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源平合戦のころの馬について教えてください。
大陸から輸入されたものと思いますが、どれくらいの大きさで、どれくらいの速さで走れるものだったのでしょうか?
馬を背負って谷を下るためには、体重150キロ以内でないと無理だと思います。
するとポニーサイズになってしまうのですが。
平家物語には、名馬「生月(いけつき)、摺墨(するすみ)」が登場しますが、どれくらいの大きさの馬だったのでしょう。
ご存知の方、教えてください。
よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

 生食(いけずき)と磨墨と言えば、日本史上もっとも有名な馬ですよね。


 この二頭のどちらかわからないのですが、あるいはもしかしたら違う馬かもしれませんが、昔の史料では確か、どちらかは非常に大きな馬だった、と書かれていたと思います。
 どのぐらいだったかというと、体高という地面から肩まで(馬はき甲という、肩の骨が二つの尾根のようになっているところがあるので、その真ん中のくぼみまで)の高さで

140cmちょっと

だったそうです(^^;。昔はこれで大変大きな馬、だったのです。(まあ戦国時代の日本人男性の平均的な身長はたぶん150cmないぐらいでしょうから、現代人でいえば180cm近い大きさの馬に匹敵するのかもしれません。)
 読んだある本には、発掘された鎌倉時代の軍馬の遺骨100体を測ってみたところ、135cmどまりで140cmを超えるものは一頭もいなかった、という話がありました。
 それを考えると145cmあったという磨墨も生喰も、142cmと見られる頼朝の愛馬青海波も、「やんごとなき方の乗ったすばらしい馬だから、ちょっと大きめに書いてしまえ。」という、書き手の願望が入っていないとは言い切れないと思います。その当時、「(四尺)八寸の馬がいい」といった理想像があったようだからです。
 ちなみに、日本各地の在来馬の現在の平均的な体高は参考URLの下の方に載っています。
http://www.bajikyo.or.jp/03chishikiA.html

 馬の原種には二種類あって、現存する唯一の野生馬といわれるモウコノウマのような、寒冷地に生息し狼を敵とし、がっちりして非常に頑丈(だがあまり速くはない)なタイプと、砂漠型といわれるアラブ種に近い皮膚が薄く、非常に神経が鋭敏でライオンのような走って逃げるしかない大型の敵を天敵とし、比較的大きくて足が細く、走るのが速い二種があります。
 日本に後者のタイプが入ってきたのは明治以降になり、従ってそれまではご紹介した在来種のような姿形のずんぐりむっくりお尻がぷりっな馬に乗っていたと思われます。

 この種の馬は非常にタフで、粗食と寒さに耐え(寒いところは植物相が貧しいから)、重いものでもよく運び、そして雄は極めて気性が荒く感じます。獰猛といってもいいかも。天敵が闘うことで蹴散らせる狼やヤマネコあたりであったこと、寒冷地に生息するため(餌確保のための)縄張り争いが熾烈であったから、と考えられているようです。
 モウコノウマの雄を連れ帰ったヨーロッパ人はその利かん気の荒さを数々のエピソードに残していますが、戦国時代の名馬もそういう気性の激しさが喜ばれたようですね。人といわず馬といわず、噛み付き引き裂くから生喰(いけずき)と呼ばれた池月の、「湖面に輝く月のような美しい馬だから。」というのは、後の人間がつけた脚色だと思います。

 話がずれましたが、大きさは140cm足らず。おそらく100~120cmほどと思われます。現在の馬の基準は西洋からのものですが、147cm以下をポニーと呼ぶ(見かけはサラブレッドのようであっても)ので、戦国時代の武将は皆ポニーに乗っていた事になります。
 体重はそれでも250~350kg前後はあったのではないでしょうか。担ぐのはムリですね。そもそも、鎧自体が数十キロあったようなので、馬が150kgしかなかったとしても、仰る話自体が武勇伝にすぎないと思います。
 また走る速さも、推測ですが、時速40kmでれば極めて速い部類だと思います。現代の、より速く走るために品種改良が重ねられたサラブレッドは体高160cm前後、4馬力ぐらいあるとも言われ、その中の一流の馬は瞬間的には時速70km近く出しますが、平均で60kmほど。(2kmを2分ちょうどぐらいで走ります。)
 でも、サラブレッドであってもそれほど速く走れる馬はそうはいません。まして砂漠型でない日本在来種の馬では、時速30kmから40kmほどと思われます。
 現在の在来種の走るスピードを考えても、これより速いということはないと思います。

