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人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

質問者からの補足コメント

  • Fragments様へ お礼の続きです。

    ・・・ところで、私の兄は哲学者であり、大学で教鞭をとっているのですが、その兄と、大阪の地下鉄に揺られながら、実存主義ってなんやねんという話をした時の事。兄は無知識の私に分かりやすいように次のように説明しました。

    「要するに実存主義とは、『磯野カツオ』や。」

    ヘーゲルの唱えたアウフヘーベンによってより高尚な存在へと進んでゆく人間像に対し、実存主義の説くところは、別に高尚な人間になる必要などどこにもないし、それが人生の目的でもないと言う。それは、大したの事のない人間、磯野カツオのままで全然かまわへんって事や。と。

    レゾンデートル、存在理由が何か大仰なものと感じてしまうのは何故でしょう。それは、人間存在や自分の人生が、日常や現実存在を離れて、何か崇高でかけがえのない特別なものと思いなす我執がそこに存在するからではないでしょうか。

      補足日時:2018/12/19 13:12

A 回答 (36件中1~10件)

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。

考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。
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この回答へのお礼

私もそう思います。普段から存在理由は形なくあるのですが、出会いや別離、深い喜びや悲しみを自覚したときに形となって鮮烈に浮かび上がるのではないかと。

お礼日時:2018/12/10 21:13

存在理由の味は青リンゴベルギービール『Newton』(ルフェーブル造蔵所)です。

個人・集団・組織・全体/理性・感性の表です。
  個人 集団 組織 全体
理性 1  2  3   4
感性 5  6  7   8
私は6です。もくぞーさんは2です。シャオツーさんは3です。ちょとつさんは5です。Q:世界中の人間が調和して活かし合って全員の存在と人権を守るにはどうすればいいでしょうか?-さんhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10840176.htmlは4です。


ちょとつさんこんばんは。虚数単位を書くときの筆記体と他のことを書くときの筆記体を使い分けることについてお話が聞きたいです。役過充足ですが遊び相手を引き受けます。地味~と書いたとき地味みが強まるように伸ばし棒をつけさらに強めようと~にしました。音を伸ばしさらに直線より曲線がほぼほぼ長いのでさらに強まります。エネルギやレーザのように伸ばさないのがかっこいいこともあります。なしとーと~を対比しました。ーと~が他のことの筆記体と虚数単位の筆記体に対応します。扉を押すか叩くか考えた故事にならい一句詠みます。
  ど
 レち
レ~ら
|ザか
ザ~な
メメ
スス
 と
どの2種類の筆記体を使うのが良いですか?なぜ書きわけるのでしょうか?書きわけるのとどのようなよいことがありますか?1と区別がつきやすくて安心とか√-1とかくより楽とかですか?垂迹していただけると嬉しいです。

もくぞーさんこんばんは。理性と感性の対立でとらえる考えが良かったです。パクリマクリスティしました。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

そんなビールがあるんですか。飲んだことないですね。美味しいんでしょうか?

お礼日時:2018/12/26 16:44

私は思います。



自信を持っているのは、キサラギさんよりNicoさんの方ですね。

ただ、余裕の無さが《自信》という形になるように思います。

Hさんの場合は、やさしさでNicoさんと接しているから。
キサラギさんは、議論で接しているから。

議論で本気を出しているのは、キサラギさんの方だと思います。

言葉遣いはキサラギさんの方が強くても、精神的な強さはNicoさんの方ですね。
他者の意見を受け入れられない姿勢、の事です。

と、このように云ってみましたが、実際にはNicoさんは迷いに迷っているようにも思っています。
その反動が今のNicoさん、ではないでしょうか。
いや、以前から・・・。

自分自身を納得させようと云う。

でも、誰もがそうであるのです。
そのようにして生きているのです。

生きるとはそういうことだと思います。
誰でも、自分自身が一番かわいいのです。
だから、簡単には死ねないのです。
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この回答へのお礼

フォローありがとうございます^^

お礼日時:2018/12/26 16:43

「文化」とは「気遣い」です。

それは「思い遣り」です。
そして文化とは、単に何かが語られているという場所に留まることなく、あることが「どのように」語られているかということを賞味するものです。
寧ろ比重は「何が」よりも「如何にして」の方に置かれるでしょう。

「言葉」=「意味」のみならず、絵画であっても、写真であっても、また音楽であっても、なにが、どのように描かれ、また写され、奏でられているか。その様式、または方法が芸術を芸術たらしめているのです。

あなたの言葉に従えば、食事は腹を満たすためのものであって、それが盛られているのが、プラスチックの皿であろうが、アルミの椀であろうが、そんなことは問題ではない。
本質は「飯」であり「菜」であるということになる。

