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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中91~100件)

自分の意見についての皆の感想を聞きたいだけでしょ


回りくどいですよ
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この回答へのお礼

☆☆(表題+趣旨説明欄) ~~~~
神とは何か?・・・・フルボッコのご批判をどうぞ。

文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせ
ください。
~~~~~~~~~~
☆ です。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/17 23:04

あなた神とは何か聞きたいんじゃなくて自分の意見を書きたいだけでしょ

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この回答へのお礼

ということは ツッコミのしどころがない。・・・という
意味ですか?

たたき台に賛成・・・という意味でしょうか?


ありがとうございます。

そしてご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/17 22:56

神とは何か


ウィキペディアで調べてください
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

反論が ふたつ あります。

あなたは ヰキぺでしらべたら どういう答えを得ましたか?



この質問は 趣旨説明としてたたき台を提示していますが
それについて フルボッコのツッコミをどうぞという恰好に
なっています。

お礼日時:2017/11/17 22:53

ニーチェの「道徳の系譜」の第3論文は面白いです。



ーーーー
僧侶は禁欲によって、ある優越感を手に入れようとしている。
ーーーー

つまり、禁欲は見せかけであり、やっぱり貪欲だったわけです。
もったいぶった、わかりずらい、高級な、つまり、
「偽装された権力への意志」だったのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ニーチェの「道徳の系譜」の第3論文は面白いです。
▲ 僧侶は禁欲によって、ある優越感を手に入れようとしている。
☆ と――それが 僧侶であろうと誰であろうといいのですが――
思い当てたと思う人間がいるということです。

フリッツ君は それだけの心と知性しかないということです。



★ つまり、禁欲は見せかけであり、やっぱり貪欲だったわけです。
☆ たとえば 次のように思う人間もいるのです。

生まれてこの方 二十年もしくは三十年経った。どうもわたしは人
間に生まれて しあわせ過ぎると思う。その度合いは これからの
人生のすべてを わが神にささげて生きても悔いはないほどだ。

と言って 修道院で余生を過ごすといった場合です。そこにはもし
お望みならば 《禁欲》なる生き方も入るでしょう。

それをも 《見せかけであり じつは貪欲だった》と見る人間もい
るということです。

これは たしかに趣味の問題です。世の中 分からないことばかり
です。




★ もったいぶった、わかりずらい、高級な、つまり、
「偽装された権力への意志」だったのです。
☆ チカラへの意志が 人間の欲することのすべての根底にあると
考え そうとしか考えられない人間も いるわけです。

お礼日時:2017/11/17 22:16

ーーーー


人間の欲望には 分かり合いたいもあるのではないか。

そして ゆづりたいも。
ーーーー
ーー>
たとえば、
人を助ける、という行為は、
自分の優越の確認のための行為である、
というのが私の考えです。
自分の優越への欲望(力への意志)ですね。
だから、相手が自分よりはるかに劣っている場合、
我々はたいそう《善良》になれます。
が、しかし、そのうち相手が自分より優越している
事がわかったとたんに、相手を思いやる気持ちはなくなります。
つまり、道徳心とはこんなメカニズムだったのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ ~~~~
分かり合いたい。

ゆづりたい。
~~~~~~
★ たとえば、
人を助ける、という行為は、
自分の優越の確認のための行為である、
というのが私の考えです。
☆ 《助ける》になると 助けたいのですが 受け容れてもらえますか
と 相手の意志をたずねなくてはなりません。

そのつてで言えば 相手の意志と合わさったときには まったく対等な
関係における自由な行為となります。

《優越》からは自由です。



そして 《ゆづりたい》によって言いたかったことは 一歩相手の意志
を優先するかたちを採ることによって――これも 相手の意志に俟って
こちらが行動するということですが そうすることによって―― こち
らは自分の自由を追求しやすくなると考えるからです。

道をゆづるという場合 《助けたいのですが・・・》とまでは言う必要
がなく ただ その場に立ち止まっていることによって 互いの意志を
確認することができます。

そして 相手が先に道をすすむようにするならば あとは こちらは自
由にすすむことができます。

もしこちらが先にすすもうとするなら 相手の気持ちや意向をおもんぱ
かりながら すすまなくてはなりません。自由が抑えられます。だから
です。



まあ そのことによっても:
★ 自分の優越への欲望(力への意志)
☆ を満たそうと思っていると言えば そうなのかも知れません。つま
り そこまで行けば 《趣味の問題》です。あるいは 見方の問題です。

