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榎本武揚は当時の情勢では切腹か自殺をしてもおかしくなかったと思うのですが,さらに明治新政府の高官として一生を送ったということが何となく不可解なのですが.

A 回答 (6件)

 榎本武揚は『蝦夷共和国』建設に当たり、明治元年12月25日、日本で最初の選挙をやり総裁に選ばれています。

すぐに『五稜郭政府』の宣言をしますが、もちろん明治新政府は認める訳はなく『反徒、逆賊の輩』と非難しましたが、これに対して榎本は、『我らは反徒、逆賊にあらず。正当な権利を有する交戦団体である』と諸外国に向けて声明を発表しました。軍事のみならず国際法にも通じていた榎本ならではの行動ですが、これに対してフランス、オランダの両国は『デ・ファクト(事実上の)』政権とみなす、としたのです。つまり、榎本政権をちゃんとした政府と認めたのです(アメリカ、プロシア、イタリアは中立を守ることだけに同意しました)。つまり、諸外国の認めた人間をあからさまに殺すことはできなかったのではないかというのが1つ。

 それから函館戦争では榎本武揚だけでなく、大鳥圭介や黒田清隆といった人間も生きのびて明治新政府の要職に着いています。それぞれ、枢密院顧問官、枢密院議長まで登りつめています。やはり、明治新政府も今後の運営のために有能な人材は1人でも欲しいと考がえていたのではないかというのが、もう1つです。
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この回答へのお礼

戦いに負けたら自害するというのは公私混同のようにも思いました.榎本の個人的能力と明治政府の明察の両方が榎本を生かしたということでしょうか.大変勉強になりました.ありがとうございました.

お礼日時:2004/12/09 09:36

榎本は実際切腹しようとしていたところを部下に見つかり止められたそうです。


敗戦後、彼は処刑されるはずだったのですが、新政府側の人間である黒田清隆の尽力により助かりました。
なんでも戦いのさなか、黒田が榎本に降伏を呼びかけたところ、榎本は断りの手紙とともに「海律全書」という本を送り
「今の日本には貴重な本であり、戦火で失われるのは惜しい。差し上げたい」と添えたということがあったらしいです。
これに感動した黒田は大久保や木戸に頭を下げて回ったとか。

命を昨日までの敵に命を助けられた榎本は黒田に請われて新政府に出仕してから才覚を生かし活躍をします。
榎本は新政府に出仕した理由を決して誰にも語らなかったため、本心は謎なのですが、
きっと黒田に対する恩義と、幕府と新政府の違いはあれど国家のためにやれることがある、という大儀のためだったのではないかと。

ちなみに晩年は生活に困窮した旧幕臣の救済活動に明け暮れたそうです。
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この回答へのお礼

色々な事があるものですね。さらに榎本武揚に対する関心がたかまりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/09 15:55

 そう考えて福沢諭吉が榎本に公開質問状を出しています(『痩我慢の説』)。

これに対して榎本自身が自分で弁解を行っているはずですが……。
 函館で最後降伏してしまったのは要するに大将だった榎本の意向です(なかには榎本に反対して腹切った人もいた)。有能な人ではあったようですが、「もうあかん」となると急に腰くだけになりがちな性格であったのは事実であるようで、馬鹿の一念というか、愚直な古武士の風格という感じの人ではなかったようです。
 ちなみに万国法については榎本のほかにも詳しい人材が政府には大勢いました。それよりもむしろ、当時としてはめずらしくロシア知識を持っていたこと、外交交渉がうまかったことなどが、明治政府において重用された理由ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご解説でかなり納得できました.ありがとうございました.

お礼日時:2004/12/08 17:33

こんにちは。


当時、榎本武揚は日本国内で航法(今でいう、国際法に該当するような物。船が航行する時の所有国と通過国の法的な関係についての理論)について、日本ではトップクラスの使い手?だったようです。

彼は、幕府艦隊総指揮官でしたから、そういう事は当然深い造詣があったでしょうし、留学してどっかの大学でそういうのを間なんだ経歴を持ち、航法理論のぶ厚い本を自分で写筆して持っていたといいます。

つまり対外法規的な事に関して日本でも屈指の人だったので、五稜郭の戦い後、明治新政府が北海道の領有を北の大国ロシアに対して主張する為に、そういう人材が不可欠だったようです。

結局、全権大使となった榎本の働きで千島樺太交換条約が締結され、それまで不確定で時たま小競り合いもあった日露国境の明確化ができました。

明治新政府の榎本温存?の目的はずばりこれだったようです。

もし、五稜郭で敗将として切腹してたら今、北海道は日本じゃないかもしれませんよ。(笑)
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この回答へのお礼

なるほどと思いました.どうもありがとうございました.

お礼日時:2004/12/08 14:42

勝敗は兵家の常という言葉があります。

自害をするのはどちらかといえば尋常じゃない忠義者であり、なおかつロマンチストであると考えられます。榎本は学問に優れた人物で、オランダに留学し海外の知識、考え方をもった当時としては稀有な人材でもありました。
確かに旧幕府軍のボスとして投獄はされたものの、新政府がその能力を欲したのはなんらおかしなことではないと思われます。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC% …
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。大変参考になりました.

お礼日時:2004/12/08 14:44

何故生きのびたのかというのはよくわかりませんが、生き恥を晒すべきではないと考えた人もいれば、生きて新しい時代を見ようと考えた人もいたという事ではないかと思います。

生き残ったからには自分の生まれ育った国を良くするべく行動するのは特におかしなこととはおもいませんがいかがでしょうか?
ちょっと質問の趣旨がつかめないのですがこういった答えでよいのでしょうか?

この回答への補足

当時の常識として戦いに敗れたのだから自害すべきだと言う考えが支配的ではなかったかと思ったのですが.また明治政府において冷遇されたということもなかったのでしょうか.

補足日時:2004/12/08 14:18
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この回答へのお礼

榎本武揚の行動は近代的だったということでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/08 17:36

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