わたしは「巧言令色」を良しとしているのではありません。同様に朴訥な訥弁を愛します。
けれどもそれは、彼の話の「中身」がどうこうということでは全くなく、訥弁に巧言と対置し得る「様式美」を見出すからです。また「意味」「中身」云々は二義的なもので、訥々と話そう、伝えようという姿こそ、わたしにとって最も大事な「中身」なのです・・・

意味を読み取ることにのみ専心して、言葉の流麗さに酔えない者は、正に鹿を負って森の木々の美しさを見過ごす者であり、自らの心に遮眼帯を施すことに等しいと思うのです。

そして「使う」ことと同じく、或いはそれ以上に、「愛でる」こと。それが「文化」なのだと思います。
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この回答へのお礼

フラグメントさんがその様な価値観で生きているだろうと思ったので、愛でるだけで使われない道具の喩えを出したのです。

食事は腹を満たすものではなく栄養をとるものです。美味しいだけで栄養のない食事では死んでしまう。

私は過度な気遣いをする程悠長ではありませんし、私の言葉に思いやりを感じて欲しいなどとは思いません。しかし、私は誰かを思いやっていると公言し、それを吹聴し、それを自信のタネにするような事もしない。
むしろ思いやりとは、かけた相手には気づかれない方が良いのです。

私は気になっていた。何がと言うと、自分を底辺だと言いつつ、同じフェーズで自身のやるせなさを没落貴族の余計者のそれに喩える矛盾について。
自身を普通にもなれない者だとしつつ、芥川の手記などを持ち出す理由が。

私は本を大して読んでこなかったから、フラグメントさんが読んできた本に何が書いてあったのかは知らない。その本に書いてあった事にフラグメントさんが少なからずの影響を受けている事は想像できるが、それ以上のことは分からない。しかし、ただでさえ分からない他人であるのに、しかもネット上の言葉のやりとりのみで、ここで接する相手のいくらも分からないのは無理からぬことである。故に基本的には、私は私の分かっている事を話すしかない。

何かに、美しいものなどに酔いたければ酔えばいい。だがそのような眠たい事ばかり言っていれば、その歩みは頼りないものにならざるを得ない。酔いどれが千鳥足で、バカヤロー、俺は好きで酔ってんだ、ほっとけコノヤロー!などと道路で叫んでいるのを見て、他の人は、あぁ、ずいぶんやってんなあ、、、と思うだろう。酩酊すれば誰しもそうなるので、酒は程々にと自重するものなのである。
酒に溺れなければやっていけない、そんな気持ちを分かって欲しい、そんなものは彼を側で見ている大抵の人は分かっている。酔っ払いはそれを知って、お前に何が分かんだ、コノヤロー!と言うのである。

お礼日時:2018/12/23 10:56

hakobuluさんなら、お得意の「見解の相違ですな」というところでしょう。



それにしてもなぜそこまで自信たっぷりなのか?
なぜそこまでの自己への確信と、すさまじいまでの自己肯定感が持てるのか?それが不思議でなりません。
「ひょっとして自分は間違っているのではないか?」という自省、自己懐疑はまるで見られない。
あなたの自信を支えているものはいったい何なのか?

辺見庸の言う「健常であることの避けようのない暴力性」という言葉を思います。
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この回答へのお礼

別にすさまじくないですよ。私は逆に、フラグメントさんが何故そんなに自信がないのかと思っているのです。
私にも自省はあります。しかも結構あります。
ここで言葉にできることは思ってる事の千分の一くらいです。自省している事を表に出してないので、フラグメントさんには私には自省が無いように見えるのでしょう。

自己懐疑と言うものについてはあまり無いかもしれません。自分は間違ってるのでは無いかと言うところの自分とは、自分の認識やかつてなした行為の事でしたら結構振り返っています。自分そのものの存在が間違っているかどうかとは考えていません。

お礼日時:2018/12/23 10:15

キサラギさん。

ここでのブラジュローヌさんとの「やりとりは」この投稿で最後です。
今はブラジュローヌさんの議論にお付き合いしている(という言い方は傲慢ですね)気力も体力もありません。

ただ、これは今のわたしの心身の状態からすれば、当たり前の反応でしょうけれど、
ブラジュローヌさんの文体が、キサラギさんの自身に満ちた語り口よりも、わたしに安心感を与えることも言い添えておきます。

キサラギさんの文体=口調はあくまで明晰ですが、話していて「痛い」のです。
比べてブラジュローヌさんの文体は相変わらず晦渋で、「非思考の庭」などまた持ち出してこられても、
これまで誰もわからなかったものが今のわたしにわかるはずがありません。
けれども、同時にやわらかいのです。(彼の文章は昔からそうでした)

明晰で且やさしい。わたしの知る限り、そのように話が出来る人は、かつてここにいた「hakobulu」さんだけです。

度々失礼しました。

P.S.

