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当か否か どうでしょう?

質問者からの補足コメント

  • №7についておぎないます。

    ★ 無根拠であるが故に神なのです。
    ☆ そのあとの説明は別として この一文による命題は 生きる――かと思いなおしました。失礼の段は つつしんでお詫びします。すみませんでした。



    私見では 《根拠がない》と《無根拠である》とを分けてみたほうが 分かりやすいように思いました。

    つまり 神は 《経験合理性にもとづく根拠がある・ない》の判断を超えています。

    したがってそれとは別に そもそも初めに〔あたかも単なる命名としてのように〕神は 《すべてのものごとの〈根拠〉である》とかあるいは《神は 〈無根拠〉である》といったふうに規定してしまうやり方です。

    それは したがって 《想定・仮説》として初めに定義する方法です。

    普遍神を 分かりやすいように最初から 《有る神》か《無い神》かのいづれかに分けて呼ぶかたちに似ています。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/04/22 04:29
  • №30つづき1

    ★ 重要なのは抽象化された大問題ではなく、それぞれの個人が今ここに在るという事であり、どの個人(たち)と共に立つかという事である。
    ☆ おっしゃるとおりです。

    ★ sympathy'Midleidとは他者の不快や苦しみを共にする、つまり共苦する事を根源的に意味している。
    ☆ ことさらに意識しなくとも 自然本性におのづからはたらきますよ。

    ★ もとより他者の苦しみや不快を請け負い、理解する事は不可能である。
    ☆ 苦しみにどう対処するかについては 口出しすることができます。


    つづく

    No.30の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/04/23 05:33
  • №30つづき2

    ★ では、如何なる手段において?
    私は私の不快や苦痛を身体を通して感じる。
    この不快や苦痛が如何なるものかを知る事。
    躊躇い戸惑いつつ言語化し、既に記述された言語を分節化し、ときほぐし、異化し撹乱していく事。
    ☆ 基本は ヒラメキを得ること。それによって 既存の見方としての常識を破り得ます。あたらしい――主観ながら――世界観を得て これの共同化にも進みます。

    ふるい共同の観念を廃らせ あたらしい共同主観をあまねく打ち立てます。


    ★ 慎ましくも必要とされるのは道徳(モラル)ではなく個人の倫理(エチック)である。
    ☆ エチカとしてさまざまな手段(思想)が考えられます。

    ひとつに 《甘え》がよいかも知れません。《遠慮がない二角関係》です。聖なる甘え または きよらかなおそれ とも言います。


    つづく

      補足日時:2021/04/23 05:34
  • №30つづき3

    ★ 正義の軸を設定し神殿に納めそれに拝脆して異境審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続ける事。
    ☆ それには 互いに遠慮のない甘え関係を確立すること。

    ★ システム内に繁留された倫理=道徳から身を引き剥がし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理(エチック)から想像を他者に投げ掛ける事。
    ☆ エチカ――言わば アマエチカ――は 自由な孤独に立った原点から出発します。

    ★ そうしたエロスの投網によって他者の苦痛を新しく見いだす営みを持続させる事。
    ☆ ひとはおのおの自分で自己を表出し表現するとよいでしょう。
     
    ★ それが知るという事である。
    ☆ 苦痛を叫ぶほうも叫ばれるほうも 遠慮しないということです。

    つづく

      補足日時:2021/04/23 05:36
  • №30つづき4

    ★ 他者を理解する事はできない。
    ☆ 現象をとおして知り合えばよろしいのでは? 内面が外(現象)に出て来ることもあります。

    ★ しかし・・・他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである。
    ☆ 遠慮しないで 他人(ひと)のことは 互いに放っておいて(自由にさせておいて)よい という見方もあると思います。そのほうが われわれは らくです。肩の力瘤をほぐしましょう。



    ――天邪鬼コメントでした。

      補足日時:2021/04/23 05:39

A 回答 (30件中1~10件)

