プロが教えるわが家の防犯対策術!

「色即是空、空即是色。
この世の全ては無であり空である。」
坊主は壇家のじいさんばあさん達の前でこんなことを言いつつ更に続けました。

「この世の全ては無であり空なのだから、お金なんか貯め込んでも無駄ですよ。
わしの寺に捧げなさい。」

こー言って坊主は壇家からお金を吸い上げました。
これで壇家のじいさんばあさん達は確かに無に近づきましたが、坊主の言うよーに幸せになれるのでしょーか?

A 回答 (12件中1~10件)

キリスト教では、富者が天国に行くのは


ラクダが針の穴を通るよりも難しい。

だから教会に寄附しなさい。

こう教え諭しています。

宗教などどこも同じで、結局は金儲けなんですよ。




これで壇家のじいさんばあさん達は確かに無に近づきましたが、
坊主の言うよーに幸せになれるのでしょーか?
  ↑
ワタシの知人は、そうやって貯金がほとんど
ゼロになり、不幸になりました。



○こんな、ありがたいお話があります。

昔々、あるところにお寺がありました。
お寺には、偉い坊さんと若い坊さんがおりました

若い坊さんは、人の道さんのように悩んでいました。
真理とは、人生とは、人間とは・・。
あまりに真剣に悩んでいたので、偉い坊さんが
旅に出て修行をすることを勧めます。

それで若い坊さんは旅に出ました。
雨の日も風の日も雪の日もあり、苦節10年、
若い坊さんはボロボロになって、お寺に帰って
きました。

「おお、帰ったか」
「師匠、遂に悟りを得ました」
「それは立派だ。で、悟りとは?」
「金が総てです」
「偉い!! よくそ悟った」
「師匠! (涙」
「泣くな。これからは二人して、金儲けに励もうでは
 ないか」

言葉通り、その後、二人はあくどい金儲けに励み、大金持ちに
なって、一生幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。
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この回答へのお礼

あ~面白かった。

お礼日時:2018/03/13 21:49

瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。

また、瞑想をすると、悟りが開けるとはどう言うことなのでしょうか。

 目覚めている時、自由自在にはこの宇宙を体験することは出来ません。五感から入ってきた刺激に基づいて、外界を心の中に再現するからです。しかし、眠っている時、貴方は五感から解放され、自分の欲求・悩み・記憶等に導かれ内界を作り出します。これが夢です。

 夢であっても、花びらの鮮明な色や、その1枚1枚の形を克明に見ることが出来ます。木々の葉っぱの1枚1枚が風に揺れている様を見ることが出来、その葉っぱの擦れ合う音を聴けます。風や太陽の光を感じます。夢の中に出て来た人の声を、はっきりと聴けます。起きている時と全く同じなので、起きているのかこれは夢なのか判断が付きません。

 しかし、眠っている間は、記憶する機能も眠っているので、それだけ鮮明な夢であっても、憶えておくことは出来ません。漠然とした断片的な印象が残っているだけです。

 瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。

 瞑想により、貴方は本当はこの宇宙そのものであったことを悟ります。貴方の心がこの宇宙を作り出していることを理解します。海の彼方を探さなくても、輝くものは私の中にあったのです。 今まで私だと思っていた存在は、私の中の小さな一人に過ぎなかったのです。

 ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。
 それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。

 そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。

 悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。

 そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。

 すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。

 その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。

 その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。

 すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。 そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。 私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。

 この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。  会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。

 瞑想状態に入ってしまうと、もう思考しても大丈夫です。瞑想から醒めることはありません。私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。これが本当の「あの世」です。

 瞑想から醒めるには、その世界で大きく息をし伸びをして、頭を振って眼を覚まそうとします。 そうすると、現実の世界に戻ることが出来ます。
 しかし、目の覚めたこの世界も、私の心が作り出しているのです。 実は、瞑想状態の世界と同じものです。一度、瞑想の世界を経験すると、現実の世界全体も、私の心が作り出したのであり、私自身であることを理解します。

 今まで私だと思っていた一人は、「小さな私」であったことが分かります。感じている世界全体が、大きな私です。
 生きとし生けるものは貴方自身です。ですから、それらに博愛を注ぐことが出来るのです。 他人も貴方自身です。ですから、汝の隣人を愛することが出来るのです。 敵も貴方の一部です。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
 これが、悟りの内容です。 この世の全ては貴方の物です。ですから、幸福なのです。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/meisoutohananika.html
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★ 仏教の本質は無になることである


☆ と思わしめるオシヘが ないわけではありません。

その点で №8で《空観》について触れた回答をおぎないます。

むろん言わずと知れた《ニルワーナ》です。


涅槃というのは 音を模写したもので 元の意味は ロウソクの
火が消えるかの状態または吹き消された状態にちなんで 《煩悩
の火が消えた境地 つまり ブッダとしてのさとり》のことを言
うのでしょう。

煩悩とは 無明のことでもあり 一般に(基本的な認識として)
《思うようにならないという苦(ドゥッカ)》を言うと思います。

つまり 苦と言えば 生老病死の四苦なわけですが 問題は《生》
も苦だという捉え方にあるのではないか?




