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古代3世紀の日本については、魏志倭人伝などで
卑弥呼率いる邪馬台国連合が紹介されていて
親魏倭王の金印、漢奴国王の金印があり
北九州を窓口に中華の国との交易を重視した国がある一方

唐書、日本書紀では、神功皇后が新羅出兵を行う
三韓征伐など南朝鮮半島(新羅、百済)への侵攻
日本府や弁韓(後の任那・加羅)支配を行っています。

これは、当時の日本には、二つの勢力があっと考えるべきか
一つの政権が中華と朝鮮と二つの対応を同時に行っていたのでしょうか。
以下は勝手な推測です。

推測1
  北九州と近畿に二つの勢力国があった。
  北九州の連合国は帯方群など通じて中華の国に王として認められた。
  卑弥呼が送った朝貢は、男女生口10名など貧しいものであったが
  その対応が早く感動を与えて親魏倭王の金印となる。
  近畿勢力の国々は、百済、新羅が弱小国であるので、支配下に置くために
  1万人規模の軍などを贈り統治を行う。
  朝鮮半島=>壱岐・対馬=>北九州の航路に対して、朝鮮半島=>若狭湾=>近畿の
  航路を作っていた。
推測2
  北九州から近畿まで統治する一大勢力があり、そのトップに当たる国(国王)がいた。
  中華には、伊都国の一大率に対応を任せており、卑弥呼も邪馬台国も作り話
  倭は、まだ文明にも遅れていて呪術で国をまとめている。朝貢も貧しい国を演じる。
  一方で、弱小国新羅に対しては進攻戦略を行う。
  神功皇后も神話であり、当時の政権のトップが軍事部門に命令して行った。
  唐書にも神功皇后の名前が出ているのは、日本書紀などを参考にしてので同じ内容に
  なっている。

卑弥呼=神功皇后とすると。一人の女性が、国内的には呪術を行い、中華には和睦関係
朝鮮半島には侵攻で力技と、とても一人で出来るとは思えません。
当時の日本の情勢をどの様に考えると、各歴史の書記や遺跡類と話が合うのでしょうか。
朝鮮へ送り込んだ軍は、どこの誰と考えるべきでしょうか。

A 回答 (1件)

卑弥呼と神功皇后では約150年の時代の差があります。

三韓征伐がいつなのか分からないなどとボケたことが書かれていたりしますが、おおよそ390年代で確定的なはずです。(卑弥呼は240年ころ)

記紀には三韓征伐の前に九州征伐(日本統一)の話があったと思いますので、その150年の間に北九州・邪馬台国が消え、畿内ヤマト王権が日本を統一したと見るのが正しいでしょう。個人的には南九州の熊襲に北九州・邪馬台国がほろぼされ、その熊襲を畿内ヤマト王権が討ち日本統一と考えています。
中国の歴史書(どれか忘れたけど)にはちゃんと、畿内ヤマト王権を邪馬台国などの今まで知っていた倭国とは”別種”の倭国であると明記されていたはずです。

記紀には、日本は生まれてから神様にもらってずっと天皇家が支配してきたから”別種”なんてないよ、という見え透いたウソが書かれているのですが、いまだにこのウソを見抜けない日本人が沢山いて笑えますね。
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この回答へのお礼

失礼いたしました。Wikiの
三韓征伐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93 …

神功皇后の新羅征討[編集]
夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。
とあったので鵜呑みにしていました。

>中国の歴史書(どれか忘れたけど)にはちゃんと、
>畿内ヤマト王権を邪馬台国などの今まで知っていた倭国とは”別種”の倭国であると明記されていたはずです。
興味深いですね。
4世紀後半
神功皇后の新羅征討
大和尊の熊襲討伐
と近畿勢力が九州南部・朝鮮半島を勢力下にする。
たぶん、それ以前に九州北部は近畿勢力の下にあった。
邪馬台国は卑弥呼の呪術で国同士の争いを避けてきた連合国
殺傷力のある弓・槍を使うヤマト王権の前に簡単に滅ぼされた。
と考えるとだいぶすっきり出来ました。

では
3世紀(邪馬台国の時代)の近畿勢力とは何だったのでしょうか。
日本神話にある 天孫降臨・神武東征 は、何を比喩したものでしょうか。

お礼日時:2016/06/26 08:38

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