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私達が生まれた時に貰ったのは
いつか死ぬということ

ソクラテスは

死は
人間の持っているすべての恵みの中でも
最高のものである

と言いました

それは
死がなければ
生きることが生きることではなくなるからでしょうか?


ソクラテスの言葉をどう解釈されますか?

質問者からの補足コメント

  • ❀回答ありがとうございました❀

    こんばんは、ラヴと申します
    答えのない哲学に魅力を感じますが
    ベストアンサーは選ぼうかと思います
    ベストアンサーというより
    ベスト・ラヴ・アンサーです笑
    ただ私が選んだだけですよという意味です笑
    といっても判断基準は
    私が想定してなかった意外な回答にします❀

    ●ソクラテス
    (紀元前469年頃~紀元前399年)
    古代ギリシヤの哲学者(西洋哲学)
    研究分野:認識論、倫理学

    ●プチエピソード
    彼は着眼点によって様々な解釈が可能な、
    多面的な性格を持つ思想家で、
    かつ、相当な皮肉屋であったそうです。
    死刑が確定し、
    ソクラテスの妻が「無実の罪で死ぬなんて!」
    と嘆いた時も、
    「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」
    と言ったそうです。
    でもこれは、皮肉ですか?ユーモアですか?笑

    ではまた❀
    *・゜゚・*:.。..。.・*:.。. .。.:*・゜゚・*

      補足日時:2019/05/11 17:57

A 回答 (16件中1~10件)

ソクラテスの言葉、



「死は
人間の持っているすべての恵みの中でも
最高のものである」

に付いて、わたし流の気付きが有りました。

もしかするとソクラテスは、釈尊が云うところの「生とは苦である」と見ていたのではないかと。釈尊は人の楽しむ姿さえも、苦であると観た様ですが、ソクラテスがそこまで見たかどうかは分かりません。

No.6さんの意見と同じ、でしょうか。
グッド!は別の人に付けましたが。

ただ、文章の脈絡が明らかになれば違った解釈になるかも知れません。
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この回答へのお礼

こんばんは

釈尊は
「生とは苦である」
と言ったのですね。

ここにいう「苦」とは
生きることに伴う苦悩の他に
歓喜の部分も含まれているのですね。
この「歓喜」というものが、
釈尊にとって何を指すのかは
興味深いところかもしれないと
思いました。

ソクラテスの死に対する考え方も
生きることからの奪還的な意味が
あるかとは思います。
また、
彼の中の本当の意味での歓喜は、
単に人生を生きる喜びではなく、
哲学を貫く事にあったのかと
思いました。

彼の死は、宗教犯罪として、
民衆裁判によって死刑判決を受けた事にありますが、

実際ほんとうに宗教犯罪を犯したかどうかは別として(おそらく犯罪者扱いされたのは、その当時の時代背景にペロポネソス戦争敗戦、政権的背景、さらには民衆派勢力の中にソフィストを排除する動きがあったりなども関係しているのかなと…)、

彼は、彼自身の行いを否定し死刑を免れるタイミングは少なからずあったにも関わらず、それをしませんでした。

死刑を宣告された時点で
彼の中の選択肢は

自分の哲学に生きた人生を否定し、自分に偽りながら生きていくのか、

たとえ周りに否定されたとしても自分の哲学人生の中に永遠の魂を生かすのか

つまりこの時点においては
彼の中で

生きること=哲学の否定

死ぬこと=哲学の肯定

であったように思います。

彼は最終的に、
彼自身の哲学人生を貫くことが
彼の喜びであり、
生きることの中でそれを成し得るのは、苦になってしまうと判断されたのかなと思います。

また、
民衆からは彼の行いは否定されましたが、
自分すらも自分の行いを否定してしまったら、
そこに存在するのは
自分ではなくなるような、
そんな気がしたのかなって

死を最高の恵みと言ったのは
「死」こそが、
彼の哲学を貫く最善の策であり、
人生を幸福であるものに成し得る
もしくは
人生を幸福のうちに終わらせられる選択肢であった、
とも捉えられるような気がします。

なるほどです

釈尊の言葉から、
ソクラテスの喜びに対する概念を考えさせられました。

なかなか個人個人の哲学は
深いですね。

考えさせられるものばかりの回答で、
自分の考えをまとめるのが難しく。。。

回答ありがとうございます

お礼日時:2019/05/03 23:26

人は生まれる前の状態から生まれてきました。

生まれる前の状態は死んだのちの状態と同じです。ですから、私は死んだのちも生ま変わると思考しています。

そのことを説明します。
死とは何でしょうか。死んだ後私は何かを感じるのでしょうか。
その為には、私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。

