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天皇って歴史の教科書に~天皇とか出てきますが、そもそも天皇ってなんなのですか?そういう地位?ができたのはいつなのでしょう?なぜできたんでしょう?また戦前、神のように崇めたのは、天皇自身が望んだからなんでしょうか?それとも国民が勝手に思っていただけなんでしょうか?

A 回答 (10件)

 古代の日本、朝鮮、東アジアにはシナ(現中国)の柵封体制・華夷秩序というものがありました。


 シナには『皇帝』がいる。皇帝は世界を治める唯一の天子である。という思想です。周辺の国々はシナの皇帝に供物を持って挨拶に行き、服従を示すことになっていました。この外交方法を『朝貢』と言います。そうしたらシナの皇帝は『そなたの国を治めるがよい』と言って、『王位』をくれるのです。『漢委奴国王』なんて金印が『王』の証となります。そう『王』というのは『皇帝』よりも下の身分なのです。これが、大陸を支配した原理であり、シナこそが世界を治める文明の『華(はな)』でありその周辺の地域は下等な『夷』(=野蛮人)の国である。これを『中華思想=華夷秩序』言います。こういうシナ王朝の皇帝と君臣関係を結ぶ東アジアの政治システムのことを『柵封体制』と言ったのです。
 日本は、5世紀までこの柵封体制の中に入りシナから王の称号をもらっていました。しかし、5世紀末に我が国にも、もうシナから独立したいという願望が芽生えていたのです。
 
 5世紀末隋の登場で大陸が統一されると、聖徳太子は、小野妹子を遣隋使にし、あの有名な国書を隋の煬帝にあてます。『日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す、つつがまきや』、『天子』とは『皇帝』の別称です。当然、煬帝は激怒しました『たかが、野蛮人の一国王にすぎぬ者がわしと同じ天子を名乗るか』と

 推古天皇16年、聖徳太子は2度目の国書を遣隋使に持たせます。国書にはこう書かれていました。『東の天皇敬(つつし)みて、西の皇帝に白(もう)す』ここで、我が国で初めて『天皇』という名称が登場します。つまり、『あんたは皇帝、こっちは天皇別に上下関係はないよ』ということです。シナからは『認めはしないが名乗るなら勝手にしろ』程度の了承を取り付け、ついに日本は、シナの柵封体制から抜け出します。

 『天皇』とは、シナの柵封体制から抜け出して日本が自主独立を図る覚悟を示した名称なのです。これ以降日本では、自前の元号、律令を使います。

 このような日本に対してシナの柵封体制に近代までずっと入っていたのが朝鮮であり、日本だけがこのシステムから抜け出した事がずいぶん悔しいらしく、現在でも朝鮮ではマスコミも一般人も日本の天皇のことを『日王(イルワン)』と意固地に呼び続けていますね。

 戦後、天皇は、全国を視察しますが、日本の国民で『天皇って人間だったんだ』なんて思う人はいなかったんで、そんなことはみんな戦前から知っている訳です。神と言う意味は今でいえばカリスマ、その道の一流の人を神様って言いますが、それと普段はお目にかかれない雲の上の人(平安次代だと上級貴族を含め殿上人(てんじょうびと)と言いましたが)そういうことが合わさって『現人神』という表現がされたのです。

