プロが教えるわが家の防犯対策術!

数日前、わたしのFacebookのドイツ人の友人が、「最近のヨーロッパでの極右の台頭が怖い」といってきたので、「ヨーロッパだけじゃなく、日本でもアメリカでも同じだよ」と返信しました。

ところで、そのドイツの友人と、『顔のないヒトラーたち』という映画が話題になりました。
彼女やその友人のドイツ人も知らなかったということですが、わたしも未見ながら見てみたいと思っています。

その時の彼女の言葉「ナチスの犯罪はほとんどのドイツ国民が知っている、ただ一部の極右はそれを認めようとしない」ということばに考えさせられました。

「ホロコースト」を否定すること、それは何らかの「洗脳」であるのか? だとすれば、それは誰による洗脳であるのか? 或いは自ら「それ」を「否定する」という途を、自ら(主体的に)選択したのか?であるならば、それは何故か?

自分も含めて、人間て、そんな崇高なものじゃない。「かれがやったこと」を、何故「われはやらない」と言えるのか?

何故やったことを「やらなかった」ことにしたがるのか?いや、「やったこと」を「やらなかったことに」したわけではなく、そもそもそれははじめから「なかったこと」なのか?

上記のようなことを考えていると、歴史的事実は「神」の存在同様「不可知」の領域であるから、「ある」というひとにはあり、「ない」というひとにはない。それが我々の歴史=過去の出来事へのアプローチの限界なのか?

例えば、今年はフルシチョフによる「スターリン批判」60年目にあたりますが、プーチン政権下で、スターリンの再評価の機運が高まり、また政府による情報の統制(国家機密と個人情報に関する法律の壁)によって、スターリンに批判的な過去の記事には、専門家でさえアクセスが困難だと言われています。
これもまた「神」とは別の次元での「不可知の領域に」組み込まれつつあるようです。

歴史を学ぶとは、結局、「それについての様々な「解釈」を学ぶ」という意味に他ならないのか?

歴史的認識についてのお考えをお聞かせください。

暑くて参っていますので、お礼が遅れるかもしれませんがご了承ください、

みなさまもご自愛ください。

質問者からの補足コメント

  • マーク・トゥエインの言葉があります。

    『歴史はそれ自体繰り返すことはないが、それは韻を踏む』

    因果は巡る小車...9.11も、ISも、歴史の「脚韻」といえるのではないでしょうか....

      補足日時:2016/07/04 04:31
  • ”The only reason people want to be masters of the future is to change the past.”

    ― Milan Kundera

      補足日時:2016/07/04 04:40
  • 今回の質問で、わたしは今だ(そしておそらく今後も、ドイツにおけるホロコーストのような形で)評価の定まらないであろう日本現代史のあれこれの事件について、それの正否(存否)を問うているのではありません。

    歴史というものは、結局「相対性理論」同様に、観測者(観測する地点によって)異なるものであるのか?いや、厳密に精査すれば普遍的な事実が存在するはずだという、二つの立場が考えられ得ると思うのですが、みなさんはどちらの(どのような)立場を採りますか?という問いでもあります。

    ある事柄について、身近な例では学校でのAくんとBくんの喧嘩について、周囲の人間はどこまで「客観的に成りうるのか?」或いは「成り得ない」のか?

    歴史=過去の出来事が我々に語りかける声は、「どのようにもご自由に解釈してください」所詮は「死人に口なし」ですから、という身も蓋もない結論に至るのか?というようなことなのです。

      補足日時:2016/07/04 14:26
  • 今回の質問に関しては質問者自身が五里霧中であり、みなさまからの「回答」に自分なりに納得のゆく「返答」が出来ていなことを痛感しました。

    質問者として、知識不足と感じましたので、今回の質問は一旦締め切らせていただきます。

    みなさん、ご回答をありがとうございました。

    尚、本日図書館で以下の書籍を取り寄せてもらいました。



    「過去の克服 ヒトラー後のドイツ」石田 勇治/著 2006年 白水社

    「戦争責任の受けとめかた ドイツと日本」加藤 周一/著 1993年 アドバンテージサーバー

    「過ぎ去らぬ過去との取り組み 日本とドイツ」佐藤 健生/編 2011年 岩波書店

    「戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか 朝日選書 506」 粟屋 憲太郎/他著 1995年 朝日新聞社

