プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 絶対は有無を超えており 絶対無は 絶対有に同じ。

2. 有無あるいは因果関係は 経験世界における相対的な
ものごと。絶対性は これらを超えている。だから 絶対と
言う。

3. この絶対を 仮りに絶対無と言ってもあるいは絶対有
と言っても 同じ絶対性である。

4. ゆえに 《無い神》は《有る神》とひとつの同じ普遍
神。呼び方が違うだけ。

5. 《有る神》の呼び名も――ブラフマンやヤハヱーやア
ッラーフなどなどと――世界の中で違っているが みな同じ
普遍神のシルシである。



☆ 以上を問います。

A 回答 (6件)

分かりやすく、絶対無(または不可視)と絶対有(または可視)を二枚の白黒の色紙で区別するとしたら、一枚が白(絶対有)で、一枚が黒(絶対無)だとしましょう。



多くの人は、その色紙が二枚重ねに糊付けされた状態の物を、白面を表にして見ているに過ぎません。なので、裏の不可視的部分の黒が視界から消えています。

しかし、よく知られている『霊感』たるものは、その糊付けをされた2枚の紙の境界線を超えた正反対の存在を見るようなものです。二枚の紙は、糊の接着力で互いに密着し合っているものの、溶け込まずに別れている状態ですよね。しかし、私が不可視と呼んでいる形なき存在、いわゆる霊魂や神を見るには、糊の接着面(境界線)を超えなければならない。それが貴方のいう「超経験」または「超自然的現状」に値するでしょう。

『霊感』を持つ人間は、見えても見えなくても、黒の面と白の面を自由に行き来しています。この『霊感』というのが、視覚や聴覚がある五感とはまた別のもの。ところが、生物学的にいうと、これらは全て今でも未知なことが多いと言われている脳で起こるもの。でも、この『霊感』を他の五感を使って感じようとするのは至難の技。しかし、ほとんどは脳で感じるので『霊感』は知覚の一部と言ってよいかと。

出来る人はその霊感を慣れ親しんだ視覚や聴覚に変換させるらしいですが、わたしにはまだできません。ほとんどの人ができないと言って良いでしょう。心の目で見るだけで終わってます。

あるかないかで捉えようとしているのですね。しかし、霊や神が人の創造物かどうかを議論するには、数学や哲学では情報が少なすぎます。こういう類は哲学というより、心霊学や超心理学的な分類なので。

これを話すと貴方の計算が狂うのは想定内ですが、この世界や宇宙にはいくつか次元の狭間があります。ある科学者がその次元の狭間を見つけて収集し、タイムマシンを使った時間戻しや次元移動を実現しようとしています。

過去や神を見ることは絶対にできないわけではなくなるかもしれません。

神や霊がいる場所は、私たちがいる三次元とは全く比べ物にならない高次元のものです。しかし、その複数の次元が、この世の中と混ざり合ってると言ったら、驚かないわけないですよね。

タイムマシンについては以下参照

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82% …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 絶対無(または不可視)と絶対有(または可視)
☆ ですから 《絶対》なるものは 見えません。《有》でも《無》
でもです。

ただし――すでにチラッと書きましたが―― 主観の内では おれ
は神を見たぞということが 否定されずに留保され得ます。そして
主観内のみでです。


★ 分かりやすく、絶対無(または不可視)と絶対有(または可視)
を二枚の白黒の色紙で区別するとしたら、・・・
☆ これは 微妙に違うと思います。《絶対》をもし経験事物――
いまは色紙――で仮りに表わそうとしたら 絶対無も絶対有もどち
らも どんな色によってもその仮りのシルシとすることが出来ます。

そして 同じ色の一枚の色紙を 絶対無だと言っても いやいや絶
対有であると呼んでも それ(仮りのたとへ)として通ります。そ
れが 《絶対》ということだと考えます。



★ 『霊感』たるものは、
☆ 神を見たぞと言うその主観に属していると言ってしまえば・そ
して そうではなくわが主観には霊感などは要らないと言ってしま
っても どちらも 絶対の仮象として通ります。それが 絶対です。


