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最近は、男性側レスの話題をよく聞きますが、
たまたまTVで、厳しい修行僧の番組があり、夫に聞いてみました。

夫は、修行僧も当然、妻帯は認められてるし、性欲は肯定されている。
修行中は禁欲かもしれないけど、一生禁欲生活なんて不自然だと。

でも、カトリックの神父は妻帯は認められてないし、性欲には否定的だと言うと、
そんなのは去勢でもしなければムリだそうです。

因みに、そう言う夫は単純おバカで、出産後は「とてもそんな気にならない」と2年近くレス。
私が襲って解消しなければ、私とは一生レスだったでしょう。
中高年以降は、その反動か?、熟年の今はエロじじいですが。。

その修行僧を見てると、煩悩や苦悩を超越した深い喜びがあるのかなと思えました。

A 回答 (5件)

元風俗嬢です。



20年余り男性をおもてなししてきましたが、僧侶も牧師も神父も普通に来店されていました^^;

よくご指名くださったお坊様は、法事の帰りに墨染の法衣をなびかせながらスクーターできていましたよ。法事の手土産片手に(笑)

出張で呼んでくださった某高僧さんは、ご本尊の真ん前でおもてなしいたしました。

かつて鎌倉時代の修行僧は、不浄観といって、「どんなに美しい女性も皮膚の下は骨と汚物である」という、ほとんど思い込み暗示で性欲を抑え込むドMな修行プレイをがんばっていたようですが、反面「女性(にょしょう)が禁忌でも稚児ならOK」と、ご都合主義解釈でいたいけな少年をさんざんいたぶっていましたし、例外はあってもやはり本能を精神力で制御するのは大方の男性がなしえない性(サガ)だと思いますよ。かのトンチンカンチン一休さんも無類の女好きで有名だし、最近ではキリスト妻帯説も浮上していますしね。

思うに、性を厳格に禁忌とする(つまり逆にそれだけ執着がある)宗教者より、ニューエイジ系とか正統派でないヨガ行者、もしくはヨガにどっぷり生活100%の「インドの山奥で~」タイプの方々のほうが、性欲を抑えるためというより結果的に性欲要らずの独特な自己世界を構築しているように感じます。
夕暮れの崖っぷちでありえないポーズを次々にこなす様、トランス状態そのもの。脳内麻薬でまくり?そりゃ性交より遥かにエクスタシーだろうなぁと、こっちは傍観するしかないみたいな^^;


私の個人的考えでは、ごく僅かな例外を除き、例え精神性の高い宗教者であれど、健康な男性であれば、性交であれ自慰であれ無精であれ生涯回避するのはまず不可能かと思います。

そんな稀有な例外で、私が色んな意味で尊敬するのはかのマス大山です。
山籠り修行の一年半、夜な夜な女性の裸が夢に…
「修行だ!」厳寒の中、川に飛び込みひたすら正拳付き、大木殴り、己の邪念と闘う。結果、本人いわく「女性への煩悩が消え、更に空手を極めることができた」(本当なら)そうです。
とりあえず大山総裁のメソッドを実践するのもいいかもしれませんね^^;
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この回答へのお礼

pamelaさま、素晴らしい回答ありがとうございました!

ベストアンサーをいただいたので先に締めきり、お礼が遅くなってすみません。

>ごく僅かな例外を除き、例え精神性の高い宗教者であれど、健康な男性であれば、性交であれ自慰であれ無精であれ生涯回避するのはまず不可能かと思います。

それが結論ですね!私も同じ考えです。

>性を厳格に禁忌とする(つまり逆にそれだけ執着がある)宗教者

そう、厳格に禁忌にする(抑える)ことはほぼ不可能で、その意義を問いたいですね。

>性欲を抑えるためというより結果的に性欲要らずの独特な自己世界を構築しているように感じます。
>トランス状態そのもの。脳内麻薬でまくり?そりゃ性交より遥かにエクスタシーだろうなぁ

なるほど~、それわかります!
トランス状態、脳内麻薬、それってセックスより遥かにエクスタシー、あります。

お礼日時:2012/10/16 00:00

僧侶が禁じられていたのは女性。


遣隋使が中国から持帰ったとされるの衆道です。

男色、ホモと言えるのかちょっと違うかも知れません。
僧侶はもっぱら少年を買っていたのが実態のようです。

明治維新により日本の風俗習慣は、西洋かぶれから排斥されて行きました。
変って、キリスト教の教えが広まったことも原因かなんでしょうね!
男性を買うことは表向きは見当らないけど、有るところには有る思います。

洋の東西を問わず不届き者はいるもので、人間は三大欲を禁じたところで
何の意味があるでしょうか?一生禁欲を通す人居るでしょうがけど少数派だと思います。

キリスト教禁じられた姦淫をしてはならないなど有名無実と言うもの!

>>私が襲って解消しなければ、私とは一生レスだったでしょう。
どうなんでしょうかねぇ? 大いに疑問に思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
お礼が遅くなってすみません。

>洋の東西を問わず不届き者はいるもので、人間は三大欲を禁じたところで
何の意味があるでしょうか?

はい、何の意味があるのかと思います。

そもそも誰も傷つけず、むしろ男も女も喜んで行為をしてるのに、
なぜ罪の意識を持ったり、恥の意識を持ったりするのでしょうね?

