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例えばキリスト教徒が仏教はどのような宗教なのか、仏教にとって天国とはどのようなところか尋ねたならどうのように説明しますか。
私は次のように答えることにしています。
「仏教は宗教ではありません。
仏教は宗教ではなく、哲学なのです。
宗教ではないので、あなた方が考えるような天国とか地獄などという場所は仏教には存在しないのです。
仏教における天国とか地獄というのは、我々の心の状態を表しているのです。
つまり地獄というのは我々の心が貧しいが故に物欲に支配され常に満ち足りることなく喘いでいる心の状態のことであり、天国とは我々の心が豊かでありどのような状態で生きていようと常に満ち足りている心の状態のことなのです。
仏教は宗教ではなく、今ある我々の心をこのような平穏な状態に置くための心の持ち方、つまり哲学なのです。」

さて質問ですが、もしも外国人が仏教とはどんな宗教かと尋ねたら皆さんはどのように答えますか。

A 回答 (17件中1~10件)

お寺のお坊さんに聞いた方が早いですよ、って言うかな。

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それは唯心浄土とかいうやつで、



しかし、法然とか親鸞とかにとっては、
阿弥陀仏は実在することになっているのでは?
現代においては
宇宙のどこにいるのか?いないだろう?

という問題はあるけれど。
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この回答へのお礼

>しかし、法然とか親鸞とかにとっては、
阿弥陀仏は実在することになっているのでは?

それはただのタトエであって本心ではないかもしれませんよ。
それはイエス・キリストについても同じで、イエス・キリストの話は全てタトエに過ぎないと考える人も言るわけです。
タトエのことを聖書ではparableと言いますね。

>現代においては
宇宙のどこにいるのか?いないだろう?

阿弥陀仏が宇宙のどこかにいるわけがなく、阿弥陀仏というはこれもタトエでありまして、だから「阿弥陀仏は我々の心の中におわします」ってことではないでしょうか。

お礼日時:2016/07/21 08:39

仏教って地獄あるよね?


閻魔様〜とか
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この回答へのお礼

地獄というのはただのタトエでして、地獄はときとして我々の心の中に宿ります、ってゆーか。

お礼日時:2016/07/21 08:42

…私はあまり詳しくないですけど…。



仏教って主さんの仰る通り、元々はブッダが悟りを開いたことを人々が色々解釈し始めたのが始まり。
だから日本に伝わってきた当初は、貴族とか上の階級の人しかたしなめない、高尚な「学問」だった。
何しろブッダの教えを理解するには、まず読み書き出来ないといけませんから。
それがいろんな宗派に分かれて、庶民にも広まったのは戦国時代。
私が知ってるのは浄土真宗だけだけど…、浄土宗の開祖、親鸞の教えに深く感化された人(ごめん名前忘れた!)が、いろんな土地を回って見ているうちに、戦争に巻き込まれて苦しんでいる人達を見て、なんとか救いたいと思って広めたのが浄土真宗。

何しろ当時の庶民は読み書きなんて出来ないので、ブッダの教えを説いても理解しづらい。
そこで、最低限の読み書きだけ教えて「南無阿弥陀物」と唱えて仏様にお祈りすれば、死んで後、罪深い人も仏様となってこの世を見守り続けることが出来ますよ、と説いたわけです。これが浄土真宗の始まり。
…まあこれを「お祈りするだけ罪が許されるなら、いくらでも犯したれ!」という勘違いした馬鹿達(主に武器持った武士)も出てくる事態になり、これが一揆にまで発展する羽目になるのですが。

「信じよ、されば救われん」というキリスト教に似ているところはあるかもですね。
というか、宗教なんてのは何処かしら似ている部分は必ずあるんですけどね。
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「修行という要素が強調された宗教」。



キリスト教は強大な権力に迫害された中で成立発展してきた経緯があり
その過程で拠り所に説得力を持たせるために哲学的に詰める必要が生じ
それによって哲学という要素が強調された宗教という個性を持っている
と考えています。そして、その詰めた先に神が登場することになります。

