A 回答 (12件中1~10件)
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No.12
- 回答日時:
「私は私の世界である」…。
私というものは私という閉じられた一つの系。
という風に解釈してみます。
私というものを静的なものとすればそれでいいと思いますが、
現実には私というものは
動的な環境と動的にタイアップして時間軸を先へと進行しています。
その過程において遭遇する環境からのきっかけは自分とは異なる軸を持っていて
純粋な私とは異質の接点を持って揺らぐという意味で必然的に
閉じられた系としては存在していません。
その際の認識までは閉じられた系として
そのきっかけを判断した結果は
静的に閉じられた系を超える
(判断は環境と私の相互作用)
というように解釈するのが妥当なのではないでしょうか。
No.11
- 回答日時:
実在論(唯物論)、唯我論、観念論などは視点がどこにあるかのお話しで、並列しているので議論しても無駄。
ウィトゲンシュタインを真面目に読んだことはないのですが、この言葉はショーペンハウアーの「意思と表象としての世界」で論じられた、実存主義とそっくりだ。なおショーペンハウアーのニヒリズムを虚無主義と訳すのは完全に間違いで、実存主義の先駆というのが正しい、ニーチェはショーペンハウアーの考え方を批判的に取り込んで実存主義を打ち立てた。
No.8
- 回答日時:
あまがっぱさん こんにちは。
と この場を拝借します。◆(A№6) 他者は他者の世界でありますから、私の世界の「中」ではなく、
私の世界の「外」に存在しますでしょう。
☆ ううーむ。独我論〔と見なしてですが〕から見て それについては次の答え
が用意されると思います。:
(う) ひとはそれぞれ互いに交じわらない《私の世界》を持っている。よっ
て 他者( M )の《私の世界 Wm 》は 私(A)の《私の世界 Wa 》の中
にないのは当然であり また かと言ってその外にあるというのでもない。
(え) 言いかえると 他者またはその世界( Wm )は その他者の存在に
ついての視像などの記憶としては わが世界( Wa )の中にある。その意味
では 《独我論 = 実在論》である。
(お) けれども このようなわが世界( Wa )は 言わばすでにそれ自体
で完結しているので その《外》という概念が無い。
◆ (か) 他者(の世界)から不可侵であることによる私(の世界)と、他者(の
世界)との差異に触れ変換する要素を持つ私(の世界)とで、(き) 「私」は社
会的に「私」だという状態にあることができる。
☆ ――じつは ヰトゲンシュタインについては 途中でほっぽり出した過去が
あると白状しておいたほうがよいかも知れませんが―― 要するに他者の世界
( Wm )は わが世界( Wa )にとって何であるかが分からない現象としてあ
るということではないでしょうか。
(か)は そのまま見解を同じくします。(き)は 《社会的に》という条件づ
けがどうであるかが 気にかかります。
ただ単に《いくつかの〈私の世界 Wi 〉がある》という意味での――つまり(う)
の意味での――《社会的に》であれば やはり同意します。(独我論の場合には
そうだという意味でしかありませんが)。
したがって 互いの世界が 存在としてのマジハリを持つというなら そうは言
っていないのではないかと考えます。
◆ 欧米の学校の苛め問題などの熾烈さは日本の比ではありません。
☆ そうなんですか。テレビのドキュメンタリで見たことはありましたが そこ
までのひどさだとは受け留めていませんでした。
◆ あそこで、I am my world. という言葉は髪の毛一本他人の自由にはさせな
いという気持ちが滲み出るわけです。「共生する私たち」には行動へのパースペ
クティブがそれぞれに求められているのであって、まあ、風景となる際の図法で
すが、パースペクティブは誰かに描いてもらうものではない、ということです。
☆ ふむ。なるほど。日本の実状とは違うかも知れません。日本では もう少し
陰湿であるのかも分かりません。混沌としているのかも分かりません。
ただ そうですね もし《髪の毛一本他人の自由にはさせないという気持ち》を
他人に対して何はともあれ自己表現したとするならそれは 《わが世界》どうし
のマジハリが多少なりとも出来かかっているのではないか。とも感じました。
その点では 《あかるい》。
◆ I am my world. は確かに自我と呼ばれてきたものを、尺を変え発展性を変
えて捉えなおしていると思います。
☆ なるほど。ということは そのとおりであるかも知れないと思うと同時に
わたしはいつも《自我》という言葉を耳にすると思うことがあります。《わたし》
を言いかえてしまって すでにそれだけで《わたし》を分裂させている。《自我》
の部分と《それ以外のわたし》の部分とに分けているのではないかと。
ただし 欧米の社会では 事情が違うかも分かりません。
◆ 対立、説得、交渉、妥協、論理、強請、奪取、拒絶、譲歩、、。多様な変化
を受け入れる容器としてのありようになると思います。
☆ ということは これらのマジハリを 生まれつきの自然本性たるわたしとし
てではなく そのあたかも代理人として《自我なら自我 としてのわたし》が受
け持つようになっている。と。
つまり ふつうなら《わたしがわたしであるわたし》が カカハリを持つし実際
にマジハリをもおこなうのですが その交渉者には自我なら自我という別のウツ
ハ(器)を作り出して来たのが 現代人であると。
◆ 現実に、非常に違うパースペクティブを引いていると言えるのが、宗教の違
う人間同士で、それはスンニ派とシーア派であったり、また、現代宗教であるマ
スコミ盲信や拝金主義に端を発する情報操作がもたらすものも同じでしょう。人
間社会の行方はどっちを見ても芳しくありません。世界は共生できるのでしょう
かねえ。
