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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中71~80件)

あと18ですね。


ついにきました。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像220
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中休みです



トリスタンとイゾルデ
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■214


ーーーー
★ ここから、例の
「事実は存在しない、解釈だけが、我々の個々の体の事情に依存し、
つまり趣味趣向を介する形で、成立する」
というのが出てきます。
☆ 事実( Y )というのは 確かに人間が 認識するものです。

つまり 事実認識( Y-Z )であり しかも 一人ひとりがこれをお
こないます。つまり 事実をめぐる世界観( Y-Z i )です。

この事実〔をめぐる世界〕観( Y-Z i )が すでに事実についての
《解釈》をふくむとも見られます。

人間の主観( Z i )とは そういうものです。
ーーーー
ーー>
ここなかなかわかりません。



ーーーー
事実をめぐる世界観の総体 ( Σ Y-Z i )を前にして 人間はそこか
らさらに 最大公約数〔ということでは ほんとうはいけないので
しょうが ひとまづ〕を求めて 共同主観(コモン・センス)とし
ます。

この常識・あるいは学問においては定説をもって 生活共同をいと
なみ しかもけっきょくつねに この共同主観についても さらに
検証しつつ 見直していきます。
ーーーー
ーー>
>しかもけっきょくつねに この共同主観についても さらに
検証しつつ 見直していきます。
ーー>
これが意味あるものかどうかですね?

ーーーー
共同主観の共有については 趣味嗜好の問題ではありません。対話
の過程に入ります。

趣味の問題だと見る人は 人びとの総合的な対話を ただ傍観して
いるということです。
ーーーー
ーー>
対話においても趣味は切り離せません。
そのため、大げんかになります。


■215
ーーーー
★ 色盲は、実は個々の人にあって、それが極端な場合を色盲というのです。
認識についても同じことが言えます。
つまり、個々に違う場合、誤認と言っていいのかです。
☆ 共同主観をつねに人間は互いに 問い求めます。

どんな条件のもとにおいても です。
ーーーー
ーー>
>共同主観をつねに人間は互いに 問い求めます。
ーー>
ほんとでしょうか?
というより、自分の趣味に固執するのでは?
この議論そのものが、すでに互いの趣味に依存しています。
趣味の戦いになっていますよね?
兄貴は、わたしに協調しようとしていますか?


■216
ーーーー
★ つまり、どの人の感覚を「正解」とするのかです。
☆ 感覚の個人差を超えて 共同主観を問い求めます。
ーーーー
ーー>
感覚を超えると何が残るのですか?
何もなくなるのでは?

ーーーー
★ どちらが「誤認」なのでしょうか?
☆ 共同主観について それはつねに人びとそれぞれの事実誤認の上
に成り立っているという見解を持ち 訴えたかったら そうしていれ
ばよろしい。
ーーーー
ーー>
だめです!

ーーーー
そんなことは 共同主観の取り決めにあたって 当たり前の織り込み
済みであると人びとが誰もが 知っています。

気づいていなかったとしても そう言えば ただちに了解するような
常識です。
ーーーー
ーー>
だめです!
常識という言葉は、禁句でっす!

ーーーー
つまり 傍観者が ただ愚痴っているだけの話です。

ニーチェの阿呆にあたまをやられています。
ーーーー
ーー>
だめです。
ニーチェが好きなんですーー趣味の世界です、おいしいものはまず食べます。



217
ーーーー
★ 機械や回路の場合はそれができますが、それ以外のことでは不可能
に見えます。
☆ 共同主観が得られないとなれば しばしそれを得るための努力をし
ます。
ーーーー
ーー>
進歩信仰ではないですか?
それに見切りをつけるべき時が来ました。
いつになったら、うまくいくのでしょうか?

ーーーー
誤認や個人差を許容しつつ 一定の共同主観が得られたと共同主観し得
たならば 見切り発車をおこないます。
ーーーー
ーー>
それは「マルクス学」と同じでは?
共産主義の思想と同じではないですか?
結局うまくいかなかった!