★ 霊や神が人の創造物かどうかを議論するには、・・・哲学とい
うより、・・・
☆ いいえ。《超経験》を 絶対の説明として掲げれば済むことで
す。そして 人知を超えているとするからには 超経験は 想定だ
となります。仮説法(アブダクション)によって 哲学は扱うわけ
です。

★ この世界や宇宙にはいくつか次元の狭間があります。
☆ 次元がいくつあろうと あくまで《経験世界か それとも超経
験なる場か》の問題です。


★ ある科学者が・・・タイムマシンを使った時間戻し・・・を実
現しようとしています。
☆ 有る無しあるいは因果関係を超えた世界を扱うとするのなら
いまの問題そのものです。ですが そのように焦点を合わせて議論
をすすめる必要があります。

★ 過去や神を見ることは絶対にできないわけではなくなるかもし
れません。
☆ 《過去》と《神》とを――相対と絶対との違いがあるからには
―― 区別したいところです。

★ 神や霊がいる場所は、私たちがいる三次元とは全く比べ物にな
らない高次元のものです。
☆ 次元は 経験世界におけるそれなら いくら高次元でも ただ
の相対です。

お礼日時:2018/02/13 21:34

この世は物質と精神で構成されています。

もし、この世は物質のみで構成されているとしたら、私は何も感じないでしょう。

熱いとか赤いと感じている主体が私です。熱いとか赤いと言う感じは、幾ら高性能な顕微鏡で脳の中を覗いても見えません。物質が、熱いや赤いに対応する動きをしているのが見えるだけです。
その動きの刺激を受けて、精神である私が熱いとか赤いと感じているのです。
熱いや赤いは物質ではないので、それを感じている私も物質ではありません。私は、無限の感受性である精神です。

物質の全体を宇宙と言います。質問者さん、それでは「精神の全体」を何と呼んだら良いでしょうか。

そして、この世の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果が原因となり更に結果を生じると言う形になります。
従って、宇宙の始まりは原因なくして結果を生じなければなりません。つまり、無から有を生じなければなりません。しかし、それは不可能です。

一方、精神は物質を動かすことが出来ます。精神である私は物質である手を動かすことが出来ます。ですから、宇宙の始まりにおいて最初に動いたものは、「原因から自由な精神」以外にはありません。

質問者さん、この「宇宙を創造した精神」を何と呼んだら良いでしょうか?

 ユダヤ教・キリスト教では、外界は神が創造したと信じます。
 ここに物が落ちたのは、ここに落ちるように、宇宙が作られているからであると考えます。そして、どうしてここに落ちたのかを追求し、 物体は外から力が加わらなければ、そのまま飛び出した方向へ等速運動を続けるが、落下距離は時間の2乗に比例する為、 放物線を描いて地上に落下し、ここに落ちたことを発見します。
 宇宙で起る全てのことは、必然であり意図されたものであると考えます。ですから、一見偶然に思える事柄に対しても、 必然であると確信し、その仕組みを解明しようとします。
 ある天才は、「神はサイコロを振らない。」と言いました。 これは、現象を確率で説明しようとする態度に対して、必然な説明をしなければならないと批判したものです。
 この様に、西洋では神が宇宙を創造したと言う確信により、自然科学は発達して来ました。

 それに比べて、東洋では仏が宇宙を作ったとは考えません。精神の中に仏が存在していると考え、内心の仏を追求します。
 宇宙は偶然出来たと考えます。物は色んな所に落ちます。物がここに落ちたのは偶然だと考えては、 落下の法則や万有引力の法則は思いつかないでしょう。
 無神論も同様です。ハッキリと必然と分ること意外は偶然であると考えたのでは、人に先駆けて新しいものを発見することは出来ません。