実際に 身体の問題としてニルワーナを捉えた場合には ヨーガ
などの修行で 呼吸を停止するという荒業もおこなわれていたよ
うです。つまり 生苦からの解放というわけです。

つまり 《無になること》へとつながります。



からだの消滅は別としても やはり煩悩の消滅としての 生苦か
らの解脱 これが さとりとして掲げられます。


要するに 生が苦だという初めの認識――これを 《根本的な生
存欲》として解釈する向きもありますが―― これが わざわい
しているのではないでしょうか。

生が苦であるというなら この生も無くすのだとなりかねません。

成仏とは 二度と人間には生まれて来ない生命体のことを言うの
でしょうから。




要するにひと言で言って まったくのアホウな考え方です。と切
っておけば足りるのではないですか。

アホウなペテン師の勢いのようなものに押されて 二千年。中身
はないと気づけず なおまだあたまがヤラレテいる向きも 見受
けられるようです。
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宗教者が、人をだます。


というよりも、宗教者だけではないが。

『無』になるのであれば、すべての感情は無駄で必要でない余計なもの、つまり、感情がない状態で、また感覚もなく、考えることもせず、人として生まれる前のようであり、自分が今何を何のためにやっているかもわからず、坊さんのいうようにやっていればよいから、やっぱり無になっておれば、生きておるうちから死ぬことができるであろう。
つまり、わざわざい、生まれてくる必要がなかったので、しかし生まれてきたのなら、早く死になさい。
そういうことを言った坊主は、無が分かっておらんやつだな。嘘つき坊主です。こういうのを無明という。

心を無にする、身体を無にするとは、心のつらさ身体のつらさから、心を無にすることで安定を得ることです。
しかし、傷が痛い時は、そうそう簡単ではない。
お金とは関係ありませんが、お金が余っていたのなら、その坊さんに、みすみすやるよりも私にくれれば有意義でした。少なくとも私は嘘をついてお金は取らない。
それは、せっきょうをしたのではなく、詐話でたぶらかされたのじゃな。
たぶらかされたのは、自分の利己心の故じゃ。いちばん簡単に引っかかる。
-------------------------
もったいないが、それなら、私の恐ろしい呪文を唱えてあげよう。
本来、お布施をもらうのが正しいことだが、まあ仕方ない。
さーびすじゃ。
この呪文は、心あしきものがきくともだえ苦しみ、
七転八倒しついには狂い死ぬというものじゃ。
心美しきものがきくと喜びころこんで跳ねまわるというものじゃ。
---------------------
これでお前の正体が見える。
-------------------
もったいない、モッタイナイ。
(Wiki.ワンガリ・マータイさんの言葉からいただいたが、
モッタイナイとは、本来者や物が生かし切れないことを言う)
---
人のお金も自分のお金も、大事にせなあかん。
人のものも自分のものも、大事にせなあかん。
人のことも自分のことも、大事にせなあかん。
人の身体も自分の身体も、大事にせなあかん。
人のこころも自分のこころも、大事にせなあかん。
食べ物は、大事に大事に、せなあかん。

食べ物ありがたい、食べ物ありがたい。
こぼしたものも拾って食べよう。
バナナもスイカも、皮も裏を削って食べろ。
キウイは皮ごと、柿も桃もなしも。
肉を食べるときは、モ~ 牛 の顔を思い出せ、鳴き声を思い出せ。

もったいない、もったいない、もったいない、
ぱんにゃーぱらみいたーしんぎょおおおおお
リンピョウトウシャカイチンレツザイゼン
【安全衛生第一、安全衛生第一】
KY/KY/KY/KY/KY/KY/KY/KY/KY/KY
自分が一番危ない、ご安全に。
心して、朝晩、寝る前、唱えられよ。
☆☆☆☆☆☆☆
・もったいない、もったいない、もったいないもったいないもったいない
(70歳男・、オトゲンバカントク/モトロウドウクミアイショキチョウ/、オトバブルノヨルノバスエノテイオウラノウイノイチ・ムカシフシギナショウネン/セケンデイウトコロノホンモノノチョウノウリョクシャ/ソノタモロモロタシュタヨウ)
猫に小判、馬の耳に念仏であろうよ。
その坊主にも、お前にも難しすぎようが。
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空と無を知ることから始めなされよ。

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この回答へのお礼

空=無=光

光には質量はない。
すなわち物質ではない。
物質ではないが現象としては現れる。
これを空とみなせばよい。
同様に無は光である。
どーじゃ完璧じゃろー、まいったか。

お礼日時:2018/03/07 17:49

▲★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


▲ 色即是空、空即是色。

★ 色即是空:この世の全ては無であり空である。

☆ 空即是色:ただし 空なるものも 世の中の現象としては 
    現実に起きている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 身(色)も心(受想行識)も 空っぽなるもの(シューニ
ャター)であるが 空っぽなるものとして 身は身であり 心
は心である。いづれも 現象している。

この全体が 空観である。
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そう!


意外と普通の仏教もお金かかるんですよね
カトリックとかのほうが、全然かからないですよ

ただお金を無くしても
解脱するわけじゃないですからね
そこまで言うなら
それなりに修行などの面倒みてほしいですよね

言うまでもないことですが
物欲とか財産に対する執着なんて
人間の煩悩のごく一部でしょ
もっと本質的な学びと修行が必要なんじゃないですか
そのためにはお金もいるかも(笑)
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カーテンの布を通す横棒と陰影で、


交尾に見えたので、もう結構、私危ないような気がするのですけど、
大丈夫なのでしょうか。
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無、無、無!

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無理だな

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