>>私が襲って解消しなければ、私とは一生レスだったでしょう。
どうなんでしょうかねぇ? 大いに疑問に思います。

そうでしょうか?いや、あり得ると思ってます。

お礼日時:2012/10/16 00:09

サウンドオブミュージックにも登場したザルツブルクにあるミラベル宮殿、17世紀のザルツブルク司教(カトリックの超えらい方)が愛人と子供のために作った宮殿です



結婚してはいけないとは言ってるが、セックスしてはいけないではないんですよ

比叡山の東側の麓は何があるかご存じですか?雄琴特殊浴場タウンですよw
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

中世は、表向きには、結婚してはいけない=セックスしてはいけない、だったのでしょう。

>比叡山の東側の麓は・・・

今もそうなんですか?
わかりやすいですね(笑)

お礼日時:2012/10/12 17:06

知人に高野山で修行した寺の息子がいますけど、護摩焚きや回業とかって、本当に煩悩をひとつづつ浮き出させ消していく事に特化した修行なんだそうです。


だから、出家して2ヶ月くらいは、みんな悶々としていて、オナニーや女の裸の話ばかりになり、3ヶ月位経つと皆、さっぱり性欲なんてどうでもよくなるそうです。
で、山を降りると俗世にまみれて1年くらいかけて性欲が復活したといってました。今は生臭坊主になってます。

その経験者がオナ禁なんて無意味と説いています。我慢しても性欲には抗えないんだと。性欲は潰して行かないと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>3ヶ月位経つと皆、さっぱり性欲なんてどうでもよくなるそうです。

そうですか、、ということは、環境次第では可能なわけですね。それは逆に驚きです。

>山を降りると俗世にまみれて1年くらいかけて性欲が復活したといってました。今は生臭坊主になってます。

こちらは、すぐ納得できます。(笑)
でも、復活するのに1年くらいかかったのですね、結構、重症でしたね(笑)

人間は俗世にまみれれば、いくらでも堕ちますよね。。

性欲は、我慢しても抗えないけど、潰す?ことはできるってことですね。

お礼日時:2012/10/12 16:55

>煩悩や苦悩を超越した深い喜びがある



あると言えばある、というか、
あると信じられる人だからこそ、
そういう深い喜びが実感できて、
禁欲するという意識もないままに、
性欲とは無縁な生活も可能なのでしょう。

しかし、そこは人間なので、中途半端な覚悟で
出家する人も多くいると思います。
隠れてする自慰や淫行、同性愛に目覚めるとか、
性犯罪に手を染める聖職者などというのは、
昔からパターン化されるほどありがちな話です。

信仰に基づいた深い喜びや悟り、
または、この世の無情さに対する諦め、
現実の人間(女性)への幻滅などを知って、
性的なことへの関心がなくなることもあるでしょう。

そのままでいるのなら、禁欲生活も可能ですが、
逆に、それまで知らずにいた恋愛や性の魅力に
急に目覚めてしまうこともあるでしょう。
そうなってしまうと、その欲望に抗える人、
本当に禁欲のできる人は少ないと思います。

元から性欲のない人、悟りきった人、去勢した人、
病人、…そういう人は、他の喜びを見出して
それだけに生きることもできるでしょう。
でも、僕も含めて、性欲を捨てきれない、あるいは
男であることの意識を捨てられない人間には、
理解はできても実行はできないことだと思います。
または、無気力な生き方をする人もいますが、
それで生きていけるとは思えません…。

それから、自慰行為の有無などは、本人にしか
わからないことでありますし、本人も気づかない
自慰的行為もあるかと思います。
たとえば、ここで見かけた人なのですが、
「自慰行為をすると病気になるからするな」という
偏った意見を吹聴せずにいられないというのも、
ある意味その人なりの自慰行為かもしれません。

他にも、お金に執着する、食べるのが大好き、
高慢で人を見下す、名声を得たいと思う、などなど。
性欲は抑えられても、別の形で欲望を露呈する人が、
禁欲的な人格者と言えるかどうか…。
そもそも、欲を捨てられる人には禁欲という意識は
ないのではないかとか、禁欲をするという考え自体が
俗な人間の発想なのではないかとか、考えてしまいます。

欲のない人というのも不自然な気がするし、
あえて禁欲するというのも不自然だと思います。
そんなことを超越して本当に悟るのでもない限り、
欲と無縁な生活などは無理だと思います。

それよりは、あるがままの業を認めて、
恋愛でも友情でも、人間関係において
お互いに共有できるものを持つ方が
喜びも深いのではないかと考えます。
…長文失礼しました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>禁欲をするという考え自体が
俗な人間の発想なのではないかとか

そうですね、そもそも禁欲って発想が、人間らしい俗な発想ですね。

男性の性欲は、女性のそれとはまた違うものでしょうから、まさしく、「禁欲』って感じになるのかな、
それとも、そういう意識もなく、性欲とは無縁の生活も可能なのかな、と思いました。

身近な聖職者?といったら、たまたまかもしれませんが、俗物ばかりで(性に関しては知りませんが)、
TVで見た修行僧は、ただストイックというのとも違って、とても知的で穏やかに見えました。

このQ&Aでも、男性の頭の中は、エロでいっぱい?みたいな回答が多いので(笑)、他の世俗的な欲望は捨てることはできても、性欲に関しては、同じ男性でどうなんだろうと不思議です。

まあ、個人差もあるし、先ず環境は大きいのでしょうね。

たしか、マーティン・スコセッシ監督は、神父になるための学校に行き、己の性欲に悩み、遂に神父の道を捨て、映画監督になったと聞いたことがあります。

文学や映画、芸術って、性欲の昇華みたいなところもありますよね。

>それよりは、あるがままの業を認めて、
恋愛でも友情でも、人間関係において
お互いに共有できるものを持つ方が
喜びも深いのではないかと考えます。

そうですね、私もそう思います。

お礼日時:2012/10/12 16:45

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