    「歴史学の未来へ」ノーマン・J.ウィルソン/[著] 2011年 法政大学出版局

      補足日時:2016/07/04 23:52
  • 「歴史哲学への招待 生命パラダイムから考える」小林 道憲/著  2013年 ミネルヴァ書房

    「京都哲学撰書  第12巻  現代史への試み」上田 閑照/監修 2011年 燈影舎

    以上、歴史哲学というよりも、主に戦後日本史及び戦後のドイツと日本との相違の観点からの選書です。

      補足日時:2016/07/04 23:59

A 回答 (12件中1~10件)

~~~~~~~~~~~~~~~~



3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(ヤ)むことがない。

4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。

5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。


http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/da …


~~~~~~~~~~~~~~~~~


Tissat­thera­vatthu

Akkocchi maṃ avadhi maṃ,
ajini
maṃ ahāsi me;
Ye ca taṃ upanayhanti,
veraṃ tesaṃ na sammati.

Akkocchi maṃ avadhi maṃ,
ajini maṃ ahāsi me;
Ye ca taṃ nupanayhanti,
veraṃ tesūpasammati.

Kāḷa­yak­khi­nī­vatthu

Na hi verena verāni,
sammantīdha kudācanaṃ;
Averena ca sammanti,
esa dhammo sanantano.