 また日本在来種と呼ばれる馬ですが、これはいつごろ大陸から渡ってきたのか、考古学的・歴史学的にはあまりはっきりしていません。大和民族のルーツにまだまだ謎が多いのとリンクしているようです。
 歴史学者の間には「騎馬民族伝来説」など面白いものがありますが、馬だけでいうならば、魏志倭人伝の大和の動物、などの記述に馬が出てこないのだそうです。
 従ってクツワやアブミ等、騎乗するのに必要な騎馬文化がどこから来たのか、まだまだ不明です。 

参考URL:http://www.bajikyo.or.jp/03chishikiA.html
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おお。

グッドタイミング!
先週の日曜日に横浜根岸にある「馬の博物館」に行ってきたのですが、そこの常設展示室に当時の鎧武者+馬の実物大模型が展示されていました。
たしかにポニーサイズではあったと思います。
今の馬に比べると小さい方だとは思いますが、さて..担ぐとなるとどうでしょうか?ただし、乗っている鎧武者も現代からするとだいぶ小さいのであまり違和感も無かったですけどね。
休憩室には、たまたま「源平合戦に活躍した馬」といったタイトルのビデオもながれていまして、当時の様子について知ることもできました。(けっこうおもしろい)

博物館の外には、本物のサラブレッドやポニーもうろうろしてますので比較もできますよ。

参考URL:http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/U/U01.html
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こんにちは。


ご質問を見て思い出したことだけですが・・・
お尋ねの時代よりだいぶ下がるのですが、
戦国末期の加藤清正の乗馬「帝釈栗毛」は、朝鮮役で手に入れたそうですが、
体高六尺三寸(あわや2m)あったそうです。その当時は五尺が大体標準で、
五尺を「馬尺」という呼び方もあったそうですね。
輸入馬とはいえ、或いはだからか、○王と呼びたくなるほど図抜けた巨大馬だったようです。
日本馬の起源などは全然知らないのですが、平安時代頃の最上馬は東国産のものでは
なかったんでしょうか。
「鹿が降りられるなら馬も降りられるはず」といって奇襲したと思ってました。
担いだんですか、すごいですね(汗)
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 当時の馬は、以前の回答者の方が仰っているように、とても小柄でした。

「木曽馬」が、そのころの姿を色濃く残した馬として有名です。詳しく解説したサイトがありますので、参考にしてみて下さい。

 簡単ですが、これで失礼します。

参考URL:http://www.janis.or.jp/users/n-takeru/
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 大学や大学院で日本史(古代・中世史)を専攻していました。

それでお尋ねの件ですが、平安末期の頃の馬は、今の馬と違ってポニー程度の馬でした。だから馬を背負って谷を下ることができたのです。
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以前、テレビの歴史番組だったと思いますが、あまり急なので、谷を下る時に人間が馬の前足を肩から担ぐ、ちょうど馬の上半身をオンブをするような格好で下っていったとありました。



当時の馬はとても小さく、おっしゃるようにポニーのような小型馬だったようですよ。

今、私たちが目にする馬のサイズは、サラブレッドとかアラブ系の大型馬がほとんどです。

逸話で聞いた事があるのですが、ぐっと歴史は下りますが、織田信長に討たれた今川義元は大男で、鎧甲冑を身につけて馬に乗ると両足が地面についたとか ・・・ これも当時の馬が小さかった事を表しているように思います。
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