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私たち(哲学を知らない)は日頃、<自分とは目の奥に立っていて>、その自分が世界を見たり、思考をしていると単純に感じていると思うのですが、この<目の奥に存在している自分>というのは哲学用語ではなんと呼ばれているのでしょうか?

デカルトの「我思うゆえに我あり」というあまりにも有名な言葉がありますが、このデカルトの「思っている我」とは、私達が日頃、当たり前のように感じている<目の奥に存在している自分>のことだと、そう解釈していいのでしょうか?

また、このことについて研究をした哲学者たちについても教えてください。

A 回答 (3件)

「目の奥に存在する自分」って?


それ、見えているのが「目の奥の自分」だから。
量子論的世界像において、有限な存在性は認識される事に
よって二次的に生じる。

全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており、
無限につめ込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなる。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体
の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、
認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完
(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)
必要として派生している。
「〈目の奥に存在する私〉」の回答画像3
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> <目の奥に存在している自分>のことだと、そう解釈していいのでしょうか?



ちがうよ
<目の奥に存在している自分>のことだと《思っている存在》のことだよ

別の言い方をしてみると
<足の裏に存在している自分>と《おもっている存在》こそがデカルトが言う我だよ

我は場所としてや形としては存在していない
思うことでしかその存在を認識できないんだよ
だから思う故に我ありなのさ
クリシュナムルティが言うところの思考と思考する人は同じというやつだね
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「目の奥に存在している自分」と言うのは、貴方の言葉ですか?自分は哲学に詳しいものではありません。


昔は心臓に心があるとされていた時もありますが、今は脳が記憶や感情を司っていると解釈されています。
「目の奥に存在している自分」とは脳や心と呼ぶのはおかしいですか?貴方の質問にそぐわないですか?

デカルトの「我」は、全てのことは幻だったり、人それぞれに違うものかもしれない。私か赤に見えるものは、教えられて赤と言う色を理解している。他の人には違って見えているけど、これが赤だと教わっているので、同じものを赤と言っていんかもしれない。デカルトは、このようなことを証明出来ないし、他のことも証明することは出来ないと、考えた。唯一、「考えている自分とい事実」は確かであると言ったのです。
「目の奥に存在している自分」=「我」は間違いではないと思います。
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