☆ まぁ 宗教と言ってもそのオシへも〔いくらかは神秘思想を容れた〕ふつう
の経験思想ですから・そしてそれは 一般に生活態度のことですから いま見て
きた議論と同じ論理のもとにあると言っていいでしょうか。
あるいはそれとも 《わたし A 》の代わりに持ち出した《自我なるわたし A1 》
でももうマジハリのウツハとしては効かず さらに《宗教人ないし信徒としての
わたし A2 》を言わば楯として《他者の世界 Wm 》との交渉に当たっているの
でしょうか。
それにしても クリスマスツリーはそのカザリがますます増えてにぎやかになっ
て来ているのでしょうか。
《神は死んだ》と言ってよろこんでみたり いやいや また出番ですよと言って
よみがえらせて来たり。いやはや。
樅の木にとどまれ。とわたしは言い続けているのですが。
それが 独我論になってもらっては困りますが。
No.6
- 回答日時:
5のご回答の最初の6行に関してです。
ブラジュロンヌさんこんにちはと言いつつ。
他者は他者の世界でありますから、私の世界の「中」ではなく、私の世界の「外」に存在しますでしょう。
他者(の世界)から不可侵であることによる私(の世界)と、他者(の世界)との差異に触れ変換する要素を持つ私(の世界)とで、「私」は社会的に「私」だという状態にあることができる。
欧米の学校の苛め問題などの熾烈さは日本の比ではありません。まあそこで、I am my world. という言葉は髪の毛一本他人の自由にはさせないという気持ちが滲み出るわけです。「共生する私たち」には行動へのパースペクティブがそれぞれに求められているのであって、まあ、風景となる際の図法ですが、パースペクティブは誰かに描いてもらうものではない、ということです。
I am my world. は確かに自我と呼ばれてきたものを、尺を変え発展性を変えて捉えなおしていると思います。対立、説得、交渉、妥協、論理、強請、奪取、拒絶、譲歩、、。多様な変化を受け入れる容器としてのありようになると思います。
現実に、非常に違うパースペクティブを引いていると言えるのが、宗教の違う人間同士で、それはスンニ派とシーア派であったり、また、現代宗教であるマスコミ盲信や拝金主義に端を発する情報操作がもたらすものも同じでしょう。人間社会の行方はどっちを見ても芳しくありません。世界は共生できるのでしょうかねえ。
No.5
- 回答日時:
№3です。
もし
▲ 「私は私の世界である」
☆ が独我論でないならば:
(あ) その《私の世界》の中に《他者》が《私》と同じように存在する。
ということが含まれなければなりません。
★(№3補足欄) 独我論と実在論は一致するのです。
☆ というのは あくまであたまの中の《表象》の世界としてに限られるよ
うなのです。
言いかえると先ほどの(あ)なる命題と突き合わせるなら:
(い) 私の表象している《私の世界》の中に 私の会ったことのある誰
々さんのことが映っているけれども その誰々さんは 私が存在するよう
には存在していないのであって ただの表象としての誰々さんであるしか
ない。
となっているはずです。私なる自己と同じ存在である他者としてではないわ
けです。
そういう(い)なることを考えるのは自由ですが いちいち思想として発表
することはないと思われます。
発表するのなら 誰々さんと私とは互いに社会を生きる――自由意志にもと
づく限りは互いに独立してしかも関係し合う――存在であるという前提が
つねに先立ちます。
★(補足欄) 会話が成り立つか成り立たないか
☆ の問題では必ずしもなく 存在が互いに同等であるかどうかという社会
共生性の問題です。
No.4
- 回答日時:
批判する理由を持っている人なら批判もするでしょうが、
批判する理由が見当たらないというところだと思います。
つまり行為できるかどうか以前に、行為の必要性や動機が成立する場や力学をよくとらえるべきでしょう。
ところで私の子供はたいへん独特なので、ヴィトゲンちゃんと呼ぶことがあります。4~5歳の頃には、「世界はあなただけの世界ではない」とよく言い聞かせていました。
自己は外堀に囲まれるように自己の領域を一種の様式の集合として保持するものだと思います。
外へ意識を向け、他者に他者の世界があることと折り合いを付ける間主観によるほかに、自己の世界を拡げる方法はありません。拡げるというのは、変化をつけること、入れ替えや建て直しを行うこと、様式の棄却や獲得をたえず繰り返すことによって、迂回路を生い茂らせることです。
現代哲学は、「私」を二元論的な構図に押し込めることをやめて、行動へのパースペクティブという形骸めいたありようを受け容れるところから始まります。さらにそのパースペクティブを引く意志や動機が、可変的でありつつ認知の同一性を保ち主体性を持つことに着目して、現在の心理学や社会哲学は現実問題の解決を目指します。こうしたなかで、かつて精神の足枷のように見なされていた「身体」は、意志や動機、環境や条件と行動とをつなぎ、諸要素の集合をではなく諸要素の作用を全体とする重要な「私」のシステムであるという前提に変わってきました。
ヴィトゲンシュタインより5歳若い、グレゴリー・ベイトソンという文化人類学者がいますが、どちらも、それ以前の古い精神論で読み解かれがちです。しかし、むしろ機能論として、そこから、それによって、まったく違う角度で世界の諸々の関係、差異とか決定とかの動的な全体性を見よという示唆を与えています。質問者さんも、「私は私の世界である」をもう一度、先入観なしに考えてみてはいかがですか。デカルト批判でありこそすれ、独我論ではないはずです。
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因みにウィトゲンシュタインの「私は私の世界である」は独我論とは全く違う立場になります。
そもそもウィトゲンシュタインは「私の世界」など一言も言ってません。
会話が成り立つか成り立たないかは大した問題ではありません。
故に独我論と実在論は一致するのです。