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文字どおり たたき台です。思いっきり自由なお考えをお聞かせください。

○ 神とは何か?

§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えて
も分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     ・いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること。  

      ・科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。
 
   X=考えても分からないこと。

    ・いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと。

    ・人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
 
    ・もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れな
い。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決
められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定
済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは そ
れを超えて――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れ
たほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり 
あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は 絶対 X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その
精神も有限であり 経験世界 Y に属す。

《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言ってお
り――レトリックでない限り―― マチガヒである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって非
経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。




§2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意
思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝え
あっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出
して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議
論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の
領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考
えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対する
わたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは
無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 
経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり ど
う表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という
公理)。

(言いかえると 《信じる( X-Zi )》は 無条件で無根拠においてわが心に
受け容れるという意志行為である)。

 
したがって わたし Zi は 信じる( つまり 信じないの場合も同じ )の対象
(したがって すでに非対象)を 

《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 
《アミターバ(無量光)・アミターユス(無量寿)・ブッダ》 X-Zb

と言おうが 自由であろうし 

《神》 X-Zcとも 
《ヤハヱー》 X-Zd とも 
《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの
精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。 すなわち
《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。

人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という
言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく 
むろん k-a-m-i という発音でもない。

X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神と
その産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-
Z )とは峻別しなければならない。


  


§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の歴史( ΣY-Zn )に介在しうる
か。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて
来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )にお
いて 関係が想定されている。

介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議
すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていない
ということが 重要である。考えても分からないことなのだから 閉めたり閉じ
たりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入の
あり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても 
その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われ
ることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本
の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を
経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることで
はないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本
の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうる
けれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろ
うか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身
が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかに
しておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 
防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコ
ミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史( 人生 )の過程 
つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・か
のように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)
では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目
もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )
体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよ
いと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは は
じめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断され
るものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の
内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

  吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーション
  を進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。

質問者からの補足コメント

  • うまそうだ。


    昼まで 出かけます。

    No.25の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/04 09:00
  • №52つづき

    ★ 可能性ではなく原理的に、です。
    ☆ それは・つまり 原理的にという視点を持ち出すということは この世
    の中がすべては 相対的な関係として成り立っていると言っているのだと思
    います。

    それは そうなのでしょう。――でも それ以上のことは あまり言ってい
    ませんね。

    原理的にただしさ(変わらざる真理)が証明されないということは 相対的
    な世界で 可能性として妥当であったりなかったりするということなのでは?





    ★ 「マーフィー則」
    ☆ については 一面〔での妥当〕性を広げすぎだと言いました。




    ★ では、・・・1/87のアメリカの鉄道模型です。
    ☆ 実際のがいいです。実際のなら 鉄道全般が 好きです。

    No.52の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/07 10:36
  • 経験世界における真善美は 真偽・善悪そして美醜といった相対的な
    内容としてのものです。

    それらとは別に 想定として 絶対なる――非知なる――・真偽を超
    えた真理や 善悪を超えた・善悪の彼岸としての善と 美醜を超えた
    美があるという見方です。

    No.68の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 07:24
  • ようつべの前野氏の講義。――いま聞いたら 音が出ます。

    どうしてだったんだろう。イヤフォンの所為かも知れません。
    すみません。


    あらためて聞いてみます。

    No.66の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/10 08:52
  • 前野説は ダメです。

    能動的なチカラと受け身のチカラとの両方が 人間にはそなわっている。

    その受け身のほうを 全体にまで拡張したひとつの仮説である。からです。

    ニーチェにしても クリスチャンは 天国を志向しもう地上には生きてい
    たくはないと思っていると説きます。プラトンも イデアの世界を人は目
    指すべきだと言っている。両者は 同じ思想だと。

    ところが
    ▲ 神は 生きている者の神である
    ☆ とイエスは はっきりと言っています。ですから 誤解もはなはだし
    い。

    プラトニズムと一緒にしてしまうという誤解をした人びとのその思想を批
    判しているに過ぎない。

    つまり 聖書を何にも知らない。阿呆です。

    こういう事例は 例外ではないのです。



    マーフィ則も同じです。一面の事例を全体へと拡張しています。

    これは とても科学する心だとは言えません。

      補足日時:2017/11/10 16:02
  • 1. 前野説について。仮りにムイシキなる場からわれに 能動的および受動的
    な行動をうながす指令が来るとしましょう。つまり 全体として 《受動意識仮
    説》が当てはまると。

    2. そのときにも その指令を出す司令塔は ほかならぬわれである。・・・
    ということになるのでは? つまり ムイシキなる場は われである。

    3. そうでなければ そのムイシキと呼んだ司令は 超経験なる神である。

    4. けれども 人間は 神〔の霊なる場ないしチカラ〕を分有している。と想
    定されます。アートマン(霊我)あるいはブッダター(仏性)ないし神の霊です。

    5. このアートマンなるムイシキ司令は われにやどるという意味では われ
    のこと――わが心なる非思考の庭――であり ただし われの能力を超えている
    という意味では やはり神の霊なるチカラである。

    こういう問題なのでは?

