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まったくの空想ですとおことわりした上での問いです。
 
空想でも何がしかの哲学的意義があると判断されたなら ご見解をお聞かせ
下さい。

 

たとえば 自由から逃避するホモ・サピエンスから 自由を享受するホモ・
何と言えばよいでしょうか あたらしいヒト・ヒトになるという見通しです。
 
現代においてヒトビトは すでに自由を社会生活上かなりの度合いにおいて
勝ち得ていると思われるのにこの自由を持て余し これをむしろ嫌い 要ら
ないと言い出し この自由から逃避する。
 
責任を取るのを嫌い わるいのは我れに非ずと 相手やほかの者に責任を負
わせようとする。

 

ところが あたらしい人間は それはわたしが間違えました わたしに責任
がありますと言う。

そうするとほかの者たちが いえ わたくしにも責任の一端がありますとか 
これこれの点ではわたしにも落ち度がありました 責任の一端を負いますと
か 言い出す。

――自由を享受しているからである。

 

突然変異によってかどのようにしてか分かりませんが 人間(現実)が――
前史から後史へ――変わる のではないか?
 
どうでしょう?

A 回答 (11件中1~10件)

色んな意味で平和の行き詰まり

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この回答へのお礼

行き詰まりですか。

草莽の志士は 出て来ませんか?


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2018/08/07 23:35

逐一引用して、自説で反論、完全に相手をつぶした、と感じているのかな。


私には、昔のテレビドラマ、刑事コロンボを思い出します、無関係なら知らない・・でよいのに刑事を攪乱しようとして、都合の良い可能性を想定して披露しているうちに語るに落ちる・・・ストーリーです。
個人的にはしょせん後出しじゃんけんにしか映りません。
例 善と悪→悪貨と良貨にすり替えての反論、善悪は物質に関する内容ではないはずだが、良悪(貨幣に関しては)物質(材料)に関しての良い(良質)、悪い(悪質)。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 逐一引用して、自説で反論、完全に相手をつぶした、と感じているの
かな。
☆ 批判する投稿が 大歓迎です。

いやしくも哲学の門をくぐっている者なら 互いに問い求めるという姿勢
が 基本です。

わたしの問い求めのほうが 先を行っているというだけのことです。やが
て 先の者があとになり あとの者が先になります。

★ 私には、昔のテレビドラマ、刑事コロンボを思い出します、無関係な
ら知らない・・でよいのに刑事を攪乱しようとして、都合の良い可能性を
想定して披露しているうちに語るに落ちる・・・ストーリーです。
☆ 具体的な事例(文章)で どうぞ。(次にありました)。


★ 個人的にはしょせん後出しじゃんけんにしか映りません。
例 善と悪→悪貨と良貨にすり替えての反論、善悪は物質に関する内容で
はないはずだが、良悪(貨幣に関しては)物質(材料)に関しての良い
(良質)、悪い(悪質)。
☆ 悪貨・良貨というのは 思想ないしそれを実践するときの考え方のこ
とです。

中の金属をふくむ度合が低くても ふつうの貨幣の体裁を採っているのが 
悪貨であり それを流通させ〔利益をかせごうとす〕る行動つまりそうい
う考え方のことです。


贋金づくりは 北朝鮮あたりでなおやっているかに言われています。
あるいは マネーロンダリングの問題もあります。

が 或る程度は そういう悪貨が良貨を駆逐するといった情況から 一般
には自由になって 卒業しつつあるかとも思われます。

そういった《人間(現実)が変わる》という問題をあつかっています。

お礼日時:2018/08/03 11:28

日蓮大聖人の御書の中に、現実のこの世界はすべて我々の功徳善根である、というような趣旨の言葉があります。



しかし、わたしたちにはこれまでの歴史でさまざまな過ちを冒しているとおもいます。

失敗を失敗として認め、余力があればその失敗のメカニズムを整理追究解明して、できるだけ同じような間違いを冒さないように思い、行いを慎重にするもののように思います。

歴史を残すのも、似たような失敗を繰り返さないために、残すものであると思いますが、場合によっては復讐心のようなものを焚きつけるために利用される場合もあります。

中国や朝鮮や他のアジアの国でも、自らの信念に基づいて、戦争がどのようなものであったかを残す権利も義務もあるような気がします。

わたしたちはそれを読んで、自らの糧にすることが大事で、それは俺たちの爺さんかひい爺さんたちのしたことであって、俺たちの罪ではない、いうことはできるかもしれません。