 
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この回答へのお礼

なるほど、だとすると推古天皇以前の天皇は後で天皇の呼称を後付けした?ということなんでしょうか・・返信ありがとうございました・・。

お礼日時:2004/12/02 23:46

 かなり誤解をまねく記事あるようなので歴史的事実だけを訂正しておきます。

不要だと思われたら削除通知を出してください。
 (1)革命と戦争は対あるいは類になる概念ではありません。両者は本質的には無関係です。
 (2)アメリカ独立戦争は世界史の常識としては市民革命の一種に含まれます。独立戦争の政治史的、文明論的側面が革命であるわけであって、革命と戦争とはそもそも語られる「場」が違います。
 (3)革命は王制を民主制に移行することではありません。単に主権者の交代を意味するものですので、正確な用法としては(漢籍での用法)、ある王朝が別の王朝にとってかわることをも革命といいます。また民主政体においても主権者が根本的に変わる場合には革命と呼びます(たとえば東欧の民主化革命)。
 (4)王権は皇帝より授けられるものであるという本質論は一部の例においてたしかに正しいのですが、中世期以降、これは有名無実化しました。
 (5)ヨーロッパにおける王権は教皇によって授与されるものではありません。教皇はあくまで宗教上の権威です。王権神授説が有力になるにしたがって神の代理人としての教皇の権威が増したということはありますが。
 (6)ドイツの元首が皇帝であるのはプロテスタント国であるからではありません(イギリス、北欧諸国、オランダなども新教国ですがすべて王位です)。ヨーロッパにおける皇帝の起源はローマ帝国にあります。東西に分裂後、東ローマ帝国の皇帝位がロシア皇帝位に、西ローマ帝国皇帝位が神聖ローマ帝国位(ドイツ皇帝)に伝えられたもので、ロシアと神聖ローマ帝国(ドイツ)のみが皇帝を称しているのはこのような事情によるものです。
 (7)アングリカン・チャーチの大主教は英国王が任命します。権威は王→教会の方向で流れ、アングリカン・チャーチの首長は英国王です。
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天皇は日本列島において、その地域を支配する主権を始めに確立した方です。

主権の確立の仕方は大きく分けて二通りあります。

一つは、戦争や革命によって「血を流し命をかけて闘い取った」と言う理由で「その地域を支配する権利が自分にある」と主張する方法です。近代国家は殆どがこの方法です。独立戦争という形ではアメリカ合衆国を含め旧植民地だった多くの国がそうです。フランスなどのように革命と言う方法もあります。王制だったヨーロッパの多くの国がそうです。戦争で勝ち取ったと言うところもあります。中国共産党・北朝鮮などがそうです。抗日戦争をしたかどうかはこれらの国にとっては重要な事なのです。これらの国は国家主権を「戦い」によって取得しました。

もう一つは、そう言う主権の由来が「神様」であると主張するものです。君主制の多くの国は普通はこれです。現代では「神話に基づく権威」という概念が認められにくくなっているので君主制の国家は殆どなくなりました。

君主制の中では「王」「キング」といわれる権威は、より高い「皇」又は「帝」と名のつく「エンペラー」と言われる権威から与えられます。基本的にヨーロッパではローマ「教皇」と言うキリスト教に由来するエンペラーから「王」の権威が与えられる事になっています。なので、カトリックから脱退したプロテスタントのドイツは「王」ではなくドイツ皇帝として自分で自分の権威を確立しました。同じようにカトリックから脱退したイギリスはローマ教皇の替わりに「英国国教会」という権威を作ってそこから「王」の権威を与えてもらうシステムにしました。

東アジアでは他に「主権」を授与できる権威(エンペラー)は「始皇帝」を持つ中国だけでした。なので、朝鮮もタイもビルマもベトナムも「王」しか持てず、「皇」「帝」などの「エンペラー」はいない事になっていました。これを「中華主義」と言います。「中国」を「中華」と言う理由です。事実、アジアの国は全て中国に対して「朝貢」する事により「王権」を中国から認可しつづけてもらっていたのです。

本来日本も「中華主義」に組み入れられていました。しかし聖徳太子が「日いづる所の天子が日の没するところの天子へ・・・」と中国皇帝へ送った有名な書状によって表明されたように国際的には「王」であった日本の天皇を中国皇帝と対等・独立の「エンペラー」として「皇」の位を持つ存在である事を名実共に国内外に確立していったのです。

天皇は上記のように「武力による平定を根拠とする権威」に加えて「宗教的な由来を持つ権威」が造られ、その上に「中国など他に依存しない権威」という諸外国にはあまり例の無い絶対的な権威を日本の地域で確立していくわけです。
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ちょっと補足しておきます。


戦前の天皇の権威は「現人神」として神に近いものでした。
ところが憲法の
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
により、法律に縛られ

第五五条 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
とあるように、内閣の同意(副署)が無ければ何も出来ません。
内閣が拒んで署名しなければ何も出来ません。
読まれれば分かるように、天皇には責任がかからないようにもなっております。