 神を持ち出すと、単純に非科学的であると非難する方が居られます。しかし、科学で全ての現象を説明出来るでしょうか。
 第一、物質の因果関係のみでは、宇宙の始まりを説明することは出来ません。 物質の因果関係は、原因→結果=原因→結果=原因→結果・・・と続きます。原因があり、その為に結果が生じ、 その結果が原因となり次の結果が生じると言う順番となります。
 しかし、これでは最初の原因が存在出来ません。その最初の原因は、何らかの原因により生じなければなりませんが、それがありません。 物質のみでは、宇宙の始まりを説明できないのは自明のことです。

 また、コインのゲームを考えて見ます。コインを縦に立て、倒れて表が出れば私が勝ち、裏が出れば貴方が勝ちます。 科学では、このゲームで私が勝つ確率は50%、負ける確率も50%としか言えません。 しかし、現実にはどちらかが勝ち、掛け金を全て手に入れます。それを決めるのは何でしょうか。
 これと同じことは、素粒子レベルでは無数に起っています。完全に均衡している状態で、僅かな力が加わり少しの不均衡が生じると、 不均衡が不均衡を呼び次第に大きくなり、終にはコインは倒れます。

 確率は50%ですが、ほんの僅かな力が加わることで、表が出たり裏が出たりする。その為に、ある者は人生で成功し、ある者は失敗する。 その僅かな力が精神である可能性はあります。

 精神である私は、物質である手を動かすことが出来ます。肉体は動かすか動かさないかで物的に均衡した状態にあります。 ほんの僅かな精神の力を、物的に均衡した物質(脳)に加えることにより、手は動いたり動かなかったりします。 この様に、精神は物質を動かすことが出来ます。

 単なる偶然の連続で、この宇宙は進行しているのでしょうか。それとも、何らかの意図があり、僅かな精神の力が加えられているのでしょうか。

正しい知識を得るには、全てのものを疑うことの出来ない自明なものなのか否か問いかけることが必要です。 デカルトは、この方法的懐疑により、全ての知識を自明なものか否か検証して見ました。
 その結果、自明なことは唯一つしかないことが判明しました。それは、全てのものを疑っている自分が存在することだけは 疑うことが出来ないと言うことでした。 「我思う故に我あり。」です。それ以外は、正しいと思ってはいたが、そう思っていただけであることが分りました。 これが「無知の知」です。

 しかし、自明なものしか信じないのであれば、そこまでです。そこから先は、何を信じるかによります。
 心は、その中に宇宙を作り出しています。私たちが感じている宇宙は、心の外の宇宙ではありません。心が作り出した宇宙です。 心の外を覗くことは不可能です。心の外に、宇宙があるのかどうかも分りません。
 しかし、心は外界に似せて、心の中に世界を作り出しているのです。心の中では、1+1=0でも、1でも3でも何でも構いません。 心の中に在るものは、消えたり生じたりします。従って1つと1つ在ったものが消え去り0となっても良いし、 新しく生じて3になっても良いのです。決して増えもせず減りもしないと前提して、1+1=2としなければならない必要はありません。

 しかし、外界では、無から有は生じませんし、有が消滅して無となることもありません。エネルギー保存の法則が成立します。 従って、1+1=2でなくてはなりません。
 心が1+1=2に制約されている事実は、心の中の世界は、外界に出来る限り似せて作られていることを証明しています。 外界に1+1=3を適用すると、その行動は誤りであり、失敗するからです。
 従って、外界には、心で感じている様な世界が存在することを前提とせざるを得ません。

 宇宙の仕組みを完全に解明した時、物質だけでは説明出来ないことが残されたら、神の存在を証明したことになります。  この様に、宗教は全く科学的な態度であると言えます。

「神の存在」について、私のホームページに纏めました。是非ご参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/syuukyouhahikagakut …
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この回答へのお礼

このコピペの投稿は 三回目ですよね。

すでにお応えはしております。それについての再回答はいっさい
ありませんでした。

ですから このご投稿については 放っておきます。

お礼日時:2018/02/13 19:42

宇宙の生死について誤解がありそうなので追記します。



現世による神の存在は『有限』ですが、神の御魂は『無限』です。しかし、人が目に見える文字や神話によって存在しなければ、御魂は『無限』であるとしても、力を失い、事実上現世からは抹消されます。しかし、だれかが名前や神話を再び語り継いで行けば、また神は再生します。

