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人間が死んだらどうなるのですか。
科学的
学問
心理学
宗教 仏教、キリスト教、イスラム教
など
どの立場でもよいです。教えてください。

A 回答 (13件中1~10件)

それは、生きた人がいくら唱えても、想像にすぎません。


死んだ人にしかわからないことです。
ただ、言えることは、「無」になることです。
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e^(πi) + 1 = 0



オイラーと言う数学者が発見した数式です。
eは自然対数の底で、円周率πと同じように、小数点以下を幾ら計算しても無限に続きます。 この二つは、相互に無関係。iは虚数といい想像上の数字で実在しません。 例えば√-1 のように答えが得られない数字です。ある数xとxを掛けて-1となるものはありません。

ところが、自然から発見された二つの重要で無関係なeとπ、それと想像上の数字で、上の数式が成り立ちます。

なぜでしょうか? 答えが完全にゼロになるのです。
繰り返しますが、上の数字も元々自然界にあったものです。 人が考えた物ではありません。

上の数式はなぜ、そのようになるのか数式の正しさは複数の数学者により証明されていますが、理由は分からないのです。

これは一つの例で、世の中には論理的に計算でき、理由がわからないことが山ほどあります。

質問の答えは、この例のように「誰にもわからない」のです。 自然界から生まれ、自然界に淘汰される「今の時間」を精一杯感じられ、今を大切に感謝されることです。

昨日、福島で地震が発生し2011年の東日本大震災を思い出しテレビも含め日本中が緊張しました。 2011年の大震災ではたいへん多くの方が犠牲になられました。 でも、あれもこの自然界に自然に起きたことでした。

自然界は過酷であり残酷であり、それでも優しさや愛もあります。 これもまた、我々の一部なんです。
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>>人間が死んだらどうなるのですか。



科学的には、現代科学のレベルが低すぎるため、死後のことは判っていません。
量子力学とか素粒子論の最先端では、霊界の謎を解くような方向でがんばっているみたいですが、まだまた解明には力不足みたいです。

学問的研究では、臨死体験や前世を思い出した子供たちの大規模調査を通じて、生まれ変わりは事実だと考えられています。

仏教は、仏陀が悟られたとき、人間の霊・魂の生まれかわりの仕組みも同時に理解されたようです。
ですから、人間は死んだら、「あの世」に行って、審判の結果により、「地獄」と「天国」に振り分けられる。
その後、地獄で反省したら、天国に上れて、それから、また「この世」に生まれてくると教えています。

インドにおいて、仏教以前のバラモン教、ジャイナ教も同じく、死んだあとの人間の魂は、輪廻転生すると教えています。
ただし、人間に転生するとは限らず、牛や魚、虫けらに転生する可能性もあるとしています。
ですので、蚊に転生する可能性もあるので、蚊さえも殺さないとか、食べ物は野菜だけっていう菜食主義者になる仏教の宗派もあるようです。

キリスト教は、現在の聖書では輪廻転生は認めていません。でも、現代の聖書を読むと、キリスト自身が輪廻転生を語っています。

西暦553年にコンスタンチノーブルで開かれた宗教会議で、輪廻転生が否定されたので、キリスト教では、輪廻転生はありえず、それを主張すると「異端者」扱いされたりします。
ただし、新約聖書から、輪廻転生を肯定する部分の完全削除は失敗しているってことですね。
ちなみに、一般的なキリスト教徒が考える死後の世界は、「死んだら意識不明となって煉獄で眠り続ける。一千年王国が地上に実現したとき、眠れる魂は蘇る」ということらしいです。
いちおう天国と地獄もあると考えているようですが、筋道だった考えは無いみたいです。
なお、「自殺すると天国にいけない」という教えは浸透しているようです。
だから、「自殺か事故死か?」っていう判断は重要みたいで、「自殺」であっても「事故死」扱いにして、教会から埋葬を拒否されるのを避けたいみたいです。

イスラム教は、キリスト教の後にできた宗教であり、「あの世」を認めています。
自爆テロや婦女子を虐殺するイスラム教テロリストたちは、「殉教者になれば、あの世で酒池肉林のパーティに参加できて、処女が抱ける!」と教わるそうです。