Khuddakanikāya
Dhammapada
https://suttacentral.net/pi/dhp#3
~~~~~~~~~~~~~~~~


sanantano primeval; old; eternal. (adj.)


それが「永遠の」という意味らしいけれど、

仏教のそれも、上座部仏教のそれも初期の経典とされるダンマパダ

において、永遠が出てくるのは、不思議で、

最近、ブラジュロンヌさんのところで
永遠を話題にしたから、そのうち、このダンパダの永遠も考察する
かもしれない。

何度も休むといったのにこうして
投稿していたら、機嫌を悪くするかもしれないが。
いやとっくに機嫌が悪くなっているかもしれない。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

この「ダンパダ」というのが何であるのかわかりませんが、
確かに「怨みに報ずるに、怨み以て為すなかれ」ということも事実でしょう。けれど、では現実に我々はどうしたらいいのかを考えなければ一歩も先へ進むことはできずに、同じ場所で10年一日の言葉を唱えているだけになってしまいかねません。

ただ今回の質問である「歴史的事実」とはなにか?という問いに対して、このご回答がどのように結びついてくるのかがよく理解できませんでした。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/07/04 00:57

歴史自体は、それを体験した人が死んだら、後は記録や伝承だけになります。

(つまり、痕跡が無ければ、その後は消えて無くなります)
ホロコーストに関しては、まだ体験した人は生きているわけです。(高齢ですから、記憶は曖昧になっているかもしれません)
ですから、完全に無かったとは言うのは、難しいのは確かでしょう。
どちらにしろ、記録が失われれば、その痕跡は消えて、歴史は改竄されて行くのは事実です。
古代であれば、征服国家が、征服した国家の記録を消して、歴史を改竄するのは、良くある事だったと言えます。
歴史学者は可能な限り、残された痕跡や記録、伝承を調査して、歴史的整合性のとれた、歴史的事実を構成します。
ただし、それが完全なものとなる保証は無いわけです。
すでに、日本史においても、聖徳太子として認識していた人物は、歴史的に存在しなかったと言う説が主流となっています。
したがって、近代や現代においても、将来は歴史が正しく伝わらない可能性は確かにあります。
国家としては、正しい記録を残すために、可能な限りの書籍を所蔵しています。(日本では国会図書館です)
ただし、国家自体がそれを改竄したり、破棄する可能性は、排除できないですよ。
歴史を正しく認識するには、可能な限りの記録・伝承を集めて、その整合性を確認して、信頼できる部分を組み合わせる方法しかありません。
細部は失われても、その大きな流れは、ほぼ正しいわけです。
歴史を学ぶと言う事は、正しいと思われる、歴史を再構成する事と、その歴史的な流れを認識する事です。
歴史が、人間がどう考えて、行動してきたかを教えてくれる事を信じて、それを追求する事でしょう。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

>歴史を正しく認識するには、可能な限りの記録・伝承を集めて、その整合性を確認して、信頼できる部分を組み合わせる方法しかありません。

けれども、その「正しいと思われる」といい、「整合性」といい、「信頼できる部分」の集成といっても、その確からしさの根拠をどこに求め得るのか?という問題はないでしょうか?また、その「正確さ」は、何者によって判断され得るのでしょうか?

>細部は失われても、その大きな流れは、ほぼ正しいわけです。

「細部を失った大きな潮流」「細部の真実性を欠いた全体的な確かさ」というものに、なにか矛盾を感じてしまうのです。
言い換えれば、「全体」とは正確に嵌めこまれた無数のジグソーパズルのピースようなものであると考えるとき、細部の誤謬の積み重ねが巨大な正しいであろう潮流に成りうるのか?という疑問が残るのです。

お礼日時:2016/07/04 01:17

歴史には二つの面があります。



1,事実認定の問題。
 その事実があったのか否か。
2,事実が認定された場合、その事実をどう評価するか。
 悪かったのか、良かったのか、仕方無かったのか。

事実認定の問題は、理念的には客観的に確認できるはずです。
ホロコーストであれ、南京であれ、国家レベルで
科学的調査をすれば、可能でしょう。

この事実認定において、イデオロギーなどが関与する
余地は無いはずです。
勿論、解釈の余地もありません。

しかし、実際はイデオロギーなどが入ってきて
事実認定をゆがめます。
だから、質問者さんの指摘するような問題が
生じるのです。

南京などは保守系は無かった、革新系は有ったと
主張し、事実上イデオロギーの問題になっています。
ホロコーストも似たようなものでしょう。



歴史的事実は「神」の存在同様「不可知」の領域であるから、
「ある」というひとにはあり、「ない」というひとにはない。
それが我々の歴史=過去の出来事へのアプローチの限界なのか?
   ↑
そんなことはありません。
残された資料などから、客観的認定は可能です。
それを妨げているのは、政治です。

ホロコーストでいえば、疑うことすら許されない
ということになっています。
南京などは、調査を申し入れても、中国は、
あれは30万で決まっている、と相手にしません。