それに対して仏教は成立の時点で強大な権力は存在せず
むしろ多様な主観的価値観の混在という混沌の中で
わがままの押し付け合いという状態に対応する
必要性を持っていたのではないでしょうか。

その結果として、より普遍的な拠り所としての主張の正当性を獲得するために
修行によりわがままから脱却することの大切さが強調される宗教という起点を獲得して
大筋においてそこから発展してきているという個性を持っているのではないか、と考えています。

歴史の流れを経た現状としては、さまざまな人としての限界を考慮に入れた
すそ野の広がりを持った宗教になっていると言っていいのだろうと思います。
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海外暮らしなのでよく聞かれますが、基本的には、すべての宗教は同じ考えで哲学を追及したもの。

人間という動物は一人で生きてはいけない、集団生活型なので、おたがいに気持ちよく暮らすために倫理が必要。他人に迷惑をかけないのが教義。そして、生誕、婚姻、死亡の儀式が三大儀式。儀式の仕方はその場所の習慣や気候で変化しているだけ。

天国・地獄は、他人に迷惑どころが害を与えるのは地獄行き、他人を助ける心を持った人は天国行きと。

カトリック教徒が98%の街に住んでいますが、かなり上層の聞く耳を持っている地位ある坊さんと話をすると、仏教の教えと一体どこが違うんじゃい、全く同じって感です。ただ、名前が違うだけ。

なぜ、人間は生きていくのか? 下っ端は、この世はこの世は仮のもの、永遠の楽園である天国にいく準備場所と。上層部の坊さんは、神様に感謝しながら、楽しんで生きていくため、と回答があります。
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いかにペテンから始まったとは言っても 人びとは ゴータマ・ブッダに


ついてとしても・あるいは後世のブディズムについてとしても 人生の根
本問題をめぐって 伸るか反るかの死闘を繰り広げて追究をして来ました。

末法といった時代区分を持ち出すまでもなく 現在では 伸びたうどんで
あり気の抜けたビール状態になっている。

死闘のあと ≪義無きを以って義とす≫という真髄に達したひともいた。

もともとブッダは 大化城を勝手に描いただけである。

人びとの生活がくるしいのを見て 言わばアヘンを処方した。

こんなにすばらしい心の状態に成ることができ おのれの思うようになら
ないという苦(ドゥッカ)から解放されるのだというお花畑を見させた。

人びとは それはそれはあたたかい心の持ち主であって その大化城なる
説教にまんまと引っかかってあげた。それだけである。信じる振りをして
ぎゃくに ゴータマのたましいをなぐさめてやっただけである。

ゴータマが言わなくとも 人生の根本問題は起きている。それについての
コタへは 無義の義である。

それ以降は すべて廃れた。
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仏教はカースト制があるヒンズーに対抗


するモノとして提唱されたため、公平、
平等を強調します。

仏教には本来天国も地獄もありません。
あれは、布教を目的として後生の人間が
創りだしたモノにすぎません。

キリスト教が神の教えに従う宗教である
のに対し、仏教は我が身をステップアップ
させようとする宗教です。
その為、修行が重視されます。

苦しみの元凶は我欲にあるから、修行により我欲を
捨て去ることを目指しますが、そんなことは
普通の人には不可能です。

だから現在では、お経を唱えるだけでよい、とか便宜的
になっています。

日本仏教は儒教と結びついて、葬式仏教に
なってしまいました。
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それを知ったかぶりというのです。


答えになっていないと思うよ。
相手は宗教としての仏教を聞いているのです。
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仏教とは元々は、釈迦がバラモン思想、ウパニシャッド哲学とバラモン教、後のヒンズー教のアンチテーゼとして唱えた、ブッティズム、のようです。