世界の貧困について、私たちは口をつぐむ事ができる。


私が死んでも世界は無関心であるように、他者の死に介入する事はできないのだから。
しかも、その存在さえ知りえぬ遥かな他者の死に。
 だが、私の孤独が堪え難く、癒しようもないのは、私にとっては世界の中で唯一の代替不能な存在であると共に単独では存在していないからである。
(単独で存在する神の絶対的孤独・・・・・)。
私は既に無数に交差する連関の中に置かれている。
この連関のために個人がここに在る事は他者を抑圧し抑圧される関係性から、好むと好まざるとに関わらず、免れていない。
そうであるならば私の立つ位置を確認しつつ他者と共に立つ事で、私の孤独と他者の孤独を連帯に繋げていく事はできるかもしれない。
 重要なのは抽象化された大問題ではなく、それぞれの個人が今ここに在るという事であり、どの個人(たち)と共に立つかという事である。
sympathy'Midleidとは他者の不快や苦しみを共にする、つまり共苦する事を根源的に意味している。
もとより他者の苦しみや不快を請け負い、理解する事は不可能である。

 では、如何なる手段において?
私は私の不快や苦痛を身体を通して感じる。
この不快や苦痛が如何なるものかを知る事。
躊躇い戸惑いつつ言語化し、既に記述された言語を分節化し、ときほぐし、異化し撹乱していく事。
 慎ましくも必要とされるのは道徳(モラル)ではなく個人の倫理(エチック)である。
正義の軸を設定し神殿に納めそれに拝脆して異境審問の過程で排除項を生み出していくのではなく、不快さを不快であると叫び続ける事。
システム内に繁留された倫理=道徳から身を引き剥がし、個人の身体感覚から不快を問い続ける倫理(エチック)から想像を他者に投げ掛ける事。
 そうしたエロスの投網によって他者の苦痛を新しく見いだす営みを持続させる事。
 それが知るという事である。
 他者を理解する事はできない。
しかし・・・他者を理解しようとするその試みこそが、人間の営為なのである。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 世界の貧困について、私たちは口をつぐむ事ができる。
☆ ええ。

★ 私が死んでも世界は無関心であるように、
☆ いや 無関心でいなさいと言うのは 酷でしょう。それが 自然です。

★ 他者の死に介入する事はできないのだから。
☆ それは 初めから介入するつもりは ない――と言うべきでしょう。だからって 関心が無いとは言えないはずです。生と同じく 死も 自由のもとにあります。

ひとは 病気では死にません。病いで死ぬのではなく 寿命で死ぬという考え方がありますし 死は――自殺という意味ではなく――自分から死ぬことも出来るし そのときまた生きることも出来るといった生き方が まったくひとの関心を引かないとも限りません。


★ しかも、その存在さえ知りえぬ遥かな他者の死に。
☆ 生命体であることが 共通しています。
 

★ だが、私の孤独が堪え難く、癒しようもないのは、私にとっては世界の中で唯一の代替不能な存在であると共に単独では存在していないからである。
☆ 掛け替えのない存在が 自由で主体性のもとに生きるなら 《独り》であり《孤独》です。しかもこの孤独は 生命体なる存在にとって〔社会性をうんぬんする以前に〕そのままで 孤独は 孤独関係なのです。存在は 関係存在であり存在関係です。

★ (単独で存在する神の絶対的孤独・・・・・)。
☆ 神は ひとり満ち足りている存在でしょう。

★ 私は既に無数に交差する連関の中に置かれている。
この連関のために個人がここに在る事は他者を抑圧し抑圧される関係性から、好むと好まざるとに関わらず、免れていない。
☆ それは まなざしで譬えるとよいと思います。《まなざしを上からそそぐ》側と《そそがれる》側とに ひとの二角関係はどうしても 分かれます。ガミガミ役とアース役とです。

