように、これは論理に先立つ崇高なものだという古典的な考えもあるわけです。あなたはプラトニストでしょうか。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。☺

「透明化」なるほど。
ポルノの分野でも透明化が進んでいるようです。子供たちへの弊害は
ヤバいレベルになっていないかと心配です。

>1人づつの行動は偶然や影響関係に左右されてばらついたり・・・
その渦中に置かれた1人が天候を左右することになる

「社会心理学」なんかにこういう考え方があるのかもしれませんが、
アメリカのマーケティングのプロなどのほうが、研究をし心得ている
もののような気がします。
彼らは、人間の心理はもちろんのこと、社会の法則のようなものを深
く読み、日々売り上げの向上にしのぎを削っているようです。
「売る力」は日本はかなわないでしょう。

大まかな話で恐縮ですが、仰るような「社会的法則」あるいは「精神
的法則」は「物理的法則」と同じ量だけ当然存在すると考えます。
そして、これからは、精神的、社会的法則の発見の時代に移行してゆ
くだろうと思いますが、相変わらず、「金儲け」のためにのみ使われ
ないようにしなければ悲しいですよね。

仰るように、「倫理」という言葉のほうが、意味的には合うようです
が、何か気に入らないんですよね。少し考えてみます。

それから、「プラトニスト」等のかっこいい肩書は私には相応しくな
いです。あの、その、教養があまりないものですから。

お礼日時:2016/06/27 22:10

その通りですね。


昔は人食い人種とか、今でもあるインドのセンチネル島に住む部族とか見てもそうですが、道徳観、倫理観学ばない環境で育つと知恵のある動物と変わらないと自分は思います。
自分は性悪説支持者ですが、
性善説でも性悪説でも環境がとても重要ですよね。
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この回答へのお礼

再度の投稿ありがとうございます。

「主体」と「環境」は切っても切れない関係で、これを突き詰めると
面白そうです。

お礼日時:2016/06/26 21:05

#11関連で。



>申し訳ないですが、見当違いもはなはだしいですね。または「決めつけ」のようにも思えます。

折角、いつも興味あるご意見を披露してくださるニャンポコリンさんなので、このような感情的な反応の文章を書いれしまわれるのは勿体ないです。

ここは哲学と言う学術欄です。出来るだけ感情的な反応を制御して生産的な議論で互いの切磋琢磨をしながら理解を深めて行く、それが学問のやり方です。

多分私がニャンポコリンさんの文章を丁寧に読まずに誤解してしまったのかも知れません。あるいは丁寧に読んだつもりだったが、ニャンポコリンさんの文章の印象から私が読み違えてしまったのかも知れません。そんな可能性は少ないでしょうが、ニャンポコリンさんの文章の中に、そのように誤解させる雰囲気があったのかもしれない。でも、そのどちらであったかは、議論を進めて行く上で対して問題は無いのです。

このような場面は、学術論文を雑誌に投稿する際にも頻繁に起こることです。論文掲載にあたってレフリーとの辛辣なやり取りをしなくてはならない。その際に、レフリーがこちらの言いたかった通りに文章を読んでくれず、頓珍漢なコメントが来ることがしばしばあります。

その場合、

「もっと丁寧に読んでください。誤解も甚だしい。私はそんなことを書いた覚えがない。良く読んでみれば私はこうだと言っているのが分るはずです。どこをどう読んだらそんな間違った読み方が出来るんですか。」

と書いては駄目なのです。そのように反論を書いてしまうと、生身の人間である相手方も感情的になってしまい、折角の興味ある学術論文の内容にも関わらず、理不尽な評価を下されてしまいかねないからです。

そのような場合、出来るだけ生産的に議論を進められるように、私は学生に次のように返事を書くように指導しています。

「もしかしたら私の文章の中に読者を誤解させれしまうような表現があった可能性があり、レフリーの方を誤解させてしまったのかも知れません。私の言いたかったことは、レフリーの方とは反対に、こうこうだと言ったつもりだったのです。そこで、そう誤解されないように文章を改良してみました。そのような誤解を生む可能性のある文章を書いてしまっていることに気付かせてくださったレフリーに感謝致します。」

このように返事を書くと、相手方も、そうかそう言うことを言いたかったのかと肯定的に受け取ってくれて、議論が生産的に進んで行くからです。

ニャンポコリンさんが今後どのように反応なされるか知りませんが、議論の中で痛い経験を積みながら手に入れて来た知恵を老婆心ながらお伝えしておきました。
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この回答へのお礼

だって、cyototuさんが同じことを何度も言うもんだから、何か悪意が
あるんじゃないかと思って腹が立って、湯沸かし器が沸騰したのです。
ま、仰る通り「短気は損気です」。

G.Rさんのコメントにも書きましたが、cyototuさんがそのように誤解さ
れたことも無理もないことかもしれません。

私の哲学的主張は「生命の尊厳」と「人間主義」の二つだけです。

人間は「性善説」にしても「性悪説」にしても善意というものを育まね
ばならないわけです。
現代社会が哲学、道理、倫理、道徳といったものを捨てて、エゴに染ま
ってきていると思うからです。
そのために、この二つの哲学を性悪な人間達に「しつけ」る必要がある
と考えます。で、あとは全部自由であるべきだということです。