宇宙は、限りなく縮小された時、私たちの星や生命体は滅びるので、私たち生命体の滅びと共に宇宙も死を迎えるということです。しかし、宇宙そのものが消え失せるわけではないです。神と同様、力を失っただけでまた再生します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 宇宙の生死について誤解がありそうなので追記します。
☆ 前回(№3)のお礼欄における第一段落についてのわた
しのコメントが 有効だと思っています。

経験事象と超経験とを峻別して 神についての議論をおこな
うこと。これを重ねて お伝えしたいと思います。




★ 宇宙は、限りなく縮小された時、私たちの星や生命体は
滅びるので、私たち生命体の滅びと共に宇宙も死を迎えると
いうことです。しかし、宇宙そのものが消え失せるわけでは
ないです。神と同様、力を失っただけでまた再生します。
☆ この《再生》のお話は 保留します。分かりません。

お礼日時:2018/02/13 19:20

貴方が思っているより、目に見えない存在はそんなご立派なものではございません。

人の心は御魂とも呼ばれ、この世で重ねた業によって階級と来世が決まります。その中でも一番頂点にいるのが神の御魂です。ところが、日本の神々は人格神のため、恨んだり、怒ったり、愛したりする人間のような心がございます。しかし、頂点にいる神は、人間として生まれたことは一度もない神もいるし、現世で人間して生まれ洗練されて神として崇められた神もいます。

あるいは誰も手入れをしなくなった荒れ果てた神社と、しっかりと掃除されている神社に行って比べてみてください。目を瞑り、五感ないし六感を研ぎ澄ませて感じてみてください。(六感を開くには日々五感を意識したり、静かな場所で10分間くらい瞑想を数ヶ月続けます。)心に感じた変化、温もりがなければそこに神はいません。場所により体調を崩すこともあります。

私は見えるわけじゃないですが、いる場所には必ず気配を感じ、心がモヤモヤしてるときにいる神社に行くとさっぱりします。最低でも初詣には必ず行って、穢れを祓い、誓いと感謝を祀られている神様に告げて、新しい一年を迎えます。

ビックバンは一回起きたきりではありません。何回かで終われば確かに『有限』ですが、実際のところ、宇宙は何回生まれているか分かりません。しかし、宇宙の縮小拡大は定期的に行われているとは言われていますが。ビックバンは消滅を指しているのではなく、縮小と仮定すれば、拡大縮小が永遠とウロボロスのごとく続くので、宇宙の存在自体は『無限』になります。

そう断定できる断固たる証拠が無いのです。貴方が有している知識では到底理解できないことが闇の向こう側で起きています。この世では作り得ない未知の物質や、地球に似た星が複数あり、そこに未知の知的生命体や新しい文明があるのだとしたら、それらにとっては貴方が知っている知識はほんの一部にしか過ぎないということになります。今の宇宙があと何億年後に死に、何億年後に新しい宇宙が生まれるか、貴方にその確率が計算できるのなら、貴方の理論は正しいものだと認めましょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 貴方が思っているより、目に見えない存在はそんなご立派な
ものではございません。(以下省略の第一段落)
☆ 《〔心の〕目に見える・見えない 》といった規定は 必ずし
も適切ではなかったように思います。

問題は 人間がその能力で認識しうる経験事象であるか。それと
も これを超えた超経験の場のことであるかでしょう。

超経験つまり絶対が ここで言う(一般に哲学で言う)神です。

ほかの神や霊体(?)は みな 人間の想像物か或る程度経験的
な現象と対応しているものごとであって これは 絶対なる神で
はありません。
――と区分するとよいと考えます。

