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織田信長が乱取りを嫌う性格から、家臣には乱取りを禁止させていたため、百姓とはいえ、乱取りはしなかったと思います。
明智光秀は、百姓より下の出身だったのではないでしょうか?
いくら表面を固めても、素行の悪さは隠せません。
明智光秀は、主殺しに続き、乱取りを行いました。

明智光秀には何かが、欠けているとしか思えないのですが?

質問者からの補足コメント

  • 母を人質にしたり。
    何か人としての大切なものが欠けています。

      補足日時:2020/10/12 15:39

A 回答 (1件)

戦国時代の多くは、今で言う将校クラスの豪族が抱える家臣は


少なかったので、戦の都度、農民を招集して、兵にしてました。
臨時招集の農民(足軽)にとっては、乱捕りはボーナスでした。
織田の家臣団は全部プロの戦闘集団でした、だから、ボーナスである、
乱捕りは必要なかったのです。
羽柴秀吉の頃は、織田家も大きくなり、家臣がそれぞれ自前で、自分の
兵を抱える様になってました、毛利攻めの時には、秀長に堺に金策に、
行かせてます。
足軽にとっては、ボーナスである、乱捕りは魅力ですから、隅々までは、
目は行き届かないですから、乱捕りが無いとは言えないですが、
他の武将よりは、少なかったと思いますよ。

孟子に言わせれば50歩100歩と笑うでしょうけれど。

豊臣秀吉になってからは、武将単位で九州、小田原討伐ですから、
徳川家康をはじめとした武将の管理になりますね。
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太閤検地などを行い、百姓から年貢を搾り取り、大阪城に蓄財して、
百姓を一番苦しめたのが、太閤様ですよ。
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