例えば(新聞に依れば)オウム真理教の麻原教祖が「xxをポアーせよ」といえば、信者は理屈抜きにxxを殺しに走りますし、ドイツのヒトラーが「ロシアを攻めよ」といえばドイツ機甲師団は国境を越えて東に向かいます。
独裁者はこういった存在なのですが、天皇の場合「伊藤(博文)は気に食わない」といっても罷免される事はありませんし、「西郷は国の功労者だから」と考えても軍隊が引き返す事はありません。
政治的には今も昔も全く無力であり、

第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

を楯に無理を通せば
「君側の奸を絶つ」として、親しい者が遠ざけられ、それでも従わなければ
「ご心痛により」として、大正天皇のように皇太子(又は皇族)を摂政にして押し込める事になリます。
現実そうしたクーデター計画は、終戦の詔を出す際にあったようです。
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天皇については日本の成り立ちに関ってきますし、現在伝えられる古事記や日本書紀、そして交流のあった中国の歴史書を見ても、神話や曖昧な表現になっており、不確かです。


有力な説としては、古代日本は小国(今で言う市町村程度)が分立しており、その中で近畿地方の国が力をつけ、近隣諸国を併合し「大和」という政権が誕生します。
この大和という政権の長が「大王(おおきみ)」と呼ばれ、天皇の祖先になります。
この大和政権がどこから来たのか、例えば九州の「邪馬台国」がその前身で、女王卑弥呼は天照大神(あまてらすおおみかみ)として伊勢神宮に祭られたというロマン溢れる説や、天皇の祖先は朝鮮の王族で、日本を征服した(イギリス王家のような形)という説までありますが、神話の中に埋もれ確たる証拠はありません。
はっきりしてるのは紀元4世紀頃に仁徳天皇陵などの巨大古墳が作られ、それを可能にした強力な政権が成立した事です。
こうして天皇は諸豪族を従え、日本を統一します。
そして7世紀後半、持統天皇の頃には
「大君は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも」柿本人麻呂
と、天皇は神になりました。

http://www.uraken.net/rekishi/japan_histry02.html

当初絶対的な権力があった天皇も8世紀に入ると、官僚である藤原氏に影響される事になります。
藤原氏は天皇家と縁戚を結び、天皇の舅という立場で政治をとるようになり、天皇はお飾りとなってしまいます。
こうした事は院政(天皇が引退して上皇となり、現役の天皇(息子)をコントロール)する形に変ったりしますが、1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、完全に実権を失い、文化的存在になります。

さて明治になる前夜、徳川幕府は西国諸藩(薩摩・長州)の圧力で壊滅寸前。
ここに権威としての天皇が再び登場します。
つまり天皇には武力はありませんが権威があり、天皇が認めた勢力が「正義」であり、それに反する勢力は「悪」となります。
その為幕府、西国諸藩は天皇の奪い合いを行い、幕府を支持していた孝明天皇(明治天皇の父親)は暗殺されたのではないかという疑惑もあります。
結果的には西国諸藩が天皇の奪取に成功、官軍として東海道を攻めのぼり、江戸城を接収して徳川氏を降伏させ、反抗する東北諸藩を抑え、最後は北海道の榎本武揚を捕らえて日本を統一します。

これで明治政府が成立しますが、天皇は神に近い存在になりますが、一方で憲法に縛られ、内閣の輔弼が無ければ発言も出来ない事になりました。
つまりイギリスのような「君臨すれども統治せず」という立憲君主制になった訳です。
これが戦後、天皇が戦争責任を問われなかった根拠でもありますが、何かやりたいと思っても内閣が同意しないと何も出来ない訳です。
天皇はこの状態にジレンマを感じ、開戦の時や2.26事件の時に不満を口にされておりますが、無力でした。
多分天皇自身もこの状態に満足はしてなかったと考えます。
また大正天皇は病弱で意志薄弱な人物との印象がありますが、皇太子時代は闊達で庶民的な方であり、昭和天皇をはじめ4人の子供を持つ父親ですから、健康状態も悪くなかったと想像できます。
ところが即位後、目に見えて衰えられ、最後の数年は人事不詳で、皇太子が摂政となりましたから、かなりのプレッシャーだったのでしょう。
神に祭り上げられたのは政治的配慮であり、実権はありませんでした。
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この回答へのお礼