他の国で書かれている歴史に対して、わたしたちは何の茶々も入れることなく、飲み込むことは可能でしょうか。


失敗を減らしたいために歴史は学ぶのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 日蓮大聖人の御書の中に、現実のこの世界はすべて我々の功徳善根で
ある、というような趣旨の言葉があります。
☆ 《念仏は われにとって非行非善なり》と言う親鸞がいます。修行に
非ず 善行に非ずなのだとか。


★ しかし、わたしたちにはこれまでの歴史でさまざまな過ちを冒してい
るとおもいます。
☆ あやまつは人のつね。

★ 失敗を失敗として認め、余力があればその失敗のメカニズムを整理追
究解明して、できるだけ同じような間違いを冒さないように思い、行いを
慎重にするもののように思います。
☆ ふつうの学習効果ないし学習過程だと思います。(って ことごとく
物言いを返していますが)。

★ 歴史を残すのも、似たような失敗を繰り返さないために、残すもので
あると思いますが、場合によっては復讐心のようなものを焚きつけるため
に利用される場合もあります。
☆ でもですね。《あたらしい人間が それはわたしが間違えました わ
たしに責任がありますと言う》というのは 何も規範にのっとろうとして
そうするわけでもないんです。

その時その場が 《歴史》でもありますから 将来のことを思ってとか
よいおこないをするという目的意識で行動しているとも思えないのです。

たのしいから生きる。間違えたので間違えましたと言う。きわめて能天気
な振る舞いなのだと思います。


★ 中国や朝鮮や他のアジアの国でも、自らの信念に基づいて、戦争がど
のようなものであったかを残す権利も義務もあるような気がします。
☆ それを伝えることは 外交の場で ひととおり必要なことでしょうね。

★ わたしたちはそれを読んで、自らの糧にすることが大事で、それは俺
たちの爺さんかひい爺さんたちのしたことであって、俺たちの罪ではない、
いうことはできるかもしれません。
☆ 過去にこだわっているなら どこまで行ってもブーブー言われ続ける
と思いますよ。

★ 他の国で書かれている歴史に対して、わたしたちは何の茶々も入れる
ことなく、飲み込むことは可能でしょうか。
☆ いや それは 中身によると思います。


★ 失敗を減らしたいために歴史は学ぶのではないでしょうか。
☆ もし赦し合えてつねにゆづり合えているなら 歴史の教訓がどうのこ
うのという説教振りは 卒業していると思います。

お礼日時:2018/08/01 16:51

>個別の各論でものごとを見てゆくことに


なるのではないかと。
木を見て森を見ず、そのままのように感じます。
ま、私には無関係ですが。
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この回答へのお礼

その推論を もう少し具体的に説明してくれますか?


ご回答をありがとうございます。


★ ま、私には無関係
☆ ならば 投稿をご遠慮ねがいます。

お礼日時:2018/08/01 10:42

>悪貨と良貨


について考えてみました、たぶん人間の欲が絡んでいずれかの100%選択が可能だからでは?。
人間の意思で選択を100%左右できない現象?、世に言う自然の法則、宇宙の真理・・・その他?。
例が大数の法則サイコロを百回、千回ではなく数百万回・・さらにそれ以上降れば。
1から6の出目が平均化してくる、極端に偏ることはない・・・とも。
相対的?、作用と反作用、作用がなければ反作用は現れません。
それが人間の恣意的は判断で左右可能なのか、未知のものの法則に従うのかにより異なりますが、全員が責任を感じる、ならば少なくともその件については「責任」の言葉は不要になるのでは?。
結果がすべて、なんの責任追及も不要では?、結果・現実をそのまま受け入れるだけ。ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >悪貨と良貨
★ について考えてみました、たぶん人間の欲が絡んでいずれかの100%
選択が可能だからでは?。
人間の意思で選択を100%左右できない現象?、世に言う自然の法則、宇
宙の真理・・・その他?。
☆ ええっとですね。質問者としては 細かいことを考えています。

