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「洗濯に」と「洗濯しに」の違いを教えて下さい。

桃太郎の話を検索すると、殆どが「おばあさんは川へ洗濯に行きました」と書かれてありました。

「洗濯に行きました」と「洗濯しに行きました」の意味はほぼ同じだと思いますが、この2つの違いを文法的に説明する事は出来るのでしょうか。

もしかしたら正解の無い質問かもしれませんが、ご回答宜しくお願いします。

A 回答 (21件中11~20件)

思わぬところで気づかされました。


拡散、当然方向を持った動きを意識したうえ、ならその起点、を表すとも言えますね。
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「に」は位置付けの認識、と言うより、位置という概念の認識と言ってくれた方が・・。


数学で点は位置を表し、面積も長さもない、で、問題はその点が何処にあるのか?。
位置と言う概念だけなら、沢山有りすぎて点で示しようがない位置もあります。
いわば、各種の花、一般名詞の花と言ってしまえば、イチジクの花やあじさいの花のように例外的なものを除けば間違いようが有りません。
その言葉を使って、説明・・・となると花の中でも十字花科の花、菊等八重の花、ラン等の点対象でない花に付いて述べようが有りませんね。
花と葉、茎、根について述べるに止まります。
言葉で位置、とだけ言われても、文章理解には屁の突っ張りにもなりません、
具体的に何処なのか、どういう位置なのか、等が示されないことには。
「に」は格助詞の・・・位置の認識・・・では当たり前とも取れる理屈をこね回しているだけで、助詞の入門の初歩を云々しているだけです、そんな説明では、まんじゅうの皮だけを食べるようであんこを食べることはできません。
収束の行き着くところは点、その点の具体的な位置が判れば、理解が一歩進みます。
行き着くところ→終点・着点でも有ります。
「を」拡散ととらえるとき、一点から拡散の行き着くところは無数です、点の打ちようが有りません。
でも、現実の現象は無数の何れかに落ち着きます。
「に」にしても「を」にしても単なる位置の概念の認識では不十分です、収束・拡散と言う方向も認識する必要が有ります。
「に」はその方向を持った動きが収束して一点で止まる、動作の結果を表現するのに好都合、「を」は動きは有るが方向が定め切れない、現実には何れかの一点に落ち着くが・・。
落ち付いた結果を見たとき、現実は小説よりも奇なり、と言われる所以です。
ほとんど一般名詞に近い言葉で理屈をこねるだけなら、先ず間違いようがないだけです。
理系の人に失礼だ、と言われるのも最もです。
花と葉と茎と根の相違なんて説明されるまでも有りませんね。
理屈のこねかたそのものは、間違いでは無くても、内容はきわめてお粗末ですね。
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#6です。


横レス気味になってしまいますが、ご質問の趣旨からそれほどかけ離れることにはならないと思いますので、もう少し補足させていただきます。


まず、#7さんのご回答に関して。
>会議は5時【に】始ります。

これは、

会議が始まる時刻は何時か・・? ということを辿っていけば、それは5時という時刻にたどり着く。

といった意図を持つ文です。
会議(主語)について「始ります(述語)」ということを言っている構文ですが、その「始ります(述語)」という動作の着点(落ち着く先)は、「5時」という時刻ですよ、と指定しているわけです。

プロトタイプ、すなわち原型ですが、何事も本質というものを理解するのは難しいものでして、ある程度の感性が必要とされます。
『正しく理解』するのが難しくてもやむを得ないでしょう。
ただ、本質を知れば、
・なぜ、このシチュエーションで「に」が使われるのか?
という極めて重要な点に気づくことができるようになる、というメリットがあります。


次に#8さんのご回答について。
>私個人は「に」は収束「を」は拡散、というとらえ方でとりあえず対処しています。

「収束」とは傾聴に値する表現ですね。
「収束」である以上、当然「落ち着く先」、すなわち「着点」が必須ですから、その意味で基本的に当方と見解を一にするものではないかと感じているところ。
これは心強い。(笑)
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>格助詞「に」は時間的・空間的な位置付けの認識を表わすもので