 では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳を取り出したらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。

 そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。

 赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。

 では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。

 この様に、心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。従って、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。物質ではないものを感じている私も物質ではありません。

 私の感じている世界は、私が心の中に作り出したものです。心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。

 例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
 部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。

 テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。 テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。

 もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。

 同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。

 この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。

 ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。

 科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。

 私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。

 死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
 生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
 「不生不滅不垢不浄不増不減」です。

質問者さん、この様に脳が死ぬと精神である私に刺激を送るものが無くなるので、私は何も感じません。新しい脳がまた私に刺激を送る様になると、私はまた元のとおり感じる様になるでしょう。
死んだら、気が付くと母の胸に抱かれていることに気が付きます。誰しもそうです。ですから、死んだ人にもまた次の生或はその次の生で出会えると考えます。

詳細は、下記のホームページを参照下さい。
http://catbirdtt.web.fc2.com/sitohananika.html
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この回答へのお礼

こんにちは

「私達は生まれる前の状態から生まれてくる、
宇宙の初めから終わりまで全く変わらずに存在している、
私達は生じるものでもなく、無くなるものでもない、
私の感じている世界は、私がココロの中に作り出したもの」

なるほど

これが私のココロの世界ならば、
kothimaroさんもまた、
私のココロの中の世界の、
教えてgooの質問の回答者であるのですね


ならば私は今、

なぜ、
私のココロの中につくり出された世界に
生と死の概念が存在してしまったのか

なぜ、光の波長を感じとれるようにできてしまったのか、赤いものが赤く見えるようにできてしまったのか

なぜ、色々な波長の空気の振動をとらえることができるように
できてしまったのか

つまり、脳はなぜこれらの電気信号を送るようにできているのか


そして、

ココロの中の世界のソクラテスという哲学者が

なぜ、
死は最高の恵みであるといわれたのかを

今、考えております笑


死んだ人にもまた
出会えると考えるのですね

そうでありたいです

それはまた
嬉しいと感じます


回答ありがとうございます

お礼日時:2019/05/06 11:31

私の回答?への応答をみて思いました。



ソクラテスは今、優れた理解者の現れを喜んでいるのではないでしょうか。

「今となっては死、こそが自身の哲学を貫く」

敢えて死を選ぶという、武士道や騎士道と云った精神に通じる“信念”の表明、のように思います。
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この回答へのお礼

こんばんは

はい、
先の汽笛さんの回答から
苦の中に含まれる歓び、
ソクラテスの歓びを
考えさせられましたよ。

「生とは苦と捉えたのかもしれない」
と回答した、汽笛さんの回答もまた、汽笛さんの哲学と捉えました。

ソクラテスの死の選択は、
哲学を貫く信念だったのかも
しれないですよね。


哲学のカテの皆さんのやり取りも面白いです。
また勉強にもなります。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/05/04 18:59

個人的には「生まれた時に貰ったのは『命』である」と思っていますが、生まれた時点でもらった命以外で考えた場合の、というとらえ方で解釈すると、「なるほど」と思うばかりですね。



そもそも、命をもらっていないと、死ぬこともないと思ってしまうので。命の終わりを「死」と解釈するのかなと思ってみたり。

生命としての死だけでなく、心や思い出の中にも存在しなくなってしまうことも「死」というとらえ方もしているのかなぁ、と捉えています。

難しい話、と感じています。
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この回答へのお礼

こんばんは

確かに、
生まれた時にもらったのは
確実に命ですよね

そして、貴方様が仰るように
肉体としての消滅を死と捉えることも、心の中からの消滅を死と
捉えることもできると思います。

ただ、私達人間は
地球上の他の生命とは
なんだか少し違う生き物のようにも思います。

なぜ人間だけが、
文明を発達させてきたのか

例えば、
人間以外の他の動物は
移動手段として
自分たちで走り移動します。

人間は移動手段として、
まず他の動物に乗って移動する事を覚えてから、
今では車や飛行機にまで
発達させてきました。

死の認識が
これら文明の発達に
関係してきたのかは
わからないですが、
少なくとも私達人間には
いつか死ぬという認識があることで、
日々の生活を有意義なものに
しているとも捉えられます。