上下関係であっても 自然生成的な親しみのあるまなざし関係であり得るとも付け加えますが。


★ そうであるならば私の立つ位置を確認しつつ他者と共に立つ事で、私の孤独と他者の孤独を連帯に繋げていく事はできるかもしれない。
☆ 何もしない自然のままで 関係は――関係の絶対性というほどに――出来ていますよ。《ひとり(個)》としての自由かつ主体性が立つところに つながりが出来 絆が深まります。

つづく

お礼日時:2021/04/23 05:32

お正月もお盆もクリスマスも結婚式もお葬式も、、全て宗教で神と密接な関わりがあります。

神がいないと言うならお年玉も受け取らず、クリスマスパーティーもせず、お墓にも入らず、死んだら献体するってならわかります。そうでないならご都合主義の無知で不勉強、身勝手な理屈です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ お正月もお盆もクリスマスも結婚式もお葬式も、、全て宗教で神と密接な関わりがあります。
☆ つまりそれは ケとハレに分けて 非日常性のハレのほうで 神ないし信仰にかかわるということでしょうか。

でもね。意識するかどうかにかかわらず ケのほうで・つまり生活日常のほうでこそ 《信じる》は言わばモノを言っているとは思われます。

というのは 《無い神〔を信じる〕》派ならそれとして その信じるが 具体的な思想(≒生活態度)にけっきょく現われてくるはずだからです。




★ 神がいないと言うならお年玉も受け取らず、クリスマスパーティーもせず、お墓にも入らず、死んだら献体するってならわかります。そうでないならご都合主義の無知で不勉強、身勝手な理屈です。
☆ 誤解でしょう。無根拠なる神を信じるという現実があることについて。

お礼日時:2021/04/23 02:20

信じたら、無限の幸せ。

まさに、試練も解決。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 信じたら、無限の幸せ。
☆ 信仰は 主観にあっては おおきなチカラとなります。

つまり:
★ まさに、試練も解決。
☆ というふうに――じっさいには 紆余曲折があるとは思いますが――行くチカラだと思います。


その関連で言えば その原動力が じつは 無根拠である――といったひとつの仮説命題を言おうとしています。

お礼日時:2021/04/22 21:48

神業という言葉が残っているのは誰かが神様を見た名残なのかもしれません。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 神業
☆ これは 表現の問題であって ふつうは《まるで神が成したかのようなすばらしいわざ》という意味でしょう。



★ 神様を見た
☆ という発言についてそれは 主観としての(主観内でのみ)真実だと感じられる事態だと言っています。


誰もその《主観としての事態》を否定することも出来ませんが かと言ってそれが現実であると肯定し証明することも かなわないことなんです。

お礼日時:2021/04/22 20:50

そもそも、神、と言って具体的な名称で表現したした時点で、根拠の有無なんか無関係です。


ない?ものに神なんて具体的な名称、つけようがありません、だってないのだから・・。
仏教?なんかでは「空(くう)」と言っているようです、あるということもなければ、無いということもない、という説明がされていました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ そもそも、神、と言って具体的な名称で表現したした時点で、根拠の有無なんか無関係です。
☆ という見方も ぜんぜんないとは言えませんが やはり《神》は その概念内容もそのままでは定まらず 哲学の用語としてまだ成り立っていません。

必ずしも:
★ 具体的
☆ ではないのです。

根拠の問題にしても まづ――ほんとうは――定義して議論に入るのが のぞましい。



★ ない?ものに神なんて具体的な名称、つけようがありません、だってないのだから・・。
☆ いえ。それはそうとは限らないのです。

《幽霊》とは こころざし半ばであえなくも死を迎えた場合に その人を慕って(あるいは おそれて)遺った人たちが なお意識の中にとどめている・受け容れているとき しばしば名指して使う言葉です。


ですが 《妖精》だとか《天使》は 必ずしも具体的な中身があるとは限りません。ですが イメージをともなって そういう言葉で言い慣わしています。根拠がなくても 名のある場合は あります。