個人どうしの二角関係においては 相手が理不尽なことを押し通そうとする
なら しばしば無理が通れば道理が引っ込むと言われるようになります。

その拡大版が 悪貨と良貨の場合だと考えます。

ただ そのように社会の情況一般の問題であっても その被害といったこと
または責任ということ  このことは あくまでもつねに一個人ごとの問題
ではないかと思います。

つまり その一つひとつの事件としては 個人の意志行為を基本として成り
立っている。

そういった感じで全体を捉えてはいます。

したがって:
★ 例が大数の法則サイコロを百回、千回ではなく数百万回・・さらにそれ
以上降れば。1から6の出目が平均化してくる、極端に偏ることはない・・
・とも。
☆ といった全体観ないし俯瞰は 脇へ置いておくことになるかと思います。


同じく次のような場合にも 個人の意志行為とその責任という観点が消える
ことはないのではないか。:
★ 相対的?、作用と反作用、作用がなければ反作用は現れません。
それが人間の恣意的は判断で左右可能なのか、未知のものの法則に従うのか
により異なりますが、全員が責任を感じる、ならば少なくともその件につい
ては「責任」の言葉は不要になるのでは?。
☆ 責任は 個人ごとに――その意志行為ゆえに――かかわっており また
さらに細かいことを言うなら 責任の重さも 事件にかかわった個人差によ
って変わって来ます。


ですから:
★ 結果がすべて、なんの責任追及も不要では?、結果・現実をそのまま受
け入れるだけ。ではないかと思います。
☆ という総論を採るのではなく 個別の各論でものごとを見てゆくことに
なるのではないかと。

お礼日時:2018/07/31 21:26

> 出て来ないとも限りません


完全否定できない・・・あったりまえ。
問題はそれが出現して、いつまでもつか・・・。
善と悪については、そのまま受け取られると、おおせの通りでしょう、悪貨と良貨のことも頭をよぎり、適当ではないとも思いましたが、敢えて使い、理解してもらえるかなと思いましたが、叶わなかったようですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ > 出て来ないとも限りません
★ 完全否定できない・・・あったりまえ。
☆ 《空想》という前提を置いていますから あったり前のことも
しるしておかなくちゃ。



★ 問題はそれが出現して、いつまでもつか・・・。
☆ 現実的ですね。むろん 大歓迎ですが。


★ 善と悪については、そのまま受け取られると、おおせの通りで
しょう、悪貨と良貨のことも頭をよぎり、適当ではないとも思いま
したが、敢えて使い、理解してもらえるかなと思いましたが、叶わ
なかったようですね。
☆ それは 欠礼しました。

この質問は しょうじきに言って 軽く流してもよいかなという気
持ちの部分と そして 善悪観などとなるとやっぱしきちんと扱っ
ておかないとならないかなと思った部分があります。

あしからず。

お礼日時:2018/07/29 20:06

「じゃあ、この責任は俺が持つよ」


「いや、いつもお前だ。今日はオレが」
「いいって、いいって。ここはリーダーの俺が」
「関係ないだろ。オレに持たせろ」
「バカ野郎。俺が持つって言ってるだろ!」
「いいや、オレだ!」
「俺だよ!」
「オレ!」

「な、なら、おれが持つよ・・・」

「どーぞ、どーぞ」



ごめん。遊びに来ただけ・・・。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「じゃあ、この責任は俺が持つよ」
 ・・・
★ 「な、なら、おれが持つよ・・・」
☆ これは 最初のゆづり合っていた二人とは別の第三者ですかね?