ーーーー
★ Aをおいしいと思う者と、Bをおいしいと思う者をともに満足
させる手段がありますか?
ってんだ!
☆ なければ 趣味の問題になります。瑕疵を容れつつも共同主観が得
られたとなれば 試行錯誤の過程を経つつ実施に移します。
ーーーー
ーー>
>瑕疵を容れつつも共同主観が得
られたとなれば 試行錯誤の過程を経つつ実施に移します。
ーー>
共同主観そなるものが得られるかどうかですね?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーー
ですから 信仰と宗教とを区別するところから 絶対性理論を立てました。
定義と共有しうる物指しとを提示し そこから 普遍性のある理論を――
事実認識にもとづき世界の認識および変革のために―― 推し進めます
ーーーー
ーー>
★ これがなかなかりかいできません。
☆ まづイの一番に 経験世界とそれを超えた非経験の場とを 区別して
ください。すべては ここから始まります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うーーん
うーーーーーーん



これでもくらえーーーーーーーーーーーーー
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像218
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

■214
☆☆ ~~~~
事実( Y )というのは 確かに人間が 認識するものです。
・・・
人間の主観( Z i )とは そういうものです。
~~~~
★ ここなかなかわかりません。
☆ もう説明のしようがありません。



☆☆ 共同主観の共有については 趣味嗜好の問題ではありません。対話
の過程に入ります。
★ 対話において・・・大げんかになります。
☆ けんかが 試行錯誤であり対話です。


■215
★ というより、自分の趣味に固執するのでは?
兄貴は、わたしに協調しようとしていますか?
☆ 協調の問題もありますが まづは 事実とその認識に意を用います。

そこから 一般性のある・そして普遍性を持った理論をつくり 互いの
対話を推し進めます。

絶対性に 個人差を許容する特殊絶対性をも用意しているように どう
しても個人差の出て来ざるを得ない事柄については それとして処理し
ます。

処理し得ない場合が 趣味の問題です。

いままでのやり取りは いったい何だったんだ。



■216
★ 感覚を超えると何が残るのですか?
☆ 常識と日本語で訳されたコモン・センスは 元は センスス・コ
ムニスつまり 《共通感覚》のことです。

あるいは 感覚を言葉にして概念と成します。概念が 共通のツール
となります。

個人差がどうしても残るという事柄については 趣味の問題になると
はっきり言っています。

そのような一面の問題を捉えて 全面に押し出して来る。このフィー
マーの法則を 反省しなさい。



☆☆ 共同主観について それはつねに人びとそれぞれの事実誤認の
上に成り立っているという見解を持ち 訴えたかったら そうしてい
ればよろしい。

☆ フィーマーの法則。



217
★★ 進歩信仰ではないですか?
☆ 人間という存在について その感覚や思考が 有限で相対的な能力
でしかなく・しかも個人差をともなうという条件のもとに 相互理解を
図りつつともに生きる。――それだけのことです。

★ いつになったら、うまくいくのでしょうか?
☆ うまく行かなくても おのおの自分をうんうんと推して前へすすみ
ます。傍観者は 自由に愚痴っていなさい。


★ それは「マルクス学」と同じでは?
☆ そういうレッテル貼りは ニーチェ学に同じい。

お礼日時:2017/11/18 21:09

>誤認や相互の差を容れつつ 共通の事実認識を持って 家を建てたり あなた


たちのように機械をつくったりします。
ーー>
なるへそ・・・
これは予想していたご返信です。
機械や回路の場合はそれができますが、それ以外のことでは不可能に見えます。
Aをおいしいと思う者と、Bをおいしいと思う者をともに満足させる手段がありますか?
ってんだ!

>という条件のもとに 互いに事実認識を 事実に即して得ようとするし 
それぞれが持とうとします。
ーー>
それができないものがほとんどですすね。

ーーーー
ですから 信仰と宗教とを区別するところから 絶対性理論を立てました。
定義と共有しうる物指しとを提示し そこから 普遍性のある理論を――