      補足日時:2017/11/11 04:32
  • つづき

    ★ 我々は、時に、相手を思いやり、時に、意地悪をし、時に、相手の
    不幸を最高のイベントにします。
    ☆ それらすべてにわたって ひとの意志を踏みにじっていないかどう
    かや また同じことですが ヤマシサ反応に逆らっていないかどうか
    このリトマス試験紙が あてがわれます。区分されます。



    ☆☆ 抵抗も抗議も原状復帰も ナンセンスなことになります。
    ★ ~~~
    そのとおりです。
    ・・・
    手の付けようがないんですね。

    実際、兄貴のような考えでよくしていこうというのは不可能であると思
    います。
    ~~~
    ☆ ですから そういう自由度が――悪貨が良貨を駆逐するごとく――
    優勢であった時代・つまりじんるいの《前史》から やがて内なる開花
    とともに 《後史》に入ります。

    No.97の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 08:57
  • つづき

    ★ テトリス、コスモス、和の心の、神は調和的に人類の見方でした。正義の
    味方です。true justice.
    ☆ なぜ そうなりますか? 属性を考えて 真理・愛といったことを持ち出
    しましたが 《正義》は どうでしょう? 

    つまり 否定しようとはしませんが 愛が 愛憎を超えたものであるように 
    正義も 正邪を超えたものなのでしょう。


    ★ ボジョレーヌーボー開けて待っててね。
    ☆ ワインも何も 飲まなくなったなぁ。

    No.102の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/12 17:52
  • ▲ ソシュールの思想 単行本 – 1981/7/15
    丸山 圭三郎 (著)
    https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%8 …

    ☆ ここに カラーは 二度 触れられていました。

    丸山は 好意的にその研究を取り上げています。

    カラーという名が 名であるので わたしは見過ごしたかも知れません。

    No.156の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/16 16:35
  • 回答者が  mpcsp079gooさんだと思ってお応えしました。

    間違えました。すみません。

    特に ニーチェの揚げ足取りをしているところなどは 相手を
    間違えています。

    ご海容のほどをお願いいたします。



    (補足欄は これで10回すべて使い果たしました)。

    No.176の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/11/17 14:12

A 回答 (290件中51~60件)

ーーーー


人びとの罪をあがなうというのは 特殊な絶対性のもんだいです。
それでよければ ひとつの説明をお話します。

例の悪魔を登場させます。

悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神
に許されてハタラキを持ちます。

つまり 人間の罪をあがなうというのは 悪魔を征服するという
話になります。

なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある
――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラ
キですから すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるよ
うに引き受けたなら あがなうことになります。


例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪
へと誘います。

けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると ちょっと趣
きが違っていた。

イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アー
ス役よろしくその心身に受け留めてしまっていた。

では 死 この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔に
とって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出
来るか? と問いかけた。

つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたが
って イエスを死刑に処することになるようにことを運ばせた。


つまりは イエスとて おのれの現実の死に追いやられたなら
おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこある
まい。という魂胆である。


果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか?

降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。

つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等
に接していたイエスは その死そのものにも成るというわざに出
てしまった。

へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留め
た途端 すでに身も心も溶けてしまった。

――というわたしの捏造物語です。
ーーーー

ーー>
うーーん・・・アーメン

アースは「マグマ大使」出てきます。
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この回答へのお礼

★ うーーん・・・アーメン
☆ って 絶句ですか?

ただのわたしが捏造したお話なのに。



ご回答をありがとうございます。




★ アースは「マグマ大使」出てきます。
☆ ヰキぺを見たら
▲ 地球の創造主アース
☆ ということですね。

言葉――つまり《 earth 》――は 同じですが むろん こちらは
《接地》のことです。ゴミ浄化再生工場のことです。

お礼日時:2017/11/19 10:01

ーーーー


★ ダンテとミルトン
☆ 読んだような(つまり 完読したか あやふやな)感じですが
特に一席ぶつといった知識はありません。(残っていません)。





煉獄とか どうなんでしょうね。

エデンの園を追われたことに そんなにこだわることもないのでは?
ーーーー
ーー>
あらま・・・
???

兄貴の場合、こんな本が愛読書であると思いましたが・・・
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この回答へのお礼

★ ~~~~~
あらま・・・
???

