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中臣鎌足(藤原鎌足)は百済の扶余豊璋だったと言うネットの記事が結構多数ありますが本当にそうなのでしょうか?
また、天智天皇も百済出身だったのは本当でしょうか?

A 回答 (9件)

新約聖書:ルカによる福音書:10章


33節 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
34節 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35節 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
36節 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
37節 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

新約聖書:使徒行伝:9章: 31節 こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。
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繰り返される内乱の首謀者系列ということでしょうか。
内乱・紛争といえば、戦費調達。徴用・徴兵された若者は帰って来ず。
悪しき、歴史と言って、過言でもなし、言い足りない。
世界全平和を目指す国際社会において、悪い前例・副教材というところでしょうか。

白村江(はくすきのえ)の戦い で、倭は敗戦。その影響で西日本各地に山城を築き防人を配備して大宰府を設置した。更に都を近江大津宮に遷都する。 となっている。

歴史ミステリーも数あり、青い目の卑弥呼はインドとかギリシャの系列だとか、中国からの有力者徐福伝説とか、天狗伝説、移民なのだか、難民なのだか、正体不明が関の山ではないでしょうか。

聖書の、よきサマリヤ人の譬えのサマリヤ人も、オリエント・中東を支配した大帝国アッシリアの移民政策によるユダヤ人との混血と論説されていた。

人間社会、よくよく注意していないと、紛争が繰り返されるだけの頭の治、それも度々の前例とみえる。
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>> 弥生時代に日本に入ってきた民族は主に朝鮮半島経由です。



違うでしょう。
一部いただろうことは想像に難くないですが、たぶんそんなに多くはない。
みんながみんな無事に海を渡れるわけでもないし。
多くの朝鮮人は、稲作ができないでしょう。やったことないから。
たぶん南部の日本の占領地以外では無理。

多くの百済人が日本に逃げてきた、というのは百歩譲って正解でも、それが日本列島で多数を占めた、というのは間違い。
朝鮮半島は寒冷地。日本で言うなら北海道。
当時の日本は、東北地方ですら大和朝廷の支配域では無かった。
それはおそらく稲作と関係があったのでは。
東北で稲作は難しかった。現に江戸時代ですら飢饉が数回起きている。
江戸時代の交通輸送網で無いならそのまま多くが死に絶えたはず。
朝鮮半島は、農業に向かないので、人口が少なかったはず。
人口密度が日本のまま朝鮮半島まで続いていたのではたぶん無い。
人口密度は日本の半分とか1/4とか、おそらくそんな感じでは。
嘘だと思うのなら、野生の木の実と狩猟で生活してみれば良い。
更には海を渡りきれなかった人、『船に乗れなかった人』等を考えれば、日本人に対して極僅かしか来なかったはず。
朝鮮半島と福岡や下関とが船でピストン輸送できた戦争直後ですら、簡単に船に乗れたとは想像できないはず。
当時であれば、船のサイズ、強度、速度、数、等々で、大量の人を輸送することなんてできっこない。
大体、船が無いなら作れば良いじゃないかというのは日本人の発想。
少なくとも後の世であれば、車輪が作れない水車が作れない桶が作れない朝鮮人。当時の百済人と人種や文化が同じだった保証は無いけれど、食料生産力が乏しく、後に貢ぎ物が少ないから朝鮮という名を授かったような国に、日本と同様の文化があると仮定するのはたぶん間違い。
それに、弱小勢力だったから日本に王子を人質に出さなければならなかったわけで。

百済が滅びたら人が来るなら、中国王朝が滅びればやはり人が来るはずで。
秦は北方国だからともかく、漢、三国志の呉、晋もどうだろう北方かなぁ、隋もどうだろう、まぁ唐の時代の前に滅びた王朝や勢力はいくらでもあるんで。