神ならぬ政治が介入しているだけです。

問題なのは、学者ですらイデオロギーで
その存否を決めることがあることです。

学者の名を捨てるべきです。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

頂いたご回答は巡り巡って質問に舞い戻ってきているように見えます。

現実に客観的事実は主観的事実 =「あった! / なかった!」「10人だ!いや千人だ!」が凌駕しています。

>事実認定の問題は、理念的には客観的に確認できるはずです。
ホロコーストであれ、南京であれ、国家レベルで科学的調査をすれば、可能でしょう。

>この事実認定において、イデオロギーなどが関与する余地は無いはずです。
勿論、解釈の余地もありません。

>国家レベルの科学的調査、けれども映画『カプリコン1』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%97 …
にも描かれているように

国家レベルでの「歴史の作成」は常に行われうると考えられます。

ですからこの質問は「イデオロギー」や「党派性」を抜きにした「純粋な歴史的事実」というものは存在するのか?という問いになります。

>問題なのは、学者ですらイデオロギーでその存否を決めることがあることです。

>学者の名を捨てるべきです。

けれども所謂「公正にして不偏不党」そもそもそのような学者というものが存在するのか、という疑問があるのです。

お礼日時:2016/07/04 01:36

申し訳ないけれど ≪正解≫を書きます。



1. ものごとには 

 人間の能力で認識しうると見られることがら( 事実=Y )
 と
 認識し得るかし得ないかが分からないナゾ(真理= X )

とがあります。

2. 言いかえるとそこではすでに 

 人間( Z )そして我れ( Z i )という認識の主体

が前提されています。

3. よって 世界ないし〔人間にとっての〕現実については 次
のふたつのものごとがあると成ります。

 世界・現実
  事実( Y )・・・主観( Z )→ 事実認識・世界観( Y - Z )
  真理( X )・・・主観( Z )→ 神観・信仰( X - Z )

4. けれども 主観( Z )は つねにひとりの我れという主観
( Z i )です。そして そのような特定の主観が 事実と真理とに
向き合うのですから それらをまとめて 次のようになります。

  われなる実存:わが世界観( X - Y - Z i )としての動態

5. ≪歴史的事実 ないし その認識≫は この広義の世界観の中
におさめられます。

6. 初めは 歴史についての事実認識( Y - Z i )としてその主観
真実であるしかない。ちなみに 同じひとつの事実( Y k )につい
て人の数だけの事実認識としての主観真実( Y k - Z i )があること
になります。

7. 歴史的事実とその認識というのは 言わば

  主観真実の集合(Σ Y - Z i )

ということになります。


8. とは言うものの 考えてみれば世界観は 万人にとってその
主観として受け容れられるような言わば

  あらゆる主観が一致した≪ X - Y - Z all ≫のような認識内容

であれば 文句なしだと考えられます。

9. ただしそのような全員一致はかえってあやしがられるかも分
かりません。

10. 両極のあいだに 無難な中間があるのでしょうか。

  ≪ X - Y -Z common ≫
   というような共同主観(コモンセンス)
   あるいはつまり常識

が。

11. 歴史学は ひたすら精度の高い資料を見つけ解読しさらに
全体としての解釈をほどこす。このような地道な作業を重ねて行く
ということになると思われます。

12. 一次資料と言われるものが 改ざん・ねつ造されていたと
したら どうするか? そのことについての事実認識およびその主
観真実をつねに改めて行く。・・・

13. なお神観( X - Z )は

  普遍神とわれとの関係( X x ‐ Z i )
  または 
  梵我一如(マクロコスモス ‐ ミクロコスモス)

といった一般類型として決まりです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

理想的なのは、おそらく、事実認識そのものではなく、「コモンセンス」のように思えます。
ドイツは、仮にそれが戦勝国=アメリカからの要求であったとはいえ、戦後に「より善き」Common Sense を築き上げたように思えます。それが「共同幻想」であったとしても。

逆に

>あらゆる主観が一致した≪ X - Y - Z all ≫のような認識内容

はまずいのです。これは既にエーコのいうところの 「原・ファシズム」"Ur Fascismo" です。
緩やかな「コモンセンス」は多様な意見を包含しますが、「同一の主観」は異質の排除に繋がります。
つまり言い換えれば、主体的にそのコモンセンスに加わっているものと、坩堝によって溶かされ、槌によって叩かれて、ひとつに合成された巨大な「鉄材」との違い、のようなものでしょうか。

>12. 一次資料と言われるものが 改ざん・ねつ造されていたとしたら どうするか? そのことについての事実認識およびその主
観真実をつねに改めて行く。・・・

