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大津皇子の悲劇的事件をめぐる和歌は「万葉集」にまとまったかたちでたくさん残っていますが、それらを素材に叙事文学(物語)が書かれなかったのはなぜでしょうか??教えて下さい!よろしくお願いします!!

A 回答 (3件)

大津皇子の母は持統天皇の姉でありまた父は持統天皇の夫です。


また、この事件後持統天皇、彼女は即位しました。
彼女は父の天智天皇に似た自己(夫、天武天皇も)肯定他者否定という
性格だったといわれています。誰も逆らえない・・
そんななか、反逆者として処刑した大津皇子のことを
何らかの物語で残す、これもまた皇族、豪族が自分の命を
ひいては一族の命を縮めることになりかねない・・さすがにそんなことはできなかったからだとおもいます。なぜならこのときは大津皇子以外にも
死罪ではないが刑罰を受けた人もいるからです。
大津皇子とのかかわりは生き抜く上で消したかったのが
(つまり出世のために)本当ではないでしょうか。
またこの大津の反逆の背景には天皇という
一国の王の座がかかっています。
しかし、万葉集は違います、収められている和歌に
身分や差別などありません。天皇から農民まで老若男女問わず
収められているそういった広い範囲での和歌集なんです。
ここがその後の貴族が選者である和歌集と違う部分です。
大津は好かれていたのか広い範囲の身分の人に慕われていたと思われます。
だからこそ残った、そうおもうんです。「好きだったな」という
農民すべてを罰するわけにも行かないでしょうし、またそれができたとして
単なる魔女に持統天皇は映るだけでメリットもない。
持統天皇にしてはたしかに大津皇子をたたえる歌を詠まれることは
気分のいいことではなかったでしょう。でもそれこそ人の意であることを
理解しようとしたのかもしれません。
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この回答へのお礼

遅くなってしまいゴメンナサイ(><)
どうもありがとうございます!!
もっと多くの作品に触れてみたいと思いました。
どうもありがとうございました☆

お礼日時:2001/11/27 15:41

語りで伝えられていた時代には語りにふさわしい歌があったように、紙に書くようになって伊勢物語・竹取物語の登場になります。

これらも暗記して楽しんだようです。
叙事文学(物語)がどのような形式なのか理解できませんが、今から書かれてもよいのではないでしょうか。
ただ、物語は「物」の道理を「語る」ことで、「事」の「語りごと」とは別扱いであったという説があります。
万葉集はその点「事」を伝えていると感じます。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました!!詳しいんですネ★私ももっと勉強しようとおもいました。どうもありがとうございました!!

お礼日時:2001/07/21 12:28

当時の持統天皇は天智天皇と同じくらいの独裁者としておそれられ、大津皇子の死に関して、物語を書くというのははばかられたのでしょう。

和歌で、悲恋を歌い上げるのは
天武天皇と額田王の例もあり、意外と寛容な時代でもありましたが、物語となると、気持ちを歌うのとは違いますから。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました!!!とても助かりました★ありがとうございましたm(^^)m

お礼日時:2001/07/20 22:37

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