ブラジュローヌさん。自他の峻別と言ったのは、うっかり自分と同類だと思って気を許すと思わぬ火傷をするという、ただそれだけのことです。
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この回答へのお礼

言葉を聞いて、それが痛いとか心地いいとか、明晰だとかあやふやだとか、言っている間はその内実は聴こえない。
その人が何を言わんとしているのかを知るべきであって、耳触りの良さを求めて言葉を使うならば、それでは言葉を使う事の本質を離れてしまう。人の言葉には意味がある。コミュニケーションはそれを知るための手段に過ぎない。

拙い言葉でもその意味する所を汲み取る人には功がある。巧みな言葉でも、巧みさに注目してその意味を汲み取らないならば、彼の耳は機能していない。

外見を愛でるだけで、使われない道具のようなものである。

お礼日時:2018/12/23 01:46

覚え書きです。



1. 《文体》をわたしは 別の意味で使ったようです。



2. 《非・自己》と言えば 非思考の庭――信仰――の問題です。

ですが 《ひらめき》と《良心――恥ぢ または やましさ反応――》
というかたちで 思考や感性の場に現われます。

自己の経験するものですが そのみなもとは 非・自己だと見られます。

敢えて言えば 勃起は 自己の経験することですが そのみなもとは
自己ならざる何か(身体にそなわったハタラキでしょうが)であるよう
に見られます。

従ってのように たとえば――たとえばですが―― 敵を愛するという
ことも 自己ならざる何かのハタラキとして〔身と心とに〕起こり得る
と考えられるかも知れません。
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まさに:


◆ (№29 回答者: Fragments さん) 要は文体の問題です。
☆ であるようです。



わたしは ちょとつ氏の見解とそれによる説明は――それ自体の正誤の問題
としてではなく―― まさにフラグメンツさんの問い求めとはかみ合ってい
ないと《感じて》いました。

わたしは わたしの見方が 当たらずと言えども遠からずだったことにも 
おどろいています。これは 意見ではなく 感想です。




《文体》というのは 歩き方・ものごとの進め方・要するに生き方ですが 
わたしの場合は:

〇 わたしはわたしである。
〇 《わたしはわたしである》わたしがわたしする。

と言って来ました。おそらく フラグメンツさんとの違いは――わたしの側
からする見方に過ぎませんが――文体が 過程であることを〔少なくとも〕
言葉の説明でおもてに出すかどうかにあるのではないか?

わたしは 人生が寺院なり神殿なりを次々とめぐり歩く巡礼の旅路であると
捉えていて まさに試行錯誤の道程であると思っているという意味です。
(ですから そのように自己表現します)。




あとは 現時点において つつしんで申しますが まだイメージとしての表
現です。

◆ 「我 / 自己」〔と〕「我ならざるもの / 自己ならざるもの」=「非・自己」
☆ という区別を立てておられます。

そうですね。《非・自己》の部分でわたしも考えるところがありますが こ
の区別じたいは あまりなじみがありません。

すなわち:
◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ブラジュローヌさんの言葉を借りれば、「わたし(GR)は常にわたしである」
けれども、「彼や彼女は決してわたしではない」ということを常に意識して
おきたいのです。

つまり「自己」と「自己ならざるもの」を峻別しなければならないと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ という意識――としての歩き方――については なおまだわたしは層雲
峡の中にあって思案をすすめようとはしています。ヒラメキを俟ちます。

ひとつの焦点は:

〇 なぜ 《意識》として《峻別しなければならない》か? 

だと思います。



草々にて。
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こんばんは、キサラギさん。

大変申し訳ありませんが、ちょっと場所をお借りします。
これはキサラギさんの質問の場なので、ご不快でしたらお詫びします。

以下まとまらないままに、今の気持ちをおふたりにお伝えします。

今、非常にゆっくり、且「断片的」な読み方ではありますが、いくつか木村敏の本を読んでいます。西田哲学の影響を受けた木村氏の著作には「自己」と「自己ならざるもの」という表現が(そのヴァリエーションが)屡々見られます。(『人と人との間ー精神病理学的日本論ー』(1972年)とても面白い本です)

基本的にわたしは、自己の内部に、それを映し出す鏡がないものは自己の目には映らないという考えです。
つまり世界は予め自己の内側にあって、それを対自化・対象化する媒介として、他者が、或いは書物があるのだという立場です。先に書いたように、「わたしは何処へいってもわたしに出会う」。

ブラジュローヌさんの言う

>知性や感性の状態が すでに《われとして・人間として成っている》と言っていますよね?