どう見るかは その人の自由ですから。




★ だから、相手が自分よりはるかに劣っている場合、
我々はたいそう《善良》になれます。
☆ そういう場合も 《ゆづりたい》のです。善良感や優越感から自由
でいたいからです。


★ が、しかし、そのうち相手が自分より優越している
事がわかったとたんに、相手を思いやる気持ちはなくなります。
☆ 《そのうち》とか《やがて》という気遣いは ユヅリタイ心には起
こらないわけです。相手が対等なかたちで 先にその意志を行使してい
るからには あとで何かが分かってくるという気遣いはありません。


★ つまり、道徳心とはこんなメカニズムだったのです。
☆ 自分が自由でいたいという欲求は 自己の利益を追求するエゴの問
題です。道徳はクソくらえです。

お礼日時:2017/11/17 22:06

フロイトはこう書いています


ーーーー
人間の欲望は2つに集約できる。
名誉心的なもの、
エロ的なもの、
ーーーー
名誉心的なものは、ニーチェの「力への意志」で、驚くべき一致ですね。
ニーチェのアフォリズムの中の多くにこれが潜んでいますね。
それを読み取れた時は、快感ですね。
世の中の問題のほとんどは、これで理解できますね、整理できますね。

ーーーー
☆ 《力への意志》と言うと むしろ 一般的な意志を言い 《力への》
というときそれは 生存欲を言うのだとも言います。いづれにせよ 一般
性のある・そして相手や情況に対する攻撃性をも伴った生存欲であると。

しかるに 《権力への意志》と言うとすれば 特定されて来ます。職場な
どで その経営権をにぎるといったことがあり得たとしても やはり政治
の領域であり 間接的にせよ政治とからむのではないかと考えます。
ーーーー
そうかもですね。
この違いが私もわかりませんね。



ちなみに・・・
私の画像コレクションの95%はエロでアリマス!
ひっひっひ・・・
一応、人間です・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

人間の欲望には 分かり合いたいもあるのではないか。

そして ゆづりたいも。

お礼日時:2017/11/17 20:42

一般には「あらし」ですが・・・


サム用語では「ヤジや」ですね。
我々のような人間とは何かちがいます。
まともに回答することができない体になっていますね。
「万引き」をしてしまうものと同じです。
監視していないと、何するかわからない者たちです。

もうすぐ200ですよ!
まさかでしょう?
ほんとにやるとは思わなかったでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーー有言実行のサム




フフフ
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 一般には「あらし」ですが・・・
サム用語では「ヤジや」ですね。
☆ いいんですが ヤジやという言葉の響きは むしろ柔らかく言って
いるのではないかという感じがあります。いいんですけれど。

★ 監視していないと、何するかわからない者たちです。
☆ そうですか。そういう人がいたら たいへんだ。





★ もうすぐ200ですよ!
☆ たいへんだ。

お礼日時:2017/11/17 20:05

ーーーー


もしわが人間としての――相手に対する――態度として 人間性に
とって過少であったり過多であったりする負の内容が出てしまった
場合 論じられているように そのしっぺ返しを食らうことになり
ます。

そして それだけの話です。

僭越は 出しゃばりですよね。それほど大したあやまちでもないと
思うんですがねぇ。
ーーーー
ーー>
僭越とは、たぶん「権力への意志」をたとえているんだとおもいます。
彼の文章には、いたるところに「権力への意志」が潜んでいます。

ーーーー
問題は もし僭越ということで言うとすれば 過剰の僭越あるいは
自分では人間の自然本性にかなった態度だと思ってその僭越な振る
舞いをおこなう場合です。

あまりにも僭越な振る舞いに出会うと 人は 怒りをおぼえたり咎
めようと思ったりするよりも むしろすでに滑稽に思えて来るわけ
です。

ですから すでにそのような過剰な僭越に対しては なかなか 批
判をあたえようとしません。
ーーーー
ーー>
そうですね。
実力を伴わない権力への意志が、いかに他人を不快にするかですね。
その不快も度を越せば、むしろ、ばかばかしくなり、安心感ーー
自分のほうが上だというーーになります。