これは「に」は目的語を表すだけではない、単に場所を表す場合もある、というだけの説明です。
目的格である場合の認識についての説明にはなっていません。
ある人に、この理屈オンリーを理系的・・・と表現したところ、理系の人に失礼だといわれました。
質問の趣旨は「し」を入れる必要性の有無、またはそれにそる受け取る感じの相違です。
「し」は動詞「する」の活用です。
洗濯、この言葉をどう取ら得るかがキーになります。
洗い物をすること、と説明するときは、「する」の動詞の意味も含むので、あえて不要とも言えます。
文法の中でも、基本の、主語、述語、目的語、の形式で見れば述語で多く使われる、動詞(形容詞)が重複して、違和感があるのは確かです。
なを、目的格としての「着点」は言葉の妥当性はともかく、ぼろくそに言われる内容ではありません。
私個人は「に」は収束「を」は拡散、というとらえ方でとりあえず対処しています。
でも「拡散」については、その説明に自分でも苦労しています。
もちろんくだんの理屈オンリーの独善の人に言わせればボロンチョンです。
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誤った補足がなされていますので、コメントしておきます。



謀大学の認知言語学という誤った言語論に基づくプロトタイプ的意味などに還元しても助詞の意義は正しく理解できません。

会議は5時【に】始ります。

の格助詞「に」が、

”「動作・行為の赴く先」を表しているという点で、まさに「着点」以外のなにものでもありません。”

などと寝惚けたことを言っても誰も相手にはしません。■
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#3です。


少し補足しておきます。

名古屋大学大学院人文学研究科・教授の杉村泰氏の論文に、下記のような記述があります。
※ 一般に格助詞「に」には多くの意味役割が付与されている。しかし、これら
は全て〈着点〉という一つのプロトタイプ的意味に還元することができる。※
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/1/sug …

「着点」を「客体」としか読み取れない方には難しい分析ですが、この「着点」こそがまさに格助詞「に」の本質を端的に表現しています。
「に」は「動作・行為の赴く先」を表しているという点で、まさに「着点」以外のなにものでもありません。
これで、すべての用法が説明可能です。
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なお、格助詞「に」は時間的・空間的な位置付けの認識を表わすもので、まかり間違っても「着点」などという客体を表わす語ではないので注意が必要です。

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「洗濯に行きました」の洗濯は名詞で、動詞「行く」の静的な対象、つまり目的として格助詞「に」で位置付けられています。



「洗濯しに行きました」の「洗濯し」は名詞「洗濯」+サ変抽象動詞「する」の連用形「し」の複合動詞で、「洗濯し」は複合連用形名詞になっています。この場合は行く目的が「洗濯に」より「する」という意志的動作の側面が強調されています。■
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格助詞「に」の本質的意義は端的に言うなら【着点】です。



(ア)『おばあさんは川へ洗濯に行きました』

という文の場合、

「行った」という動作が「洗濯」という動作にたどり着いている、といった構造。

つまり、

「行った」のは「洗濯」のためだった、という意図を表現するために「(洗濯)に」という表現が使われている。
この場合「洗濯」は名詞なので、「洗濯=洗濯という作業のため」に行った というニュアンスになります。

(イ)『おばあさんは川へ洗濯しに行きました』

の場合、着点は「洗濯する」という動詞(の連用形)なので、「洗濯=洗濯という作業をするため」に行った というニュアンスになる。
「作業のため」なのか「作業をするため」なのか、という違い。
ここで、

目的としての「洗濯」という作業に関して、わざわざ「洗濯する」という動作性を含む動詞を使う必要性は無い。

というのが(イ)文が不自然になる理由だろうと思います。
ただ、

(イ’)『おばあさんは川へ洗濯 を しに行きました』

のように名詞化すれば、違和感は薄らぐでしょう。
ただ、この場合も、

洗濯というものを・・・といニュアンスになって大げさな印象を与えるのは免れないため、その意味での不自然さは避けられないと思います。
端的に「洗濯の目的で」という意図で表現するのが読みやすい文になる、ということでしょう。
逆に言うと、大げさに、あるいは強調的に表現したい場合には、たとえば、

『おばあさんは川へ水泳に行きました』
よりも、
『おばあさんは川へ水泳をしに行きました』
のほうが自然になったりする。(たぶん)
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洗濯は名詞、洗濯しには動詞だと思います。

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