漢訳で仏と訳される、「ブッ」とは、導くもの、あるいは、悟りに導くの、と訳されています。ブツ、とは何かの説話に
業、心に駆られた動物としての行動の重さ故に。もがくほど落ちてゆく地獄への坂道で苦しんでいる亡者が、そんな坂道を身軽さ故に、苦もなく横切ってゆく、目覚めた人、に出会った。
私は運が悪かったのだ。もっと早く、仏、に出会っていたなら、こんな事にはならなかった。と言った。
釈迦がそなたは本当に、仏、に出会ったはなかったのか。と言うと。ただの一度もなかった。と答えると。そなたは、自分を苦しめるもの、怪我や病に苦しむ者、そして、死にゆく者などに、出会った事はないのか。とブッダが尋ねると。そんな事なら何度もあった。と亡者は答えます。
ブッダは。それが、仏、だったのだ何故その時、自分も同じあり方であると 学ぶ=考える 事をしなかったのだ。と言った。
世に仏の有るは難く、仏に出会うは難し。と言うのが、ありがたい、の語源のようです。
仏教は釈迦が死ぬと、理解できる者がほとんどいなくなり。誤解釈が広まり。弟子たちが集まり。何度かの仏教会議が開かれ。本当に釈迦の言葉、表現か、検証し。「私はこのように聞いた」で始まる、、経典が編纂され、仏教が誕生します。やがて、当然の如く、バラモン思想からの反抗としての、大乗運動が起こり。
仏教はヒンズー教に吸収される形で滅びます。キリスト教徒や、ヒンズー教徒、また大半のに日本人が認識している、仏教、はヒンズー教、なのです。
若い頃友人となったヒンズー教徒の青年の精神性の高さに感心した事がありますが。
彼によると。多くの神々、仏像、にはそれぞれ物語、寓話、がついている。その寓話を、信仰するのが、ヒンズー教である、と聞き、古代アテネのギリシャ神話、はバラモン教、ヒンズー教と同じである。インド思想が伝わっていたのかと感じました。
釈迦の思想、哲学、はすべてを捨てよ、ただし龍だけはそのままにしておけ。とあるように。心を捨てよ、が基本であり。悟り、とは心を離れた理法の体得であり。心の状態ではありません。八正道の第一番目は、思惟、すなはち考え方、理法、なのです。釈迦の理法は、この世界のあり方、の起こり方の、根本を知る。であり。あなたの言う、世界の法則性を知る、に近いでしょう。
釈迦の理法は、すべては縁によりて起こる。縁がなければ何事も起こらない。
起こる、とは形あるものが変化してゆく、事であり、その変化の過程としての今が「空間」という認識であり。変化する=変化を起こす能力、方向性 が縁であり。現代の言葉に当てると「時間」という概念なのです。そして、時間と空間はおなじもの「=」であり、一体「✖」のものである。
空間=時間  であり、空間✖時間=1 となる。
縁=起 縁✖起=1 と言うのが。縁起の理法であり。
般若心教の、
色即是空  色(形あるもの)=空(実体のないもの)
諸法空相  あらゆる物は空によって起こるものであり、
不生不滅、不垢不浄 不増付減  新たに生まれる事も、滅する事もなく、善悪美醜もなく、増える事も減る事もない。全体世界=一定 である。
私と同じ考え方をしている。として。自分の理論に、般若理論、と名づけましたが。
その後東洋思想に目を向けると、釈迦と同じ考え方をしている者がいる事に気づきました。「老子」です。かって理解できた者が一人もいないと言われるほど難解な哲学、との評を見。きっと空間=時間
空間✖時間=世界という事が書いてある。と直感しました。読むと、般若理論と名付けたのは早まった。
道理(とうり)と名付けるべきかも、と思いました。
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この回答へのお礼

>釈迦の理法は、この世界のあり方、の起こり方の、根本を知る。であり。あなたの言う、世界の法則性を知る、に近いでしょう。

仏教本来の姿がこれであるとすれば宇宙の法則がアルケーであるとする人の道の教えと同じものであることになります。
しかし今日の仏教にそのような理念が全く見いだせないのは残念で致し方ありません。
すべて葬式仏教、戒名仏教のなせるわざなのでしょうか。


>空間✖時間=世界という事が書いてある。と直感しました。読むと、般若理論と名付けたのは早まった。
道理(とうり)と名付けるべきかも、と思いました。

「宇宙と宇宙の法則は一体である」
わたしは勝手ながらこれをアルケー理論と名付けております。

お礼日時:2016/07/21 15:00

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