現世のほかの前世や来世は 哲学として扱うには無理です。想像
を広げるだけに過ぎないと考えられます。

そして 過去に同じDNAを持った人間がいないので 輪廻の生ま
れ変わりは あり得ません。


★ あるいは誰も手入れをしなくなった荒れ果てた神社と、(以
下省略の第二段落)
☆ 個人の主観として そのような場所で神を感じるということ
は 頭から否定することは出来ないとは考えています。ただしそ
の神体験はすべて おのれの主観の内部にとどまるものです。

主観の外に出たとしたら それは 《絶対なる神〔とわれとの関
係〕》ではなくなり ただその表現したものとしての観念でしか
ないとなります。外に出ても神であり続けると もし言うとすれ
ば それは 経験事象に成り下がってしまっています。観念ゆえ。


第三段落も同じコメントです。


★ ビックバンは一回起きたきりではありません。(第四段落)
☆ 《起きる》のは 経験事象です。しかるに 神は絶対ゆえ経
験を超えています。

経験事象が《限りなく(可能無限として)》つづくことはあり得
ます。

神の《無限》は 真無限であり 可能無限とは別です。


★ そう断定できる断固たる証拠が無いのです。貴方が有してい
る知識では到底理解できない(最後の段落)
☆ 認識の扱う対象には 《可知(既知か未知)と 不可知(知
り得ないと証明し得た)》とがあります。

そして 絶対なる神は 《非知(知り得るか知り得ないかが知り
得ないナゾ)》です。

《宇宙がどうのこうの》の話は 《可知》の問題です。つまり経
験事象のことです。

いまは 絶対無=絶対有 の話ですよ。

お礼日時:2018/02/13 19:15

あらゆる霊体は絶対ではありません。

生者も霊体よりも勝るからと言って、生者が『絶対』なのではありません。両者とも〈感情〉というものを持ち合わせている限り、それは『絶対』ではありません。

天文学的に言うと、この宇宙の生死を決める『絶対』的な存在といえば、間違いなく「ビックバン」と答えるでしょう。それは無限にあり続け、宇宙をウロボロスの輪を作るように回っていくもの。その存在がなければいくら私たちが絶対とは相反する有限で相対的な存在であっても、あらゆる物質や生命体は存在しません。宇宙を生むビックバンこそが『神』だ思うのなら、そう思えばよいのです。

守護神は、目の前に現れて守ることがお役目ではありません。論理的思考の方が勝るあなたには、説明が少々難しいですが、スピリチュアル的に言わせてもらうと、守護神は貴方自身が抱える問題を物質を通して伝える役目を果たします。もし、貴方が今の仕事で疲れていたり、トラブルで困っていることがあるのなら、人生の転換期です。貴方は今の現状を良くするために、自身の人格や言動を見つめ戒めなくてはいけません。人間関係でつまづくならば、人を知らなければなりません。

私たちのようなあちら側の類の人間にとって、守護神は、いちいち私たちの前に現れて災いを遠ざけたり、幸せにしてくれる存在ではありません。ただ、危機に陥ることを人の口や物を依り代として知らせてくれるだけです。

神は、守り崇める人間がいなくなれば、物質的なものでなくても死にます。神の死というものは、御神体や信仰そのものが消え失せるということです。まあ、貴方には神がいなくなった時の心痛みや虚無感は分からないと思いますがね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あらゆる霊体は絶対ではありません。
☆ 一般に《霊》は 人の身と心あるいは世界の経験的なモノゴト
を超えています。(そう想定するものです)。つまり 超経験とし
て霊は 《絶対》です。

ただし:
★ 霊体
☆ というのは わたしはまづ使ったことがなく はっきりしませ
ん。

《体 あるいは すがたかたち》があるとすればそれは 目に見え
る(心の目に見える)経験的な事物です。すなわち 絶対ではあり
ません。


★ 生者も霊体よりも勝るからと言って、生者が『絶対』なのでは
ありません。
☆ 《生者》は 経験存在であり相対性の世界にあります。

★ 両者とも〈感情〉というものを持ち合わせている限り、それは
『絶対』ではありません。
☆ 感情は 経験事象でありますから そのとおりです。

★ 天文学的に言うと、この宇宙の生死を決める『絶対』的な存在
といえば、間違いなく「ビックバン」と答えるでしょう。
☆ ビッグバンも 経験事象であり 相対・有限の世界のものです。
絶対ではありません。次の命題は いただけません。:
★ 宇宙を生むビックバンこそが『神』だ思うのなら、そう思えば
よいのです。