なのでソクラテスが
死を最高の恵みといったのが
色んな解釈にもできてしまうのが
少し面白いかなと思い質問してみました笑

だから、
確かな答えはないのですが、
個々の回答それぞれを
個々の哲学の魅力と考えてます

回答ありがとうございます

お礼日時:2019/05/04 18:40

高貴でした。

失礼しました
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この回答へのお礼

こんにちは

訂正をありがとうございます
私もたまにやってしまいます笑

投稿したあとに訂正ができればいいのですがね

文章も同じで、
一応確認してから投稿しますが、
書き込んだあとに読み返すと
また違うニュアンスの意味にも
捉える事ができてしまう事に気が付いたり。笑

自分の心を相手に伝えるためには、
言葉の数は遥かに足りなく、
限りある言葉からより自分の気持ちに近いものを選ばなければならない

また、
言葉という暗号で相手に送り、
相手の脳内で解読された時に
自分の伝えたかった事がそのままちゃんと解読されているのかってのは、難しいところですよね

捉え方が違うから
1つの文章が2つにも3つにも解釈できてしまう。

さらに、
ほぼ文字だけでのやり取りであるネットの世界では、
読解力や文章力が決定的に左右してしまう

私はネット歴はまだ浅いのですが、なかなか考えさせられています。


高貴ですね。
訂正ありがとうございました。

また後で他のレスにもお礼をさせてくださいね。

お礼日時:2019/04/29 10:45

大義理でしょうかね?



最近考えているもの。

夕焼けに、別れて家に帰る子たち。

「お別れなんて無ければいいのに。」
「日が沈むことなんてなければずっと遊べるのに」


どちらが幸せでしょう?

ずっと同じように秋もなく、遊び続けられる人生。

もう一つはね-


悲しみとお別れ、その最大のものである死も、ときに見返らなければならない人生。


前者は、実は人間でなくてもできるのではないでしょうか?

しかし動物も死に別れくらいは覚えている。
恐らく、父母のいた時があったこと。ともに走り廻ったこと。


人間ならばね。

悔いにおいて、
立ち向かいたいと思える。
自らの運命に抗いたいと思える。

それはとても尊い事なんです。

これから、Vアール…
セカイに


今回はここら編にしておきます。
有難うございましたm(_ _)m


質問者さん。良いアイコンですネ

申し上げました。


貴方の心根清らかな行いが
続くならば、どうか沈む日を惜しむよりも登る朝日の黎明を
朝焼けの紫にこそ、
後期なる魂を感じてください
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この回答へのお礼

こんばんは

人間ならば
終わり(=死)の認識をしながら
日々を生きていくことは
幸せなことなのかも
しれないですね

人生最大のお別れである死が必ず訪れるという事を認識しながら生きていく人生もまた、
日々の生活を有意義なものとしています。

他の動物は死ぬことは把握していたとしても、
いつか死が訪れるという未知の認識をしながら日々生きているのかはわからないですね。

けれど、たまに
人間に与えられた感情を
煩わしいと思ってしまう
自分もいます

草、木、花のように
ただ生命として生きる、
生命として存在している、
それを羨ましいとさえ
思うことがあります。

ただ、
人類が文明の発達を遂げてきたのも
死ぬという認識があってこそ
だったのかもしれませんね。

回答ありがとうございます


登る陽の
 紫なるを
  感じるは
命の尊さ
学ぶ歓び

お礼日時:2019/05/04 17:56

死を以って人間の営為が完結するからです。

生きていた内にやった事は死んだ後も永遠に影響して行く事でしょう。

いい事をすればいい波紋が広がり。悪い事をすれば因果応報?で人々に悪い事が起こります。
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この回答へのお礼