ま それもよいのではないでしょうか。

もっとも 《リーダー》がいるのなら 責任の分担といった見方捉え
方が 出来たかも知れないとは思います。



★ ごめん。遊びに来ただけ・・・。
☆ いいえ。どういたしまして。いろんな場合が考えられます。

お礼日時:2018/07/29 13:37

種の進化の話でしょ


未来人は背が高くなり、手足が細くなり、脳が多くなるってね
宇宙人グレイは進化した人のイメージなんでしょう(背は高くありませんが)

文化的特徴として争いをしない種で有るかもしれないってのは、有るかもしれませんね
世界のグローバル化が始まり人種の混血が増えてきました
後千年もしたら白人、日本人といった括りが無くなるかもしれません
その頃には民族紛争「は」無くなってるかもね
争わなくていい環境が出来き、争えなくなる進化を遂げたら、、、

種の進化に思想哲学は(今の所)入っていません
「こう考えるからこの種は○○だ」ではなく
「身体的特徴がこうだからこの種は○○だ」です


最後に、質問を読んだ感想です
「それ、なんて言うディストピア?」
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 種の進化の話でしょ
☆ いえ。確かに――№1の回答氏が 《脳内の変化》と指摘したように
―― 進化の問題をふくむかと思うのですが 大前提は(ヘンな話になり
ますが):
☆☆ まったくの空想ですとおことわりした上での問いです。

☆ したがって たとえば:
★ 最後に、質問を読んだ感想です
「それ、なんて言うディストピア?」
☆ と言われても このご感想に対しては単純に言って ユートピアを描
くような《空想》論は避けたいという小前提をお伝えするだけです。


★ 未来人は背が高くなり、手足が細くなり、脳が多くなるってね
宇宙人グレイは進化した人のイメージなんでしょう(背は高くありません
が)
☆ そういうふうな《進化》の場合もあるかも知れません。そして 主題
としては 《自由と責任》をめぐる現実のニンゲンの問題です。




★ 文化的特徴として争いをしない種で有るかもしれないってのは、有る
かもしれませんね
☆ そうなんですか。《自由と責任》論において わたしのイメージとし
ては 《あらそい》が続くか無くなるかといった切り口とは 微妙に違う
とは思っています。

哲学とは 〔自由なそして相手の意志を互いにとうとび合った上での〕け
んかであると思っているといった意味合いからです。



★ 世界のグローバル化が始まり人種の混血が増えてきました
後千年もしたら白人、日本人といった括りが無くなるかもしれません
その頃には民族紛争「は」無くなってるかもね
争わなくていい環境が出来き、争えなくなる進化を遂げたら、、、
☆ 《いさかい・あらそい》に関しては 問題は その解決の仕方にある。
《自由と責任》のあたらしい世界史的展開があるとすれば 基本としては
《たがいにゆづり合う》 という解決と和解の仕方があらわれるであろう
と《空想》されます。


★ 種の進化に思想哲学は(今の所)入っていません
☆ そうかも知れません。


★ 「こう考えるからこの種は○○だ」ではなく
「身体的特徴がこうだからこの種は○○だ」です
☆ それは どうでしょう? それに たとえばの話として《突然変異》
を その進化ないし変革のあり方に取り上げています。

もっとも・だからと言って 《思想が世界の歴史を変える》という考えを
排除しようとも思いませんが。

お礼日時:2018/07/29 12:20

ホモ・サピエンス(考える人)、かつてはホモ・ハーベル(働く人)、この流れに沿えば将来は、ホモ・ルーベンス(遊ぶ人)。


どこかで見た記憶はあります、本題とはあまり関係がないのでは。
蟻の集団でもミツバチの集団でも、必ずある程度の割合で何もしない(働かない)グループがあるそうです。
でも一旦異変が起こり、働き手が減少すると、勝手に働きだすそうです。
悪と言われるグループ、善と言われるグループは必ず存在します、常に半々ではなくある時期は悪がのさばれば、いずれその反動で善がのさばる、これが繰り返される、のが法則と言ってもよいそうです。
したがって責任の取り方についても、そっくり変わってしまうと言うことはあり得ません。
前述の蟻、ミツバチの集団でも全く何もしないグループの存在も必要不可欠らしいです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ホモ・サピエンス(考える人)、かつてはホモ・ハーベル(働く人)、
この流れに沿えば将来は、ホモ・ルーベンス(遊ぶ人)。
☆ ルーデンスですかね。