兄貴の場合、こんな本が愛読書であると思いましたが・・・
~~~~~~
☆ だから 趣味は違うんだから。

というよりも 理論とそこからの派生議論とそして もろもろの
道草や脱線などなどをしっかりと 互いに捉え合いましょう。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/19 09:54

おっと、


記録はサムのこの返信でやぶられたぜっぜっぜーー
おめでとう!
兄貴
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この回答へのお礼

おめでとう。えむぴーしーえすぴー079ぐーさん。

ひとまづの おつかれさん。




パテティックもアッパッショナータも 聞いたような。

お礼日時:2017/11/19 09:52

大集経(大方等大集経)において、「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」と釈迦が明言している。

つまり最後の500年では仏教徒の間で論争が闘わされ、正しい教えが隠没してしまうとあり、末法思想はこの大集経を典拠としている。つまり、末法思想は特定仏教のお題目ではなく、現実に白法隠没し、国土世間は天変地夭に襲われ、悪しき為政者が跳梁跋扈している。乱れた末法を正すには、正法を弘め衆生を救済する以外にないのである。哲学糧だからと逃げ腰になるなら、今後神仏を口にしなさんな。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 大集経(大方等大集経)において、「我が滅後に於て五百年の中は
解脱堅固、次の五百年は・・・
☆ そんなことは 知り切って紙を貼っています。

その仮説が 一般には 何の意味も持たないと言っています。

持つと言いたいのであれば 哲学の理論として提示するようにしてく
ださい。




★ つまり、末法思想は特定仏教のお題目ではなく、現実に白法隠没
し、国土世間は天変地夭に襲われ、悪しき為政者が跳梁跋扈している。
☆ ところが 《義無きを以って義とす》というこの上なきと言いた
いほどの理論的命題を打ち建てた親鸞が出ました。



★ 乱れた末法を正すには、正法を弘め衆生を救済する以外にないの
である。
☆ というのは ゴータマ・ブッダの得た《この上無きとうとき知恵
のさとり》が いったい何であったか? これが一向に明らかになら
ないという状態を引きずっているあなたがたの単なる愚痴です。



★☆ 哲学糧だからと逃げ腰になるなら、今後神仏を口にしなさんな。

お礼日時:2017/11/19 09:49

あなたは彼方此方の文献を継ぎ接ぎしているが、私は此処では伏せるが特定宗教つまり、信仰を根幹に論じている。

信仰は文学でも観念論でもないから、そんな論争を100万年続けても時間の無駄だ。現に山梨県の山猿仏教は宗祖の教えを履き違え、800年も迷走している。宗教を玩具にしなさんな。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


わたしは 中身で勝負といつも言って来ていますが  カンキヂさん
に向けては 伝わるかどうかが問題という命題でお応えしたいと思
いました。


世間に受け容れられていると言えばそうですし 一部においてだけ
みとめられていると言われても仕方のない伝わり方。これは 悲劇
でしょうね。

ただし けっきょくここは 哲学カテですから――宗教なる主題も
最近つけ加わりましたが―― 思想の核心について互いに問い求め
る。・・・この姿勢が イのいちばんに来るのだと思っています。




つまり 一例を申せば 《末法》というのは ただそれを奉じる人
たちの主観的なことがらであるに過ぎない・・・ということです。

哲学としてものを申すという姿勢では とうていありません。

そういったふうに思います。



あらためて ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/19 07:43

ボッカチオも読んだことあります。


これ面白いです。

ダンテ、ペトラルカ、そしてボッカチオ
http://1000ya.isis.ne.jp/1189.html
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像235
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この回答へのお礼

もう覚えていないなぁ。しっかりと読んでいなかった証拠なのかなぁ。



松岡正剛は 敬意を表しますが 好きではありません。本の内容の後
付け〔だけ〕が多いと思います。




ペトラルカは 例の『ヴァントゥ山登攀』でしたかが 何となくよさ
そうな香りを漂わせていたことを おぼえています。


ボッカチオでも 何かしゃれたことが言えるといいのですが。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2017/11/19 07:11

ダンテとミルトンを読んだことありますが、さっぱりでした。


叙事詩ですね
講談社世界文学全集

これってなんですかね?
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像234
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この回答へのお礼

食べることは好きですが 通ではないですし ウンチクもありません。

ご回答をありがとうございます。


★ ダンテとミルトン
☆ 読んだような(つまり 完読したか あやふやな)感じですが
特に一席ぶつといった知識はありません。(残っていません)。





煉獄とか どうなんでしょうね。

エデンの園を追われたことに そんなにこだわることもないのでは?