ただ、この複雑な現代社会にこの哲学を展開してゆくことは並みの努力
ではできないことと思います。

お礼日時:2016/06/26 15:07

追記です



ニャンポコさんは、「トンボはトンボ、蝶は蝶」で、もちろんいいけれども、
それら別種のものたちが背を向け合って「おれはおれ、お前はお前」ではなく、「同ぜず」(付和雷同せず)に「和する」=共存・共生・共栄という道を模索し得ないものかと言っているように見えます。
それは単一の「主義」「イズム」「文化」というものへの依存ではなく、また一方の他方への完全な依存でもない。
おそらくそれは、個々人の「自省」と「対話」から生まれるような気がするのです。何故なら「対話」こそ「他者」へ向かって差し伸べられる唯一の架橋方法であろうから。
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この回答へのお礼

「同ぜず和する」ーー哲人の言の貫禄がありますね。
その通りです。
そして、一人一人が自由自在であるべき。

「対話こそ唯一の他者への架橋方法」ーーその通りですね。

さすがです。

お礼日時:2016/06/26 14:35

こんばんは。



やはり問題が二層構造になっているように思えます。「公私混同」や「不倫」というものが、「道理」にかなったものであるか?という問題と、「人が人を叩くこと」の問題と。

個人的には猪突さんの文化的相対主義に共感しつつも、それではあらゆる事柄は「等価」という、完全な相対主義に陥ってしまって、
「善悪の彼岸」という視点に収斂・還元されてしまう。

科学的な視点から見れば、この文化的多様性こそ、ひとつが諸々の条件下で滅びても、別の種=文化が生き延びるということになるし、
社会的な見地からも、複数の(多様な)アイデンティティに足場を据える者が、ひとつの価値観にしがみついているものよりも強いということは言えるでしょう。

一方で、ニャンポコさんのいわんとしているのは、それでもやはり何がしか、守るべき「基準」のようなものがあって欲しいということかと思うのです。それを広い意味での「愛」或いは「思いやり」「想像力」ということもできるかもしれない。

猪突さんは「和して同ぜず」と仰っていながら、「同ぜず」に比重を置き、「和する」部分を等閑視しているように見えます。
「ひとはひと、我は我」でいいし、わたしも基本的にはそういう立場ですが、そこに一筋の、お互いがそこから清い水を掬い、渇きを潤すような清水の流れがあれかし、とも思うのです。

と同時に、ニャンポコさんの仰っている、

>また、「道理」が「宇宙の摂理」「教え」であるならば、その根本の部分は一枚岩で永続的であるべきだと思います。

というような話にも抵抗がある。

>私は「道理」という言葉の意味を「宇宙の摂理」のことだととらえています。
「宇宙の摂理」は人間の頭では理解できないと思いますので、感覚的につかみそう決めてきたのでしょうから、
地域によって多少の違いはあったにせよ、概ね同じものであったと私は思います。

というような言葉に接すると、猪突さんの

>ニャンポコリンさんのご意見は、価値観が違うんなら、議論や行動を通して切磋琢磨し価値観の違いを是正し共通の価値観に統一しようよ、と仰っているように思えました。

という言葉も、まんざら的外れではないと思います。

なぜなら、

>私は、個性を持つことに喜びを感じます。だから、常に個性的であろうとしています。人も同様に個性的であることが面白いと感じます。

という主張は、

人が則るべき、「一枚岩」で「永続的な」「教え」という考え方と背馳するように見えるからです。

ニャンポコさんの本意ではないでしょうけれど、これは教条的と言われても仕方がないのではないか。

さて、わたしの考えとしては、猪突さん、あるいは雨がっぱさんに近いのかな。

つまり自分の中に「こうあるべき」「道」というか「規範」のようなものがない。あるいはそれは極めて個的なものなので、
「それ」に照らして、これこれはどうなのか?どうあるべきなのか?という発想自体がないのです。

生活の中の「哲学」は、結局、それぞれが、つつましい日常の中に見出していくもので、またそれはたえず揺らぎ、常に検証されるべきもので、
ひとは、なにか確固としたものを持った時に、歩みを止めてしまう生き物のように思えるのです。
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この回答へのお礼

G.Rさんの投稿を読んで気が付いたことがあります。

社会の中で「宗教」とはどのように理解されているかといえば、すべての宗教を
足してその数(一万あるらしい)で割ったものということになるでしょう。
戒律のあるものも多く、肉食禁止とか輸血禁止とか断食があるとか布教のノルマ
があるとかいうものが宗教であると認識しているのでしょう。
ですから、これを布教することは価値観の押し付けになるーーその通りです。

ですが、私の信奉する宗教は、戒律というものが一切ありません。それを回答者の
方たちは知らないことに気が付きました。(おいおい、もっと早く気が付けよ)

戒律がないだけでなく、布教することも自由ですし、政治的態度も自由です。
哲学的にはどういうことかといえば、「生命の尊厳」「人間主義」この二つに尽き
ると理解しています。

親は子供に「人に迷惑はかけるな」と教えます。教条的です。この「人に迷惑をか
けない」ということを、突き詰めれば「人間主義」に行き着くと私は考えます。

宗教の教えはドグマチックなものです。それを受け入れることが信仰です。私がそ
れを受け入れたのは、哲学がシンプルで深いと思ったからです。

この二つの哲学については、私は主張します。人類の「道理」として定着すること
を願います。

お礼日時:2016/06/26 14:26

自分の事を棚にあげる人が多いだけなのでは?