こんにちは

「死を以って人間の営為が完結するが、
生きたうちにやった行いが影響していくのは死んだ後であり、
これは死がなければ成し得ないこと」

てのは、
なるほどかもです

死を堺にしてというのがポイントかと思いました。

死とは、時に他者の存在を明確にするのかもしれませんね。

人間の他者への存在認識てのは
物理的なものと心理的なものと
ありますが、

心理的にも影響があると
物理的に居なくなったとしても、
心理的な存在認識ってのは
なかなか
消えることがありませんね

亡くなった後に称賛されたり
居なくなってからその人のありがたみがわかったり、
また心の傷も同じで、
された事は残ってしまうもので、
簡単に心の傷は癒えません


ソクラテスの言葉にある「死」とは、何をもって死と云っているのか推測はできますが、定かではないですので、

この世からの肉体の消滅ではなく、

もしかすと、
物理的な存在認識の消滅と解釈したら、また面白いと思いました。

ただ、すみません、
huru27さんの回答を
かなり拡大解釈したような気がします。。。笑

でも考えさせられました
回答ありがとうございます

お礼日時:2019/05/04 11:12

答えのない問い(哲学の問題)から解放されるからでしょう。

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この回答へのお礼

こんばんは

「答えのない問い(哲学)からの解放」

確かに

哲学に答えがありません。

よって
答えを探して問いている筈なのに、答え合わせしようとしたら、
全て解釈しか書かれてないような
解答冊子を配られました的な感じを想像しました。

人生において
悩みはつきものであり、
その度に哲学というものを
より豊かに、
よりユニークに
定義できるかで

解答冊子の中の解釈に
「袋とじ」なる価値のあるものが出てきたり、、、笑

死ぬ瞬間に
答えのある解答冊子が配られるのかは誰にもわからないですが

ただ、
答えのない哲学も魅力的ですが、
もし答えのあるものに成し得るならば
そんな哲学もまた興味あるなって
思いました

回答ありがとうございます

お礼日時:2019/05/04 00:12

《死》をめぐっては ひとは想像するしか知ることもかなわないので


いろんな見方やその覚悟のありようを自己表現していると思います。

ひとつの分類としては 死に対するきっぱりとしたつよい姿勢とそし
てとにかくよわい態度しか取れないでいる状態とでしょうか。



ソクラテスの態度は 死を直視するつよい姿勢でいると同時に その
自分の姿勢に対して自分で褒めてやっている――それは よわさから
でしょうか――心の片隅の積み残しのような部分をも見ているかに思
われます。



わたしは 心のよわい人間で甘えたですから――甘えん坊というよう
な懐(なつ)っこい感じではなく 押しかけるような甘えたですから
―― そのか弱い心を包み込んでくれる言葉が欲しいですね。


▲ (ヨハネによる福音 10:18 ) わたしは命を捨てることもでき
それを再び受けることもできる。
☆ つよそうですね。この《できる》というのは 権能のようなもの
を言うらしいですが。


次のように言われると うれしいですね。
▲ (マタイによる福音 10:29 ) ~~~~~~~~~~~~~~
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽
さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

▲ (ルカによる福音 12:6 ) ~~~~~~~~~~~~~~~
五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽
さえ、神がお忘れになるようなことはない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ということで――えっ? どういうこと?――:
★ 生まれた時にもらったのは、いつか訪れる死である?
☆ とのごとく 死はいま現在すでに織り込み済みであることにして
しまう手があるとは思います。


焼き鳥にされる最期になりたくはないですが。
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この回答へのお礼

こんにちは

なるほど
ソクラテスの言葉を「つよい姿勢」であるとともに「よわさ」からきているもの、でもあると捉えたのですね。

確かに
この世に生存している誰しもが
「死」を語ることができません。

未知だからこその恐怖です。

けれど、
ソクラテスは最高の恵みと言いました。

これは
死を語ったのではなく、
恐怖の受け入れに近いかもしれないですね。

だから、
強さなのかもしれないですね


確かに、
bragelloneさんの命であっても誰しもの命であっても尊いものでありますね。

ソクラテスは、誰にでも平等に与えられた死だからこそ、最高の恵みであると考えたのかもしれませんね。
平等に与えられた尊い命(=死)だからこそなのですね。

これがもし平等でなかったら
この地球上には生命は既に存在すらしてないかと思いました。

bragelloneさんならではの回答で面白かったです

回答ありがとうございます

お礼日時:2019/05/01 18:14

この質問に付いた回答はどれも良いですね。


哲学カテならではの質問と回答で、勉強になります。

ソクラテスの言葉の解釈は難しいです。
ソクラテスに付いて何も知らないから、でしょうが。

どの回答にもグッド!を付けたいところですが、今回は敢えてお一人に付けました。
もっと回答が寄せられるといいですね。
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この回答へのお礼

汽笛さん、こんばんは

お礼は遅くなりましたが、
実はこの回答をいただいた時に
とても嬉しく思いました❀

哲学はとても面白いです
そして、とても癒されます

それから
私の別のスレの回答で、
汽笛さんが教えてくださいました
「帰趨」という言葉ですが、
調べてみましたが、
そうゆう本能が私たちにはあるのですね
(ん?でも本能ということで捉えてよろしかったでしょうか?笑)

未だにその感覚がつかめなくて
ずっと考えておりました。

またそのうちご教示いただけたらと
思います

回答ありがとうございました❀

お礼日時:2019/05/11 18:42

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