お礼日時:2017/11/19 07:06

宇宙を運行する法則を究極的実在と定義し、その法則を覚知した者を仏陀つまり覚者とよぶ。

神とは仏陀と仏陀に法を付託され末法の地上で法を弘める菩薩群を守護する諸天善神を指すのである。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ぶっきらぼうに成りますが:

★ 仏陀つまり覚者
☆ なるゴータマさんは ブラフマニズムの説く《アートマン(霊我)》
に異を唱えて 《アン-アートマン(無-我;非-我)》を打ち出しました。

人間たるわれの心の奥なるアートマンは 宇宙の主宰神であるブラフマン
と――その神の霊において―― 一体である(つまり 梵我一如)と説か
れていたわけですから ゴータマ・ブッダは 言わば《無梵無我一如》を
説いた格好になります。



つまり:
★(☆ 編集しました) 法(ダルマ)なる究極的実在
☆ を否定しています。けっきょく早い話が 《無神論》なる信仰です。

つまり ダルマ・カーヤ(法身)のブッダを のちには――後世のブディ
ストらが――立てましたが これを言わば《無い神》として捉えたのだと
思います。




このことで だいたいの神論を含む世界観は 一般的にも出来て行くので
はないでしょうか。





★ 宇宙を運行する法則
☆ これは 超経験の神としての真理ではないですね。経験世界のおける
ものごとの――因果関係などの――規則性といった問題であり 人間がそ
の人知で認識しうるのではないかと見られているものです。つまり学問の
問題ではないかと。




★ 神とは仏陀と仏陀に法を付託され末法の地上で法を弘める菩薩群を守
護する諸天善神を指すのである。
☆ ブッダというだけでは ふつうの人間のことでもあります。

そして ゴータマ氏は いわゆるブッダター(仏性 ないし 如来蔵)を
説かなかったわけです。アミターバ・ブッダなる神は 後世に――けっき
ょくブラフマン神の代わりに―― 説かれた法身仏です。


つまり ブッダターは 何を隠そう アートマン(霊我)の代わりに 人
に生まれつきやどる霊なる仏性として 同じく後世に打ち出されました。

そのつてで ボディサトワ(菩薩)なる境地も出て来ました。



かんたんに言って:
★ 諸天善神
☆ は このけっきょく普遍神〔つまり ブラフマン神=ブッダカーヤ(法
身)=マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)〕のもとにあるその
分身です。




こんなところではないでしょうか。とお応えしたいと思います。

お礼日時:2017/11/19 07:02

>たいへんでしたね。

あと今日を入れて 一週間のようです
ーー>
我ながら、よくやりました。
7日なら何とかなります。
目標は300でっす!

231は後で読ます!

では・・・

座頭市の食事で
「神とは何か?・・・・フルボッコのご批判を」の回答画像232
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この回答へのお礼

★ 我ながら、よくやりました。7日なら何とかなります。
☆ 勝利のほほえみでしょうか。


ご回答をありがとうございます。


★ 目標は300でっす!
☆ ええええええええええっ。たまげた。




おししそうな朝食ですね。
沢庵と昆布に海苔 それに卵があると言うこと無し。

お礼日時:2017/11/19 06:41

この本は《贖罪》によって死刑を説明しています。


が、
間違っていますね。

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%AA%AC-%E6% …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


人びとの罪をあがなうというのは 特殊な絶対性のもんだいです。
それでよければ ひとつの説明をお話します。

例の悪魔を登場させます。

悪魔は すでに死んでいるのですが その死の制作者として 神
に許されてハタラキを持ちます。

つまり 人間の罪をあがなうというのは 悪魔を征服するという
話になります。

なぜなら 悪魔は 人びとに罪がある――罪を犯した経験がある
――そのことを咎めて 最終的に人を死に追いやるというハタラ
キですから すべての罪を引き受けたなら・そして清算できるよ
うに引き受けたなら あがなうことになります。


例によって悪魔は イエスをも死にみちびきます。そのために罪
へと誘います。

けれども ほかの人間はいざ知らずイエスとなると ちょっと趣
きが違っていた。

イエスは 悪魔の気持ちや思い 怒りやその論理をすべて アー
ス役よろしくその心身に受け留めてしまっていた。

では 死 この存在の消滅という死――つまり じつは 悪魔に
とって おのれ自身のことである――をも 引き受けることが出
来るか? と問いかけた。

つまりは 高等法院のお偉方らを促して モーセの戒律にしたが
って イエスを死刑に処することになるようにことを運ばせた。


つまりは イエスとて おのれの現実の死に追いやられたなら
おれ(つまり悪魔)の心をやさしく包むことなど 出来っこある
まい。という魂胆である。


果たして 磔の十字架に上がって イエスは どうしたか?

降りて行かなかった。その死刑をあまんじて受けた。

つまりは 死そのものである存在(?)の悪魔にも 自由に対等
に接していたイエスは その死そのものにも成るというわざに出
てしまった。

へへんと思った悪魔だが そのイエスの心を自分の心に受け留め
た途端 すでに身も心も溶けてしまった。

――というわたしの捏造物語です。

お礼日時:2017/11/18 23:35
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