>> なんら不思議なことではありません。

天皇家の神事がどう考えても稲作関連なのだから、天皇家が稲作ができない朝鮮半島由来なんてのは不思議で仕方ないような話。
朝鮮人がひた隠しにしている古墳にしたって、どう考えても日本から朝鮮半島へという流れ。
そもそも、中国ですら領地化を躊躇うような地域です。
稲作ができて(北京天津ですら小麦では?)降水量も日本並みで、という気候なら、まず中国が放っておかないでしょう。
北京天津で、中華からすると、北東の寒い地域かもしれません。
たぶんそれを超えると、小麦が作れないので(地形の関係もあるのかも)狩猟地帯、女真族等北方民族の支配地域で、その南か南東が朝鮮半島。
おそらく物や文化文明の流れが、そっち方面は滞りがちなんだろうと思う。
逆に、朝鮮半島が日本のような気候で人口も多ければ、日本と半島の交流はもっとあったはず。
それ以上に、中国を侵略しているはず。

日本人のその手の話は、ロマンがあって良いですね、で済むんだけれど、
文化侵略を企む輩、特に天皇家を乗っ取ろうとする連中が実際に居るわけで、連中を駆除しないと、こういう楽しい話もできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
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お礼日時:2019/09/01 22:21

そんな昔の事は関係ないし近くにいるからと言っても日本中に居る訳じゃない、反対に日本から言った民族見入るだろうし調べようもない。


100年前の事さえ捏造されるのにそれよりも一体どれくらい前なんでしょう、もしそうだとしても関係ないしそうでなくても関係ない。
この時期に成るとそんな事が出てきますね、言葉がちゃんと喋れない人の子供とは思えませんけどね。
日本人はそんなに節操なしではありませんよ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:21

じゃぁあなたが生まれた年月の10ヶ月前に来日した海外の大物を調べて下さい。


あなたもその落とし子なんでしょう。ビル・ゲイツあたり来てませんか?
時期が重なったらそうに違いない、って、そういうことですよね?

https://blog.goo.ne.jp/akatsukida/e/f51bf7859db3 …

すげぇな。
生まれ年が同じなら偶然とは思えないんだそうな。
当時の日本は、数年に1人しか人が生まれなかったのかね。
中大兄皇子天智天皇の側近だったんでしょうから、今更娘を送る必要は無くても、その後継者を排除した天武天皇とはじゃぁどういう関係だったのか。
天智天皇に近すぎて、娘を送「らなければヤバイ」関係だったことも十二分にあり得そうだけれど。

ご存じかもしれませんが、
ウリが起源ニダ、が大好きな連中が居て、日々、日本の侵略を企てています。
天皇は百済出身だ、は連中の大好きな話です。
朝鮮人の日本史侵略を排除した上で、日本史を見直さないとどうにもならないと思います。
いずれにしても、結論は出ないかもしれませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:22

可能性は否定できないけど、当時の朝鮮にいた人たちと今の朝鮮人は


DNA的に違うらしいから、朝鮮起源というのは誤解を招くね
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:22

まちがいでしょう。


最後は、百済を滅ぼした唐により、嶺南地方に流刑にされています。

扶余豊璋(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99 …

なお天智天皇は舒明天皇の第2皇子です。百済からの亡命者ではありません。
もっとも天皇家をはじめとする当時の支配層は、祖先をだどれば朝鮮半島でしょうけれどもね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:22

中臣鎌足は、関裕二さんの著作には、そう書かれていますね。

天智天皇は知りませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:23

天智天皇が、ということではなく、弥生時代に日本に入ってきた民族は主に朝鮮半島経由です。



半島が内戦状態だった時代、百済は朝鮮半島で劣勢だったので流入してきた人数も多かったでしょう。
南方の海から北上した人もいたようですが、朝鮮半島の方が近いので、人数的には多数を占めたと思われます。

奈良、吉野の朝廷はその末裔ですから、百済出身でもなんら不思議はないです。
でも、高句麗、新羅出身かもしれません。
半島に比べて日本の文化程度は低かったので土着の縄文人を征服し、さらに弥生人同士で戦い、勝ち上がって政権を作ったのです。

その頃も朝鮮半島からの帰化人は多かったので、もしかしたら、新たにやってきた半島の有力者が勝ちぬいた可能性もあります。

ともかく、奈良吉野時代の有力者が半島から来た人であっても、なんら不思議なことではありません。
ただ、誰それ、と名前を特定することは、確かな文献がなければ証明はできません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:22

本当です。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
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お礼日時:2019/09/01 22:22

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