エジプトの宗教は、ミイラが作られていることからも判るように、魂の輪廻転生を信じています。

古代ギリシャでは、「霊魂不滅」の思想がありました。ピタゴラスは前世の記憶を持っていたと伝えられていますし、ソクラテスは自ら霊界に行ったシャーマンでもあったそうです。


まあ、霊や魂を否定したら、宗教としての存在意義を否定することになります。
まともな宗教であれば、死後も魂(心)が存在し続け、輪廻転生することを否定することはありません。
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死んだら、死体になる。


周囲が何もしなければ、腐乱してバクテリアに食われ
やがては白骨化するだけです。

人間が持っている情報と言う観点では、どうですかね。
思考する部分(脳)を生かし続けられなければ
当人の意識は消滅し「死んだらどうなるのか?」という疑問も同時に消える。
何もなくなるので、当人にとって解はありません。
存在が消えるのみ。

死んだ後ならそれでもいいけど、死ぬ前から「消えるのみ」ではやるせない。
それで社会に名を残したいとか、死後の世界はどうなのかとか、の思想になる。

思想という分野に基づく宗教観は、宗教の数だけありますから割愛しますが
それらのすべてが、
死後の為にあるのではなく、
死後を想って悩む今の為にある、という事をお忘れなく。
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人間死んだら、灰になり骨になる、土になり骨になる。

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輪廻の否定をします。


地球上の人間とアリの重さが同じ。
では命の数は?
クジラの命。ノミの命。
おおきさは?
前世がアリで人に生まれ変わるなんてないのです。
命を構成しているものを素粒子と考えます。
一旦その構成が解けてまた別の素粒子同士が組み合わされ
また別の命となるのでしょう。
永遠に偶然重なった素粒子達の組み合わせ。
命は全てが一度きりだから素晴らしいのですね?
命は消えてなくなり、また違う命を違う組み合わせで生まれて来る。
これが現実です。
はじまりあって、終わりがある 死とは、皆に同じに訪れます。なのでそんなに恐ろしいものではありません。
心をやんでいたりしていられません。
大事に生きましょう。
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死んだ経験がないので実際のところは分かりませんが、亡くなった身内の中で過去の記憶を携えたまま生まれ変わった人が居ないところをみると、一生は一度きりだということでしょう。

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男性器と女性器は蛇です


その証拠に
人には爬虫類脳が有ります
色がある世界を見ているのも
記憶やイメージができるのも
爬虫類脳のおかげです
目はコブラを横にした
デザインと一致します

男性器は蛇
女性器は蛇の口の中

脳味噌は雄の蛇と雌の蛇が
絡み合う交尾の形
背骨から骨盤にかけての
骨は蛇の骨と同じ
肋骨もコブラと同じ
人の手足も蛇になる
歯茎と歯は蛇の鱗になります

宇宙にあるもの全ては
黄金比で出来てます
卵です守られているんです
銀河という蛇に
偽りの世界を見せられてると
言っても過言ではない

蛇はどのように子供を
産みますか?
卵を産みますよね

人の身体は魂が
宿っているんですよ

身体は殻なのだ
へー、びっくり

蛇のように賢く
ハトのように素直であれ

我々、人間の足の隙間は
景色と思い込んで
しまいがちだが
実を言うと自分達の
体の一部なのさ
それを忘れて
生きてる者達がいる

これしか答えはないんだよ
これを馬鹿げてると
言ってる者達は
善悪の知識の木の実を
食べて(偽りの洗脳教育)
育っているから本来の自分を忘れてしまっている
認めないのは疑いからくる
疑いは蛇の観察力が
足りないから
爬虫類脳で馬鹿げている
もしくは己自身が
蛇であるから正体を
知られる事を恐れて
陰に隠れる蛇的衝動だね

命の木の実に
真実の答えがある

十字架に人と書き木となる
脳を逆さにした
シルエットは
何に見えるかな?
トリックアートの様なものさ

これだけは言ってあげる
死んだら終わり
なんてないのさ

人は蛇なんだよ
だから蛇のように
人に手をあげたり
人の生き方を
爬虫類脳蛇の都合で縛り付け
人を困らせる事は
いけない事なんだと
己の哀れさを知り
お許しくださいと
生きる事ができたら
受け入れてもらえるだろうね