事実認識にもとづき世界の認識および変革のために―― 推し進めます
ーーーー
ーー>
これがなかなかりかいできません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 機械や回路の場合はそれができますが、それ以外のことでは不可能
に見えます。
☆ 共同主観が得られないとなれば しばしそれを得るための努力をし
ます。

誤認や個人差を許容しつつ 一定の共同主観が得られたと共同主観し得
たならば 見切り発車をおこないます。

★ Aをおいしいと思う者と、Bをおいしいと思う者をともに満足
させる手段がありますか?
ってんだ!
☆ なければ 趣味の問題になります。瑕疵を容れつつも共同主観が得
られたとなれば 試行錯誤の過程を経つつ実施に移します。



ーーーー
ですから 信仰と宗教とを区別するところから 絶対性理論を立てました。
定義と共有しうる物指しとを提示し そこから 普遍性のある理論を――
事実認識にもとづき世界の認識および変革のために―― 推し進めます
ーーーー
ーー>
★ これがなかなかりかいできません。
☆ まづイの一番に 経験世界とそれを超えた非経験の場とを 区別して
ください。すべては ここから始まります。

お礼日時:2017/11/18 19:10

つまり、どの人の感覚を「正解」とするのかです。


甘いものが好きな人が正解なのか、
辛いものが好きな人がせいかいなのか、
どちらが「誤認」なのでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ つまり、どの人の感覚を「正解」とするのかです。
☆ 感覚の個人差を超えて 共同主観を問い求めます。

★ 甘いものが好きな人が正解なのか、
辛いものが好きな人がせいかいなのか、
☆ そのような条件としての違いは 前提として承知した上でのこと
です。

★ どちらが「誤認」なのでしょうか?
☆ 共同主観について それはつねに人びとそれぞれの事実誤認の上
に成り立っているという見解を持ち 訴えたかったら そうしていれ
ばよろしい。

そんなことは 共同主観の取り決めにあたって 当たり前の織り込み
済みであると人びとが誰もが 知っています。

気づいていなかったとしても そう言えば ただちに了解するような
常識です。



つまり 傍観者が ただ愚痴っているだけの話です。

ニーチェの阿呆にあたまをやられています。

お礼日時:2017/11/18 19:03

色盲は、実は個々の人にあって、それが極端な場合を色盲というのです。


認識についても同じことが言えます。
つまり、個々に違う場合、誤認と言っていいのかです。



担々麺!
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 色盲は、実は個々の人にあって、それが極端な場合を色盲というのです。
認識についても同じことが言えます。
つまり、個々に違う場合、誤認と言っていいのかです。
☆ 共同主観をつねに人間は互いに 問い求めます。

どんな条件のもとにおいても です。

お礼日時:2017/11/18 18:57

ここから、例の


「事実は存在しない、解釈だけが、我々の個々の体の事情に依存し、
つまり趣味趣向を介する形で、成立する」
というのが出てきます。
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この回答へのお礼

★ ここから、例の
「事実は存在しない、解釈だけが、我々の個々の体の事情に依存し、
つまり趣味趣向を介する形で、成立する」
というのが出てきます。
☆ 事実( Y )というのは 確かに人間が 認識するものです。

つまり 事実認識( Y-Z )であり しかも 一人ひとりがこれをお
こないます。つまり 事実をめぐる世界観( Y-Z i )です。

この事実〔をめぐる世界〕観( Y-Z i )が すでに事実についての
《解釈》をふくむとも見られます。

人間の主観( Z i )とは そういうものです。




事実をめぐる世界観の総体 ( Σ Y-Z i )を前にして 人間はそこか
らさらに 最大公約数〔ということでは ほんとうはいけないので
しょうが ひとまづ〕を求めて 共同主観(コモン・センス)とし
ます。

この常識・あるいは学問においては定説をもって 生活共同をいと
なみ しかもけっきょくつねに この共同主観についても さらに
検証しつつ 見直していきます。


共同主観の共有については 趣味嗜好の問題ではありません。対話