ーーーー
せいぜい ぶらじゅ君のような能天気者が まじめに批判をおこた
らないといった情況になるくらいです。

結論:フリッツ君に対しては 人びとは すでに相手にしていない。

社交性を欠かせぬという意味で いろいろ世辞を言う。こういう取
り扱いに成っているのでしょう。
きちんと批判するのは このぶらじゅ君くらいです。
ーーーー
ーー>
このような回答者は実に多いです。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像193
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 僭越とは、たぶん「権力への意志」をたとえているんだとおもいます。
彼の文章には、いたるところに「権力への意志」が潜んでいます。
☆ 《力への意志》と言うと むしろ 一般的な意志を言い 《力への》
というときそれは 生存欲を言うのだとも言います。いづれにせよ 一般
性のある・そして相手や情況に対する攻撃性をも伴った生存欲であると。

しかるに 《権力への意志》と言うとすれば 特定されて来ます。職場な
どで その経営権をにぎるといったことがあり得たとしても やはり政治
の領域であり 間接的にせよ政治とからむのではないかと考えます。

権力への意志については ふつう僭越とは言いませんが 過剰な生存欲と
してそう言えるのかも知れません。

ただし そうだとしたら はっきりと政治の世界における権力闘争なのだ
と はっきり言って議論したほうがよいかとも思います。



★ そうですね。
実力を伴わない権力への意志が、いかに他人を不快にするかですね。
その不快も度を越せば、むしろ、ばかばかしくなり、安心感ーー
自分のほうが上だというーーになります。
☆ ふうむ。


☆☆ ~~~~~~
せいぜい ぶらじゅ君のような能天気者が まじめに批判をおこた
らないといった情況になるくらいです。

結論:フリッツ君に対しては 人びとは すでに相手にしていない。

社交性を欠かせぬという意味で いろいろ世辞を言う。こういう取
り扱いに成っているのでしょう。
きちんと批判するのは このぶらじゅ君くらいです。
~~~~~~
★ このような回答者は実に多いです。
☆ ん? 《このような回答者》とは ぶらじゅ君つまりわたしの
ことですか?

でも わたしのようにニーチェを批判するのは 少ないですよ。

お礼日時:2017/11/17 20:01

>シェインドリンの本は 定説にもとづき うまく歴史をまさに物語


っていると思います。
ーー>
ユダヤ人に関心があった私には面白かったです。
BC587年(?)のバビロン軍による滅ぼし、十字軍の襲撃・・・


ーーーー
ダヰデの話は わたしも知っているので さらに伸ばして行くと面
白いと思ったり 預言者エリシャはよく知らないので まなばなく
ちゃと思ったりですが 特に論争のある主題を扱うわけではなく
筋に沿って 読み進むといった状態です。
ーーーー
ーー>
かなりの速読ですね。

ーーーー
『一神教』のほうは いろんな角度から論じるべき主題を扱ってい
て この出しゃばりぶらじゅろんぬ君も 一席ぶちたいところです
が なにぶん相手は 短くまとめて議論しているので 批判するに
しても その対象が必ずしもきちんと定まらないところがあります。

こういった事情で コメントは 期待外れになるかとおそれており
ひと言すでにいま前もって おことわりしておきたい。こう思う次
第です。あしからず。
ーーーー
ーー>
さっすがー
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像192
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この回答へのお礼

全体として そんな感じですね。

あっ。わたしは 《速読》でもないですよ。文字を追って
黙読しているので 人より速いということはないんぢゃな
いかとは思っています。



そうですね。シェインドリンへのコメントは たのしく読
みましたになるかも知れません。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/17 18:58

たまに出てきて長文で意味不明のこと書く人って、なんかさみしいですよね。


知袋でも、90%は「やじ屋」ですね。
かわいそうになりますね。
ちゃんとした仕事をできる才能がないのですね。
そんな分布になっているんですね。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像191
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「やじ屋」
☆ って言うんですか。 

わたし〔たち〕は ここで アラシと言っています。


ただし この頃は アラシも減って来ましたよ。めっきり減り
ました。

かつて(5,6年前ですかね)は き○が○ / 病院へ行け /
死ね のオンパレードでした。



わたしは アース役ですから これらにもまともに応対します。

つまり けんかします。さみしいんでしょう アラシくんたち
は。

お礼日時:2017/11/17 18:54
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