問題は、先に話題になった、大衆=「わたし・あなた」が、例えば質問に挙げたフルシチョフのスターリン批判の資料のような、専門家でも現在はアプローチが困難と言われている(一次)資料にあたることはほぼ不可能という状態で、どのように歴史に対する自分のスタンスを決めるかということです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/07/04 02:06

谷山雄二朗さんの『SCOTTSBORO GIRLS』という映画も見てあげたらいかがでしょう。

たぶんYouTubeで見られます。

アメリカに住む人は、中国や韓国のロビー活動を目の当たりにしますね。
ロビー活動に権益や金銭は付きものです。権益も金銭も、うまく選べば息の長い生き物です。何のロビー活動であれ、衰退するには100年ではまったく足りないでしょう。事実は現在の眼前にあるわけですね。

ところで「歴史的事実」ってどういう造語なのですか?
「歴史的事件」なら単語として構成できると思いますけれど、「事実」はどうなのかなあ。。。
ギリシャ悲劇では、すでにこの難儀なものの扱いを見ることが出来ますね。
神託が鍵でしょうかね。オイディプス王はまさに事実の中に閉じ込められるというところ。
事実の中に視点を閉じ込めるとストーリーになる、って古代ギリシャ人は知っていたのですね。
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この回答へのお礼

こんにちは。

先ずはじめに言わなければならないことは、わたしは決して不偏不党でもなければ、公正な目を以て歴史を見ているわけでもない。
わたしには当然ながらわたしのバイアスがあり、好悪があります、更に言えば何者かに「洗脳」されています。
で、その上で、ご紹介の映画は、既に「櫻井よしこ」という名前が出てきて、目立った紹介記事が産経新聞であったということだけで、十分にわたしの「偏り」と対立します。(苦笑)(無論これが姜尚中推薦の「朝日新聞」の記事であっても同様です)

(ただ、一点だけ、引っかかったのは、「産経ニュース」掲載の記事に
『僕がチャレンジする慰安婦問題は(海外では)超アウェーの議論になるでしょう。だって国際社会では今や『慰安婦=セックス奴隷』ですから」』という点。

海外ではどうかは知りませんが、少なくとも日本国内で上記のような認識は極めて少数派であろうと思います。

わたしは自分を棚に上げて、何故人は真実を見ようとしないのだと他を糾弾するつもりはありません。
「歴史的事実」というある種のオキシモロンも、そのような意味で、そういうものが存在するのかという次元での問いかけです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/07/04 02:27

>「ナチスの犯罪はほとんどのドイツ国民が知っている、ただ一部の極右はそれを認めようとしない」



これってユダヤ人をたくさん殺したことは犯罪ではないという意味なのか
そもそもユダヤ人を殺していないという意味なのかどっちでしょう?
あなたは後者の意味で捉えているようですけど極右の人が認めないとなると前者の意味にも捉えられます
仮に前者の意味であるならばあなたの考えたことが宙に浮いてしまうので
ハッキリさせた方がよいかと思います

ちなみに私の歴史的認識は歴史とは天気予報のようなものだと思ってます
80%の確率で晴れだろう、でも20%の確率で雨ですみたいな
証言も資料も不十分で晴れか雨か、どの程度の確かさかを出せないこともあるし
それらが十分に揃ってるのでかなり高い確率で天気を予想できることもある
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この回答へのお礼

こんばんは。

>「ナチスの犯罪はほとんどのドイツ国民が知っている、ただ一部の極右はそれを認めようとしない」

ドイツ人であるこの人は、上記のような発言をしました。一部極右勢力を除いて、ほとんどのドイツ人はホロコーストによって数百万人のユダヤ人が強制収容所で殺戮されたという「事実を認識している」と。

一方同盟国である日本は、同じ1930年代から45年の敗戦に至るまで、ほとんどの国民が「当時の日本の軍人たちがアジア各地で何をやっていたか」を知っているか?という疑問です。日本史の偏差値が75あったわたしは、知りません。

そしてそれは何故知らないのか?仮に、歴史が勝者によって書かれたものであるならば、わたしたちは=敗戦国に都合の悪い、戦勝国の書いた「事実」を鵜呑みにさせられているだけのはず。それはドイツも同じです。けれども、われわれは何故、敗戦国でありながらわたしたちに「都合の悪い事実を知らない」のか?そんな単純な疑問がありました。

またドイツに比べれば個々の事実認識も曖昧のようです。ですから、自然と、歴史認識は「不可知の領域ゆえ」信仰同様に、
そうだと思えばそうだし、違うと思えば違う、というところに落ち着くしかないのか?という気怠い気持ちです。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/07/04 02:43

お礼ありがとうございます。


資料の整合性を推定するには、同時期だと思われる複数の資料もしくは、出来れば複数の地域の資料を集める事でしか出来ません。
単一の資料であれば、その信憑性は怪しくなります。
たとえば、日本の先史時代であれば、「魏志倭人伝」や、「古事記」、「日本書記」、「風土記」などを手掛かりに推定する事になります。
その中で、共通するものなどを抽出して、その信頼度を判定します。
歴史学も学問ですから、学会などで、主流派が決まり、それが、その時点で信頼性のある歴史となります。