そもそも藤原氏が権力を握ったにもかかわらず逆賊呼ばわりされるのを恐れ、摂政という形で政治を行ったのがずっとつずいたということですね・・。要は今で言うところの世論を敵にしたくないというところだったのでしょうか・・しかしここで考えられるのはそこまで天皇というのは人心を掌握していたのでしょうか?しかし考えられるとしたらそれしかないですね・・。返信ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/02 23:59

最初に日本を統治した人たちと思えばよいでしょうね


最大の管理は暦の管理です
この為に日本中の人が崇めるようになりました
この管理は統治者が変わっても続きますから
見た目以上に尊敬されたと思いますね
今でも日本中に無料で配られています
カレンダーを詳しくした物です
誰でも一度は見られた事が有ると思いますが
これが有る為に誰にでも必要不可欠なのです
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あ、あと最初の天皇は「神武天皇」だと思いました。


ただ実際にいたのかどうかは分かっていませんが伝説上の天皇で国を作った初めての天皇だと言われています。ちなみに即位の年は紀元前660年ごろと言われています。
これ以上は歴史の話ではなく神道の話になるのではないでしょうか。
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前段の部分については、参考 URL に挙げた別質問の回答を、ご自分で整理して考えてもらえば、取り敢えずの取っ掛かり、はつくと思います。



また戦前 (明治から大東亜戦争敗戦まで) に関しては、もう一つの質問を見て同様にしてください。

天皇に相当する地位ができたのは、日本書紀成立の頃でしょう。当時政治的実権を握った一族が、自らの正当性を主張するために、書記を成立させたのですから。その後は、実権を握った者が、自らの地位の正当性を主張する裏づけとして利用してきた。シナで言う 「天命」 の代用として利用し、それに乗っかって生き延びてきたのが天皇一族です。

明治維新でも同様に担がれましたが、明治天皇自身はかなり政治に入り込んでいたことは確かで、以前の支配階級を目指していた、と受け取れる節もあります。

No. 1 の方の言われる 「一つの宗教団体のような状況」 は言いえて妙でして、一時期の大日本帝国 = オウム真理教。天皇 = 麻原と置き換えれば、その絶対性、無誤謬性、天皇の名の下に出される命令には絶対服従、のパターンが見事に成立します。麻原が実際に支持を出したかどうかは、司法判断が確定していない現在断定することは避けるべきですが、大東亜戦争開始も御前会議で天皇の裁可があった歴史的事実と、これまたよく符合します。オウムを受け入れる土壌は、案外典型的日本人の中にあるのかもしれません。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1101337 …
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確か天皇は天照大神(あまてらすおおみかみ)の尊(みこと)の子孫だからだったと思います。


ようするに神の子孫だから神のように崇められました。また戦前までは天皇のことを現人神(あらひとがみ)と別名で呼ばれていたのもこのことからなんです。天皇自身が神のごとく崇めよ、と思ったのかは分かりませんがおそらく国民からそう思ったのではないでしょうか。

天皇とは地位の名で西洋でいえば皇帝や王のようなものです。ただ皇帝などと違うのは皇族のみがなれる地位ということです。ですから神の血が入っていないのだから下克上などでどんなに偉くなっても皇帝や王にはなれたとしても天皇にはなれません。

この回答への補足

天照大神というのは伝説上の神かなにかですよね?で、なぜその神の子孫が人間である天皇なのか・・う~ん、わからないです・・。

補足日時:2004/11/30 14:26
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天皇は、昔から国を治めていた人と言えばいいのでしょうか。


なかなか言い方が難しいですが・・・・
今は完全な象徴で地位ですが、昔は少し違ったのかなと。
いつ天皇という概念が発生したのかというのは
http://www.logix-press.com/scriba/index/tn-index …
を見ていただければわかるかと思います。

戦前の信仰は、一つの宗教団体のような状況だったのではと、私の勝手な意見です。

参考URL:http://www.logix-press.com/scriba/index/tn-index …
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