★ 仏教?なんかでは「空(くう)」と言っているようです、あるということもなければ、無いということもない、という説明がされていました。
☆ そうですね。

げんみつに言えば 《シューニャター(からっぽ⇒空)》というのは 諸行無常と言っているんではないでしょうか。

現実に存在しているものも うつろいゆかざるを得ないのであって あくまで仮りに存在しているに過ぎないのだと。

ただし その仮りのものであっても 仮象としては現実であるとも つけ添えているはずです。

お礼日時:2021/04/22 19:16

根拠を求める人も居たり


根拠を求めない人も居てる

根拠を求めるようになったから
根拠が必要になってしまって

根拠てなことすら、そもそも論外てのが
無根拠の根拠ですもんね

でね

どの立場であっても
同じ人間であるのが、好奇心を揺さぶるんですよね

確かにtanzouさんの説明は
いつもながらの切れ味ですもんね
(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

★ 根拠を求める人も居たり
根拠を求めない人も居てる
☆ つまり 人知で求めた根拠は あくまで仮りの推測によるものであるという前提で 根拠を欲しがるようです。


★ 根拠を求めるようになったから
根拠が必要になってしまって
☆ それは ダメです。あくまで仮りのヒントが得たいというに過ぎません。


★ 根拠てなことすら、そもそも論外てのが
無根拠の根拠ですもんね
☆ そのとおりです。

(唯一の但し書きは あくまで主観としての神観 これは 自由だとされています。他人(ひと)に吹聴するなら 独り善がりになるしろものですが 主観にとっての何がしかの真実を捉えているのかも分かりません)。



★ ~~~
でね

どの立場であっても
同じ人間であるのが、好奇心を揺さぶるんですよね

確かにtanzouさんの説明は
いつもながらの切れ味ですもんね
(  ̄▽ ̄)にっこり
~~~
☆ つまり あくまで仮りの主観にとどまる神観であっても ほかの人にとっても それ いいぢゃないかと言って 賛同する人がいることがあり得ます。

共同主観に成り得る神観は 哲学としての神論であり みなが参考にします。

お礼日時:2021/04/22 19:03

余談



bragelloneさんの見識なら

人が神に根拠を求める行為から
何かしらの解を出せるのではないでしょうか?

解を出したくないなら仕方ないけど

逆説を精査するのは、bragelloneさん的には邪道ですか?

オシエテヾ(・ε・。)
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この回答へのお礼

だいたい 分かるのではないかと思っていました。

では 回答しようかと思います。

お礼日時:2021/04/22 15:24

あちらの回答は、根拠を求める方の回答ですよ!


(  ̄▽ ̄)にっこり

こちらは、根拠を求めない方の回答ですね
あちこちに出没してるけど、他意はないので御容赦くださいね

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

★ ~~~
神様に根拠があれば、ニャンポコリンさんの仰有るよくに敬虔な信仰が持たれて

神様に根拠がなければ、神様以外で根拠が持てそうな物を探しますね
~~~
☆ これは 間違いですね。

なぜなら 《根拠がある》と知ったなら 人知がおよんでいることを意味します。


しかるに 神は人知を超えています。

お礼日時:2021/04/22 15:23

コロナ



心炉那

こう当て字というか翻字しては

ワクチンは涌苦鎮

光は日狩理
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この回答へのお礼

いつだったか その種の漢字への翻字を知ったおぼえがあります。


効用をさらに説明されるとよいかも知れないですね。

お礼日時:2021/04/22 14:15

森羅万象あるいは形身という漢字用語(熟語)で


カミと読ませる説があるのを知りませんか。
意味で読むということで、
意読というべきですか。
翻刻・翻字・翻読。

女と書いてヒトと読ませるとか、

要は意味から、読みを連想させるのですね。

光透波と書いて
コトバとかね。
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この回答へのお礼

先に№22のほうにお応えしてしまいました。


だいたい同じ内容でしょうか。

読みの翻訳としてもあるようですが。

お礼日時:2021/04/22 14:17

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