判断するのは、歴史学者と言う事になります。(国家はその結果を元に正史とみなしますが、国家の方針により、それがゆがめられる場合もあります)
もちろん、全ての資料が偽書の可能性もあります。(考古学的調査などで検証も行います)
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この回答へのお礼

再度のお答えをありがとうございます。

同時期に書かれたであろう複数の「正史」ということであれば、為政者にさほどの変化はないということ、そうすれば編纂者の選択も似たり寄ったりで、異端の歴史資料というものが歴史上に上がってくる可能性は少ないのではないでしょうか。そういう点では寧ろ、複数の異なるアソシエーションからの、異なる視点から眼差された史実を基に、確からしさを探ってゆく方が、精度は上がるように思えます。

学会=党派ですよね。一人の人間=研究者がまったく虚心坦懐に無心に歴史に向き合うということは不可能としても、せめて、主流ー反主流といった党派性は脱け出して、一個の人間として、世界に対峙すべきだろうと思うのです。
であれば、それが所謂「普遍的真実」でなくとも、それはひとりの人間の血の通った歴史観として尊重し得ると思います。

お礼日時:2016/07/04 03:56

>われわれは何故、敗戦国でありながらわたしたちに「都合の悪い事実を知らない」のか?そんな単純な疑問がありました。



例えばどんなことがあるんですか?
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この回答へのお礼

加害者としての事実です。

>例えば朝鮮半島に対する、「皇民化政策」「内鮮一致」、1911年に始まる「朝鮮教育令」、そして、1939年に公布、翌40年から実施された、「創氏改名」 、更に現在ではほぼ日本の歴史上からは抹殺された「強制連行」...

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/9325546.html?pg=2&i …(回答No.30)

これらがドイツ人がアイシュウィッツを知っているのと同じような周知の事実であるとは思えないのです。

それは何故か?それがこの問いの主旨でもあります。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/07/04 14:06

他の方のお礼欄に書かれていることで、1つ心配なことがありました。


「日本史の偏差値が75あったわたしは、知りません」
という箇所です。
とても残念な気持ちになります。受験勉強は受験勉強、教育は教育だと思います。このあたりを少しごたまぜに考えているのでしょうか。あなたは教育には恵まれなかったのでしょうか。

わたしが公立高校で受けた日本史の授業は、山川出版社の日本史資料を読み込みながら、随時、教師が一次資料的なプリントを配布していました。読むので精一杯でした。教科書はめったに開かず、試験はレポートでした。

なので、歴史というのは、わたしにとって、広げられた資料のまま、根付いています。そしてもっともっと資料があるだろうという、そんな不安定さの中で、そこからわかること、またそれだけではわからないことが、示されうる学問として根付いています。大学の史学科に近い勉強をさせてもらえたのかなと思います。

映画は、1人で作るのも公開するのも、容易ではありません。
大変な努力だと感じてあげられれば、そしてその努力が報われるのかと疑問を感じてみたら、それで十分だと思います。
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この回答へのお礼

残念ながら、わたしは他の教科も含めて、殊更「受験勉強」ということを意識したことはありませんし、日本史は、先生がクラスの担任ということもあって授業がおもしろかった。それだけです。偏差値云々の個所は削除しても構わない記述です。(自分で編集可能であれば削除します)わたしは日本史が好きだった。たのしい授業だった。

>あなたは教育には恵まれなかったのでしょうか。

何を以て、「恵まれた教育」というのかはわかりませんけれど、わたしにいえるのは上のことだけです。

>映画は、1人で作るのも公開するのも、容易ではありません。
大変な努力だと感じてあげられれば、そしてその努力が報われるのかと疑問を感じてみたら、それで十分だと思います。

わたしのBiasからみれば、現在の日本でこのような映画が(興業的な収入は別にして、内容として)好意的に受け容れられるであろうことはある程度は予想できます。

それよりも、「戦争反対のビラを撒いて逮捕される」なんて言うことの方がずっと割に合わない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D …
辺野古での座り込みも同様です。

「今の行為が成果として実を結ぶのか?」という気持ちは、誰にもなく、それは彼らにとって、「今やるべきこと」以外の動機を持つことはないのではないか?という気持ちです。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/07/04 14:00

№4です。



★ ~~~~~~~~~
理想的なのは、おそらく、事実認識そのものではなく、「コモン
センス」のように思えます。
・・・
緩やかな「コモンセンス」は多様な意見を包含します
~~~~~~~~~~~
☆ コモンセンスの具体的なあり方について考えます。