天と地があり
その中間に生きる
すべての生き物たちは
平和に暮らす答えがある
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仏教は古代インドのバラモン教から発展したものです。

したがってその経典はサンスクリット語で書かれており、中国にわたってその音を漢字に当てたものが日本に伝わっているのです。そのため南無阿弥陀仏と唱える文語にその漢字の意味はまったく関係していません。古代インドには、人間(生物)はその生涯の終わりに「死ぬ」のではなく、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの世界)を永遠に巡る(輪廻する)ものだと考えられていました。「永遠の生」を古代インド人は「苦しみ」と捉え、その苦しみから脱する(解脱する)方法を求めたのです。
釈迦は初め苦行によって、それを求めようとしたが、その考え方が間違っていることに気付き、とある木の下で悟りを開きました。その木は「菩提樹」と呼ばれています。菩提は古代サンスクリット語(梵語)で悟りの意味で、それに漢字の音を当てはめたものです。
仏教にいう人間の苦しみとは「生(生きること)」「老(老いること)」「病」「死」という人間の四大苦痛を指しており、これに「愛別離苦(愛するものと分かれる苦しみ)」「怨憎会苦(敵と遭遇する苦しみ)」「求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)」「五陰盛苦(あらゆる感覚〈五陰〉から受ける苦しみ)」の四つをプラスして四苦八苦と称しています。この苦しみからどうやって脱するか。釈迦によれば、そういう苦が生じるのは、もともと万物は無常であるのに、これを永遠・絶対のものと錯覚するからなのだとしました。無常とはこの世に常なる(永遠に不変)なものは何も無いという意味です。そういうものがあると思うから人は苦しむのだというのが釈迦の教えなのです。そういう「誤解」への執着を捨てた状態、欲望の燃え盛る炎が消えた状態を「涅槃」と呼びました。それだけでなく釈迦は、そういうことを考えている自身も「無」だとしたのです。つまり「無我」、「我(個性の根源)」の存在自体をも疑ったのです。
要するにこの世の全ての事物・現象は「空(実体がない)」だとしたのです。『般若心経』にいうところの「色即是空、空即是色」(この世の一切の物質的存在は空〈実体がない〉であり、実体がないものこそ物質的存在〈色〉なのだ)なのです。
こうして釈迦はその心理を悟り仏陀となったのです。仏陀と言うのは古代サンスクリット語の漢字音訳(当て字)で意味は覚者〈悟りを開いた者)の意を表しています。
こうして釈迦は悟りを開き、仏陀となって解脱に成功したのですが、では我々はいったいどうすれば解脱できるのかは、実は釈迦はその具体的方法をほとんど教えてくれてはいないのです。
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世の中はフラクタルな存在である。


フラクタルとは何か。
簡単に説明するならブロッコリーのことだ。
ブロッコリーは、その一部分を切り取ると、切り取る前と同じ形の縮小サイズとなる。さらにそこから一部分を切り取っても同じである。
もう少し科学的な分野に足を踏み出そう。中性子や陽子で出来た原子核の周りには電子がまわっていて、原子を構成している。地球の周りには月が回っている。太陽の周りには地球やその他の惑星が回っている。太陽系はまた何かを中心として回っていて銀河を構成している。
このように、何かの形が小さい領域から大きい領域まで連続している様子をフラクタルといい、宇宙を見てみるとこの世はフラクタルな存在であることが想像できる。

さて、次は次元を理解しなくてはならない。
0次元とは点のことである。
1次元はベクトルが一つできて線になる。
2次元とは二つのベクトルで表されるので、縦と横の概念ができ、平面となる。
3次元はもう一つの方向にベクトルができ、縦、横、高さという立体になる。
4次元は時間軸というベクトルができ、我々が生きている世界である時空となる。
これも、自然科学的に考えるなら5次元、6次元と続いていくだろうことは想像できる。
恐らく、5次元とは時空が複数存在する世界であろう。あなたが今、右手を上げた時空と右手を上げなかった時空というように、この世界の物体の動きの選択肢分だけ、別の時空が存在しているのだ。
6次元に至っては、複数の時空が更にどのように多様化するのか、もはや人間には認知できないだろう。