▲ 人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した
☆ とか。これが さらにあらたに(本格的に?)展開して行くかも知れ
ない。


★ どこかで見た記憶はあります、本題とはあまり関係がないのでは。
蟻の集団でもミツバチの集団でも、必ずある程度の割合で何もしない(働
かない)グループがあるそうです。
☆ なるほど。必ずしも・直接に はたらく部分と敵対するわけではない
別の部分もいることになるであろうと。

★ でも一旦異変が起こり、働き手が減少すると、勝手に働きだすそうで
す。
☆ これも なるほどですね。長い目で・歴史的に 世界を見なければな
らない。



★ 悪と言われるグループ、善と言われるグループは必ず存在します、常
に半々ではなくある時期は悪がのさばれば、いずれその反動で善がのさば
る、これが繰り返される、のが法則と言ってもよいそうです。
☆ この部分については ちょっと物言いがあります。

★ ある時期は悪がのさばれば、いずれその反動で善がのさばる
☆ 《善》という言葉を受けて述べますが 善は 無理が通れば道理が引
っ込むの道理であるとも思われます。広く情況一般として捉えるなら 悪
貨が良貨と駆逐するとも言われます。

そして・そこで 《あまりにもひどくのさばった悪》に対して善の採る態
度はふたつあると思います。

やはり 道理としてのごとくゆづっている(ゆづり合っている)場合とそ
して おっしゃるように《反動のチカラにまかせて 善がのさばる》場合
とです。

でも 後者の《やり返す動き》というのは 必ずしも善ではないかも知れ
ません。別のあたらしい悪の台頭に過ぎないかも分かりません。



★ したがって責任の取り方についても、そっくり変わってしまうと言う
ことはあり得ません。
☆ 《無理ないし悪貨》の新旧交代であるならば そうであるように思わ
れます。


★ 前述の蟻、ミツバチの集団でも全く何もしないグループの存在も必要
不可欠らしいです。
☆ でも 本格的に・あらたに自己を展開する《あそぶヒト》が 出て来
ないとも限りません。と思うんですが。

お礼日時:2018/07/29 12:01

時というものがある以上、自由は存在します。


そして、人は、自由を求める以上に不自由を求めます。
その不自由の中で、人間は自由を享受しようと努めます。
そして、自由、不自由の中に、責任が存在し、責任を負った
り、転嫁したりします。
我々人間は、地球上の生物の中で一番無責任な動物であり
自分勝手な動物なのです。

私の空想のお答えなので・・・・。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 時というものがある以上、自由は存在します。
☆ なるほど。弁証法過程を持ち出さないとしても 人間には学習過程
があり 反省する動物であり やり直しが効く場合も多くあります。

そのような精神の運動は 《自由》であり 自由を問い求めるプロセス
となっている。

時空間という相対的な世界に生きるからには あやまちは人の常でもあ
り これをただしていく自由でみづみづしいこころが 脈打っていると
思われます。




★ そして、人は、自由を求める以上に不自由を求めます。
☆ ん? ああっ。不自由を求める自由度もある ですね。そういうク
セが その人のそだった環境にあって身に着いてしまう場合が考えられ
ます。



★ その不自由の中で、人間は自由を享受しようと努めます。
☆ 一たんは 世間の動きに屈服せざるを得ず その《不自由》の中に
おのれの自由を問い求める。

ただし たぶん 不自由でよいのだと決めてしまったときには ひょっ
とすると《昔からのふるい人間の像》にとどまっているかも分かりませ
ん。


★ そして、自由、不自由の中に、責任が存在し、責任を負った
り、転嫁したりします。
☆ 基本としては 《自由と責任〔の一体性〕》でしょうか。


★ 我々人間は、地球上の生物の中で一番無責任な動物であり
自分勝手な動物なのです。
☆ なるほど。ただし・でも そういうふうに《勝手な――無責任だと
言われても仕方のない状態にある――動物だ》ということを知っている
動物であるとも言えるように思われます。


★ 私の空想のお答えなので・・・・。
☆ ありがとうございました。

お礼日時:2018/07/29 11:45

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