本来人間は自己防衛の為に棚に上げるのが普通なんだと思います。
人は生まれついた時に道徳的概念を持ち合わせているか否か。
自分は持ち合わせてないと思います。
育った環境により道徳的概念を持ち合わせていく。
本能的にみたらそれが自然なのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「自分のことを棚に上げる」、実にわかりやすい表現ですね。

「性善説」にしても「性悪説」にしても、躾、教育が大事であり

その基となる、最低限の道徳観、倫理観はあるべきかと思います。

お礼日時:2016/06/26 13:50

こんにちは、猫りんさん。

ご返事ありがたう。

ここは哲学のカテゴリなのだけど、心理学方向から回答してみます。まず(長くて申し訳ないのですが)これを何となくでよいので斜め読みしてください。防衛機制。。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B …


以下、ド素人が思った通りにしゃべりますので間違いがあれば誰か直してください。主に【なぜ叩くのか?】についてです。よろしくお願いします。

まず、マ○ゾエさんを叩いている人たちは、自分も実は不倫をしたいという願望を持ってゐるのだと思ひます。そして(性善説の国ですので)そのことを認めたくないのだと思ひます。オレはあいつと違って清潔だと自分に言い聞かせて納得していたいのだと思ひます。これが【抑圧】です。
しかし実はマ○ゾエさんと同じことをしたいという欲求を閉じ込めたり追いやったり無かったことにしやうとしたりしている自分がいます。彼らはかういうときに【投影】するんです。自分をマ○ゾエさんや乙武さんに。このとき多くの人たちが【抑圧】していたものが一気に噴出するんです。丁度良いサンドバッグが突然現れたから。カモが葱を背負って向こうからやってきたから。たまたま。
彼らとマ○ゾエくんの違いといえば、【行動に出たか出なかったか】だけなんだけど。あと【その人が受ける視線の数】だけだと思うんだけど。
日本人はものすごく忍耐強いですからね。滅多に訴訟も起こしませんし。かういうときでないと【抑圧】していたものを噴出できない、という状況(文化)でもありまして。しかしですね、日本には【禊】という文化もありまして、わりとあっという間に【水に流して】清らかになったりもするんですね、ありがたいことに。もちろん罪は償わなくちゃなりませんけどね。



もうひとつ、心理学方面から。またまた長くて申し訳ないのだけど、これも目を通してもらえますか。ザクっとでよいので。認知的不協和。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E7%9F%A5 …

今回は不倫とか魔女裁判(?)のお話でしたが、人間は認知的不協和状態でいると心身の健康を保つことができませんし、そのことを身体が知っているから、ちゃんと自分で逃げ道を探したり別の道を探したり止まって考えたりできるようになってるんです。ごまかしたり真正面から見つめ倒したりするようになっています。今回は見つめ倒されたのがマ○ゾエくんだった、それだけぢゃないかしら。


批判や反論やご意見はいつも通り拝聴します。他の回答者様からの更なるご意見も楽しみにしております。お読みいただきましてありがたうございました。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

「防衛機制」「認知的不協和」面白いですね。
心理学がお好きなのですね。

いずれにしても、心の健康を保つための意識の下から湧き上がってくる本能的な
働きなのでしょうね。
物質的に身体を守る働きも随分解明されています。不思議ですよね。無意識の部
分にある本能って何者なのでしょうか?

一つ思うことは、無意識から意識へ上ってくると思われる「本能」的なものに対
する理性的抑制が極めて弱くなっているということです。

お礼日時:2016/06/26 13:44

人はどうしても快の方に引きずられやすい特性があります。


それで、快の方に引きずられる自分に対して、それを否定するのは辛い(不快)なことなので、それを合理化しようとします。
それで、自分自身のそのような行いに対しては、これをいけないことという風に思いたくない、思おうとしないわけです。

それで、他人についての同様の行いについて、なぜこれを責めたりするのかというと、大方は、自分が快と思うことをいとも簡単にやってのける人に対してのジェラシーの感情があるのだと思います。それは先に辞めた知事のことにしても、奥さんが妊娠中に元モデルと交わった国会議員のことにしてもです。

もちろん、それを責めるのは、そういう理由や動機がすべてではないにしても、多くの人の心に、そういう思いも結構あって責めている場合があるということです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

他にも同様のことを仰った方がいましたが、確かに
そういった「嫉妬心」は強いと思います。

お礼日時:2016/06/26 12:50

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