我々人間は立体の存在で時間の中を生きている。つまり、4次元の存在なのだ。
4次元の存在は3次元以下をコントロールできる。
つまり、立体の形を変えることができるのだ。子供が砂場で山を作って崩すことができるように。
しかし、4次元の存在は同一次元である時間をコントロールすることはできない。時間を巻き戻したり、未来に行ったりはできないということだ。相対性理論でいうと、光の速さを越えれば時間は巻き戻されるとのことだが、光は相対的な速度で存在する可能性があるあると共に、巻き戻された時点で今の自分はいなくなる。やはり、コントロール外ということだ。
また、4次元の存在である我々は5次元の世界を、つまり時空が複数存在するということで想像はできても、自分が存在している時空以外の時空を認知することはできない。時空間を移動できないということだ。
そこには、死んでしまったあなたの大切なひとが生きている世界がある。
全ての可能性が無限に続くのだから。
でも、この世界とは別物なわけで、我々とは関係ない。
願わくば、そちらの世界ではあなたの大切なひとが幸せに生きていてほしいと願うばかりであるが、恐らく、無数に時空が存在するわけだから、幸せに過ごしている時空も存在するだろう。

思考を研ぎ澄ませよう。自らの次元より下位の次元を動かせるという法則を適用すると、6次元の存在は5次元を動かせる。つまり、複数の時空間で何かを動かすことができるのだ。霊が現れるのは科学的にある意味正しい。6次元の存在が別の時空からこの世界にないものを連れてくることは理論上十分に可能なのだ。
少し戻るが、5次元の存在は現在過去未来を行き来する。つまり、様々な選択肢を作り出すことによって、新たな時空を作り出すことができるのだが、今我々がいる時空は変わらない。そういう意味で神ではないが、未来に行くことで、予言はできる。神の子にはなれるわけだ。
しかし、6次元の存在は我々の生きているこの世に別の時空から何かを動かしてくることができる。これは、我々からすると神以外の何者でもない。
そして、6次元を構成する新しいベクトルは、人智を超えた概念である。
縦、横、高さ、時間、時空の枝分かれ、その次にある概念とはなんだろう。
恐らく、あの世や天国という世界は、このベクトルによって構成されており、人間には認知することができない。

あなたは神を信じますか?
科学的に合理性を持って答えるなら、当然にイエスである。
そして、6次元以上の存在である神は5次元の存在である神の子を我々の世界に遣わせた。
イエスキリストその人に他ならない。
イエスキリストは予言をあて、生き返った。
未来に移動できるからであり、神の子として神という存在を知覚できるのは我々より上の次元である5次元の存在であったからであろう。
他にも、神の子として遣わされた存在はいるかもしれない。一人である理由がないからだ。
様々な宗教が預言者の出現によって成立しているのはこのためかもしれない。
教えや教訓が違うのも当然である。
我々は、自らが信じる神の教えを守り、死後の世界の準備をしなければならない。
恐らく、6次元を構成するベクトルは、物体という実在を超えた精神世界の連続性で構成されているのだろう。我々のような非力な存在にとって、実在以外の存在は、そう表現することしかできない。
子供を愛する親の想い、大切な人を愛する気持ち、困っている人を慈しむ感情。
こういった精神世界が実在から離れて行き来する世界。
これを天国と呼ぶならば、私たちは人を愛し、慈しむ気持ちを常に持ち続けることで、死後の世界に精神的に愛を持って存在し続け、大切な人達と関わり続けることができるだろう。
これが天国と呼ばれる世界なのだ。
反対に、人を憎み、妬む精神の世界は地獄である。

そう、汝の隣人を愛せよ。
常に良き心の状態を保ち、その気持ちを周囲に表現し続けること。
これこそが、我々が天国に行くために、生きている間に大切にすべき唯一の事柄なのである。
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