一般に――具体的にと言いながら模型のごとくですが――次の三
分法で捉えてみるものです。

 同感が1/3
 共感が1/3
 反感が1/3

そして 共感派は じっさいには浮動層だと見るものです。

    *

日本古代史が話題になっていたのでそれにちなんで 雑談風に書
き込みます。

柿本人麻呂は 大君賛歌をうたった宮廷歌人――歌聖とさえ呼ば
れています――だというのが 現在のコモンセンスです。

次のうたを見てください。
▲ (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番) ~~~
  おほきみは 神にしませば
  天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまりその当時の通念・コモンセンスとして ≪大君が神で
あった≫らしい。それについて人麻呂は ≪ええ。なるほどそれ
ゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね》とう
たった。のではないか?

≪かな あるいは かも≫は肯定しつつ詠嘆する気持ちをも表わ
しますがその反面で――特に≪かも≫は―― 半ば以上に疑問の
気持ちをもほのめかすことが出来る。と思われますから。

これは 歴史認識をめぐる主観真実( Y - Z hitomaro )の問題
であると考えられます。


       *

あるいは:
▲ (万葉集 一・1) ~~~~~~~
 籠(こ)もよ み籠持ち         
 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち     
 この丘に 菜摘ます児          
 家聞かな 名告(の)らさね       

  ~~~~~~~~~~~~~~~~
  そらみつ 大和の国は        
  おしなべて われこそ居れ       
  しきなべて われこそ座せ       
  ~~~~~~~~~~~~~~~~

 われにこそは 告らめ          
 家をも名をも              
 (オホハツセワカタケルのすめらみこと〔雄略天皇〕 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このうたについては 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 
雄略物語にとり入れられた一首》で《その際 〔中ほどの三句が〕 
挿入された》(中西進:『万葉集  全訳注原文付 (一)』)と解
説されます。

ずばり 平屋建てであった市民社会(スサノヲ圏)が もっぱら
の公民圏(アマテラス圏)を増築して二階建てと成ったことを示
していないでしょうか?

その推測は その後の現在にまでおよぶ歴史を見ればうなづける
ものと思います。

こういった歴史認識とそこからのコモンセンスの形成という課題
が出て来ると考えます。


       *

その雄略オホハツセワカタケルは とんでもない人物だったよう
です。

オホケ・ヲケ兄弟のかたき討ちの物語が古事記にあります。

市長(もしくは大君)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広
げられていたところ 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオ
シハ)は 対抗勢力の雄略ワカタケルによって 暗殺されました。

その野原にともにいたオシハの双子の息子たちは 命からがら逃
げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえるこ
とにしました。

オシハの血筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟
を ついに播磨の地に探し出したと言います。迎え入れられ と
もに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵
(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

雄略ワカタケルは もう死んでいました。
弟のほう(顕宗ヲケ)が 強硬派で そのみづからに首長の位を
譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せ
と指示しました。

兄の仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して 
戻ると その旨を 伝えました。弟も これを了承しました。

後日談があります。
暗殺された野原の近くに 或る老婆(置き目の媼(おうな))が
住んでいて じつは暗殺の現場と その後 イチノヘノオシハが
埋められるところを 見ていて その場所を覚えていたそうです。

じっさい 果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出
っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさという物
語です。

この話に信憑性があると思わせるのは 日本国の正史である日本
書紀にこう書かれているところからです。

▲ (雄略ワカタケル=≪大悪天皇≫) ~~~~~~~
天下(あめのした) 誹謗(そし)りて言(まを)さく

  大(はなは)だ悪しくまします天皇(すめらみこと)なり

とまうす。(書紀 雄略二年十月)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 誹謗中傷は 字義通りには根拠のない話なのですが どうな
んでしょうか。


☆ どんなコモンセンスが かたちづくられましょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございました。

質問者の知識不足のため、今回は締め切らせていただきます。

お礼日時:2016/07/05 00:00

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