の過程に入ります。

趣味の問題だと見る人は 人びとの総合的な対話を ただ傍観して
いるということです。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/18 18:55

資本主義がいいのか、


社会主義がいいのか、
ユダヤ教がいいのか、
仏教がいいのか、
どれがいいのか?
この選択において誤認とはどういうことなのか?
単に、趣味のもんだいではないのか?

つまり、誤認とは何なのか?
そんなこと自体があるのか?

ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ですから 信仰と宗教とを区別するところから 絶対性理論を立てました。

定義と共有しうる物指しとを提示し そこから 普遍性のある理論を――
事実認識にもとづき世界の認識および変革のために―― 推し進めます。

お礼日時:2017/11/18 18:44

このあたりが確信です。




>事実誤認が多いということです。ですから 次の指摘は 筋違いです。
>哲学ないし学問では ゆるされません。
ーー>
そもそも我々を媒介され認知されることから、事実をそのまま見ることは
できないと思います。一人一人みな違う可能性があります。
必ず変形されます。原理的に変形されます。


たとえば「色盲」の場合、どんなに努力しても健康者と同じものが見えません。
しかし、各人のそれぞれ間カウが異なっている可能性があります。
また、人によって「おいしい味」や「美しい顔」がちがいます。


ーーーー
★ そう仕向けられている
☆ と言うのは 意志のよわい怠け者の愚痴です。
ーーーー
ーー>
色盲は意志では解消できません。
つまり、色がどう見えるかは、その者の健康レベル(位階序列)
によって決まっているのです。我々にはどうしようもありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

このあたりが確信です。


★ そもそも我々を媒介され認知されることから、事実をそのまま見ることは
できないと思います。
☆ 問題の捉え方が 違うのです。

★ 一人一人みな違う
☆ としても
★ 必ず変形されます。原理的に変形されます。
☆ としても わたしたちは 事実認識から 互いの意思疎通を図ることにな
っています。

誤認を少なくし 互いの認識の差をすくなくするよう つとめます。

誤認や相互の差を容れつつ 共通の事実認識を持って 家を建てたり あなた
たちのように機械をつくったりします。




たとえば「色盲」の場合、どんなに努力しても健康者と同じものが見えません。
しかし、各人のそれぞれ間カウが異なっている可能性があります。
また、人によって「おいしい味」や「美しい顔」がちがいます。
☆ だから?



★★ そう仕向けられている
☆☆ と言うのは 意志のよわい怠け者の愚痴です。
★ 色盲は意志では解消できません。
☆ 問題が違います。

★ つまり、色がどう見えるかは、その者の健康レベル(位階序列)
によって決まっているのです。我々にはどうしようもありません。
☆ という条件のもとに 互いに事実認識を 事実に即して得ようとするし 
それぞれが持とうとします。

論点のすり替えです。

お礼日時:2017/11/18 18:41

この読み飛ばしは、不注意であるとかではなく、原理的なものである、


と言っています。我々は、むしろ積極的にそうしている、そう仕向けられている、
ということなのです。
これは、その者のレベル(位階序列)によって決まっているのです。
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像211
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この読み飛ばしは、不注意であるとかではなく、原理的なものである、
と言っています。我々は、むしろ積極的にそうしている、そう仕向けられている、
ということなのです。
☆ それも言うなら 確信犯であるということでしょう。



★ そう仕向けられている
☆ と言うのは 意志のよわい怠け者の愚痴です。



★ これは、その者のレベル(位階序列)によって決まっているのです。
☆ これも 運命論者の言うセリフです。よ。

お礼日時:2017/11/18 15:34
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