>わたしはわたしである。わたしは つねに自己自身であり 世界(ほかの人びと)と相い対している》と語っていると採ったわけです。

というのは、決して的外れではありません。仮に相手が「神」という存在であっても、その邂逅は我との出会いであろう、と。そして「わたしは常にわたし自身である」に関しては、その通りですとお答えします。


>以前は 言わば極北の詩人であるかのごとく 人びとと相い対して 反発を感じることもあり そういった態度をも示しておられました。

>けれども 今回は そうではなく――反発や拒否ではなく―― 何ごとをも
ひろく(寛く)受け留めておられる。何ごとも すでにご自身の内にあったことであるといったようにです。

確かにGRの時に比べると、そのように「変わった」と見えるかもしれません。



上手く表現できませんが、今のわたしにとって、自分の主張をあくまで貫くということは、自分自身に対してのみ有効であって、それを他者に向けることにほとんど価値を見出していません。簡単に言うと、議論の勝ち負けなどどうでもいいのです。
或る主張、ある視点、ある考え方は、わたしにとっては眞實であっても、それがブラジュローヌさんやキサラギさんの眞實でないことは一向に問題はないのです。

そして件の「「哲学」ブログランキング第一位」の大阪の男性や、キサラギさんと言葉を交わしていて感じるのは、なぜこの人たちはこのように自己の考えを、自信を持って言い切れるのだろうという疑問でした。

要は文体の問題です。わたしはできるだけ、「・・・とわたしは思うのです」「~ではないでしょうか」という表現を心がけている「つもり」です。明言断言は避けたいのです。

ブラジュローヌさんの言葉を借りれば、「わたし(GR)は常にわたしである」けれども、「彼や彼女は決してわたしではない」ということを常に意識しておきたいのです。
つまり「自己」と「自己ならざるもの」を峻別しなければならないと。

>逆に おまえが私に変わるのだ。というような文体は可能な限り避けたいのです。



「言葉によって人は変わるか?」
という問いかけは、何らかの契機によって(この場合言葉によって)「我 / 自己」は「我ならざるもの / 自己ならざるもの」=「非・自己」に変化し得るか?という問いかけであって、

>「社会適応」「性格改善」「人間関係」「何故生きるのか?と言ったような哲学問題」といった「具体性を持った何か」への・・・という問いとは異なります。

「回答は得られた」というのは「解答」が得られたということではなく、また個々の意見の内容でもなく、
数ならぬわたしの問いかけに、先の皆さんが、それぞれ自分で考えた意見を聞かせてくれたということが成果であったという意味です。その向き合い方に甲乙は付け難いと。

その感謝の気持ちになんら偽りはありませんが、「自己」と「自己ならざるもの」=「他者」との「間」について、未だに迷宮を彷徨っています。

おふたりに、そして場所をお貸しくださったキサラギさんに感謝します。

不悉
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この回答へのお礼

いえ、ご丁寧にありがとうございます。

そうでしたか。
文体の問題については、私も以前は明言や断言を避け、思う、とか、考える、という様な言葉を多く使っていました。
最近は、自分の経験を通して事実そうであったことは、明言、断言する様にしていますが、それが他の方にも同じように当てはまるとは言い切れないでしょう。それは当然の前提としてある上で、明言、断言しています。

さて、人は言葉によって自己から自己ならざるものに変わるか?という問いですが、それは変わらないと言えるでしょう。
むしろ、古い自分から新しい自分に生まれ変わったり、自分を取り戻したり、知らなかった自分を発見したりすることはあれど、自分では無い他人になったなどとは聞いたことさえありません。

自己ならざる者とは一体何のことをおっしゃっているのか良ければ教えて下さい。

西田と言うと、主客未分がパッと思いつきましたが、それも自己ならざる者とは違うでしょうし。

お礼日時:2018/12/22 14:17

コメントをありがとうございます。



★(№27お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
既に私の内なるところに大人なるものの萌芽があり、それが”大人の食べ物”
(=言葉)を得ることで発現する、このようなことをおっしゃっているので
はないかと思いました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ なるほどと言いますか たしかに《【Q:言葉の力で「自分」は変わる?】》
という主題でしたね。

わたしは このアウグスティヌスの文章については まったく早合点してい
ました。

つまり 《食べ物》はそうなのですが:
▲ 成長して私を食べられるようになれ。
☆ と言うのは 《食べることができるとは 思われない》という意味であ
り けっきょくのところは しかるべき時に《食べるちからが与えられるよ
うになる》ということだと受け取っていました。

つまり まさしく:
▲ 逆に おまえが私に変わるのだ。
☆ であり いつしか《変えられている》ということが起きる。――といっ
た意味においてです。


もしこの意味で採るなら フラグメンツさんのコメントについては 《神に
よって変えられるにせよそんなことはないにせよ いづれにしても わたし
はわたしである。わたしは つねに自己自身であり 世界(ほかの人びと)
と相い対している》と語っていると採ったわけです。


どうもかみ合っていなかったですかね。

フラグメンツさんから さらにコメントがあるかないか・・・ですが。
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