★ それは無限にあり続け、宇宙をウロボロスの輪を作るように回
っていくもの。
☆ その場合の《無限》は 経験世界の中で 円周率 π が限りなく
あたいが続くといったような《限りなさ》(または 可能無限)の
ことです。π は 3と4の間におさまります。有限です。


★ その存在がなければいくら私たちが絶対とは相反する有限で相
対的な存在であっても、あらゆる物質や生命体は存在しません。
☆ 《絶対》は 相対・有限・経験を《超えている》のです。だか
ら 《相反する》という規定は よくないでしょう。

たとえば 絶対は われわれ相対存在を覆い包むことがあり得ます。
あるいは ニュートリノのごとく つらぬき通って行くことがあり
得ます。・・・。



★ 守護神は、目の前に現れて守ることがお役目ではありません。
☆ ご議論を端折りますが この守護霊とも言う守護神は 絶対な
る神ではありません。そのことだけで済むことです。




★ 神は、守り崇める人間がいなくなれば、物質的なものでなくて
も死にます。
☆ あなた 神の死を見たんかいな?

お礼日時:2018/02/13 16:06

神や守護神は信じる人間を失うとその存在は崩壊する。

これは絶対。神は神としての名前と神話で人間により語られているだけにすぎない。だから、神はそれほど完璧ではないし、人に頼らなければ存在することさえ許されない。イエス・キリストもそうである。その意味で、人間は神にとって必要な存在であり、生者は死霊や神よりも強い。しかし、肉体がなくなれば、再び神や霊と同じ不完全な霊体(精神だけの不可視的存在)に戻るため、出来ることが限られる。

人間だって、同じ。人と関わりを持たなければ生きていけないのは絶対的なこと。でも、生者である人間は、神や霊にはできない物質的な変化や、行動ができるため、霊体よりかは自由が利く。ただし、物質的な不便は被る。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神や守護神は信じる人間を失うとその存在は崩壊する。これは絶対。
☆ 《守護神》は 人間がただ神に似せて想像しつくった偶像です。
《絶対》ではありません。

つまり 守護神がつねに100%その人を守ったという話は 聞いたこ
とがありません。

《神》は どうでしょう。《絶対》なら 相対的な存在であるわれわれ
人間に対して この人間がいかに神をののしろうと褒めようと あるい
は人間がどういう状態になろうと 知ったことではありません。

(知っているでしょうが だから どうだということはないでしょう。
神は それでも恩恵として 人間をたすけ救うことはありますが それ
も だからどうだっていうことはないはずです)。


★ 神は神としての名前と神話で人間により語られているだけにすぎな
い。
☆ そういう場合も――先ほどの守護神の例のように――あります。

★ だから、神はそれほど完璧ではないし、人に頼らなければ存在する
ことさえ許されない。
☆ 《絶対》ということは 《ひとり満ち足りている》ということです。
人間が そのように言おうとどう言おうと 神は痛くも痒くもありませ
ん。


★ イエス・キリストもそうである。その意味で、人間は神にとって必
要な存在であり、生者は死霊や神よりも強い。しかし、肉体がなくなれ
ば、再び神や霊と同じ不完全な霊体(精神だけの不可視的存在)に戻る
ため、出来ることが限られる。
☆ 《不完全》と《絶対》とは 相い容れません。



★ 人間だって、同じ。人と関わりを持たなければ生きていけないのは
絶対的なこと。でも、生者である人間は、神や霊にはできない物質的な
変化や、行動ができるため、霊体よりかは自由が利く。ただし、物質的
な不便は被る。
☆ 生と死(つまり 有と無)を超えているのが 絶対なる神です。そ
このところを お考えになってください。

お礼日時:2018/02/13 13:02

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