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6輪のF1カーはなぜ消えた?
確かタイレルフォードだったと思いますが、昔、前輪が小さなタイヤ4つで計6輪のF1カーがあったと思います。なかなかカッコよく、空力特性も良さそうだなと思っていたのですが、すぐに見かけなくなりました。
何か致命的な欠点でもあったのでしょうか?

A 回答 (3件)

1976~77年のタイレルP34、通称『6輪タイレル』のことですね。



 単に『タイヤは4本まで』というレギュレーションが出来て消えました。
 実際のところ6輪車はあまりよいクルマではなく、他チームは追従する気がありませんでした。足を引っ張られたワケではありません。

※6輪車は、設計者のデレク・ガードナーによると『空気抵抗減少』を目的の一つとしていましたが、空気抵抗はCD(空気抵抗係数)と前面投影面積で決まります。
 後輪が極端に大きかった当時のF1では、前輪を小さくしても前面投影面積には影響がなく、思ったほど空気抵抗は減りませんでした。(1976年の富士スピードウェイでは、当時トップスピードが最も速かったフェラーリ312T2に対して、5~7㎞/h劣りました。この程度の差であれば、他のチームとそれほど変わりません。)

※前輪が4本だと、操縦性に問題がありました。
 大きな原因は2つあって、まず1輪当たりの接地荷重が減ることが一つ。
 接地荷重を上げタイヤの表面温度を一気に上げないと摩擦力が出ないスリックタイヤの構造では、接地荷重を減らしてよいことはありません。(その為1977年モデルでは、オイルクーラーをノーズに移して前輪荷重を増やす改造が施されています。)
 もう一つはエアボリュームが減ったこと。
 タイヤ全体の空気容量が減ったため、スリックタイヤに必要なトレッド面の発熱に対して内部温度の変動が激しく、当時の2時間に及ぶ長丁場のレースで耐えられませんでした。(当時のF1では、クルマのハブ周りの構造によりタイヤ交換に8秒以上かかり、レース中にはタイヤ交換しないのが『鉄則』でした。)
 このタイヤ劣化に関して、1977年のファースト・ドライバー、ロニー・ピーターソンは、『レース終盤で前輪がグリップしなくなり極端なアンダーステアになるので、レース序盤のガソリンが重い状態(当時は150リッター以上のガソリンを積んでスタートしました)で強いオーバーステアにセッティングしておくしかなく、非常に乗り難い』と不満を述べていました。

※タイヤが『1レース持たない』ことに関しては、タイヤ側の開発の余地がまだありましたが、当時のタイヤサプライヤーであるグッドイヤー社は、6輪車用の特殊サイズのタイヤの開発を拒否、1977年シーズン最初に『今後はタイレル用前輪の開発を行わない』と宣言し、他のチームが同様の6輪車を作らない様けん制しました。
 実はこのグッドイヤー社の『開発拒否』がイチバン影響が大きく、これにより事実上6輪車の息の根は止められたと言えます。

※実のところ。
 それでも、P34最初の年である1976年は、グッドイヤー社がタイヤの開発に尽力したこともあり、結構うまく6輪システムが機能しました。(この年、結局年間タイトルは取れませんでしたが、タイトルを狙える位置にあったのは確かです。)
 しかしエンジンの馬力が上がり(フォード・コスワースDFVエンジンのチューナーの1社ニコルソン社が、20馬力以上もアップしたDFVの販売を始めました)、グッドイヤーがタイヤの開発を止めた1977年になると、途端に周りのチームのスピードUPに追い付かなくなりました。
 またこの年雇ったロニー・ピーターソンも、6輪車と合わなかったということもあったでしょう。
 ロニーは、スリックタイヤとウイングが付いてからのF1で『史上最高のドリフトドライバー』とされ、彼のコーナリングは『オポジットロック(フルカウンターのこと)』『サイドウェイ(カニ走りのこと)』などとも言われました。
 彼は以前、あまりに激しい走りの為に『クラッシュしていないのに』クルマを壊したことがあるほどの運転を身上としており、それで寿命が短い小径前輪タイヤの問題が顕在化した、ということもあったと思います。
 絶対に逆ハンを切らずスリックタイヤの利点を最大限引き出す、『オン・ザ・レール』と称されたマリオ・アンドレッティや、マシンの変化を察知して走りを変えるニキ・ラウダなら、或いはもう少し6輪車を生かせたかもしれません。

※上述した様に、空力を考えるなら前輪よりも後輪を小さくしなければなりません。
 1976~78年にかけて6輪車をテストしたマーチ、フェラーリ、ウィリアムズはいずれも後輪を4輪にして小径化し(マーチとウイリアムズは後2軸の4輪、フェラーリはトラックの様なダブルタイヤでした)、しかしテストの結果空力の改善よりも車重の増加とハンドリンの悪化が深刻で、実戦での使用を断念しました。

・・・結局のところ6輪車は、F1で最も重要な『ハンドリング』面での問題が多過ぎた、ということです。
 タイレルのデザイナー、デレク・ガードナーは、純粋な機械設計の部分では特殊な才能を見せましたが(セミインボードブレーキや、空気抵抗が極端に小さいスポーツカーノーズなど)、ハンドリングの専門家とは言い難く、前輪を4輪としたことによる問題を予測し切れなかったと思われます。(実際、当時のF1でハンドリング技術に特に長けたロータスのコーリン・チャップマンやレン・テリー、マクラーレンのゴードン・コパックなどは、6輪車を真剣に検討することはありませんでした。)

 タイレルチーム設立以来マシンを設計し続け、あのジャッキー・スチュワートに大記録を打ち立てさせたデレク・ガードナーは、P34失敗後F1のデザインから引退し、タイレルは『外のデザイナー』を雇う様になって低迷が始まります。(ガードナーさんは、F1引退後アメリカの変速機会社ボルグ・ワーナー社の研究所に転職します。元々ガードナーさんは、1960年代にファーガソン社でF1用4WDトランスファを作ったヒトで、本職は『駆動設計屋』でした。尚、この4WDシステムはロータス、マトラ、マクラーレン、コスワースなどが実験的に使用しました。)
 P34は、タイレルが『年間タイトルが狙えるトップチームだった時代の最後のマシン(1976年)』であり、『チームの低迷を作った最初のマシン(1977年)』だったと言えるでしょう。

 ところで余談ですが。

 1977年まで開催されていたF1日本グランプリが開催されなくなった理由も、P34が関係しています。
 富士スピードウェイの1コーナーで、ピーターソンのP34の後輪に乗り上げたジル・ビルヌーブのフェラーリ312T2が1コーナーの外に飛び出し、観客を跳ね飛ばして死者が出ました。
 この後ホンダが介在するまで、日本でのF1開催は長らく絶望的となったワケで、その片棒を担いだのはタイレルP34だった、ということです。(後にロニー・ピーターソンもジル・ビルヌーブも、F1レースで命を落としました。『フジの怨念』などと言うヤカラもいましたが、レースって、今よりずっと危険な『興行』だったんですね。)
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この回答へのお礼

文句なしの名回答です。ありがとうございました!

お礼日時:2021/08/05 12:03

他チームから文句が出て、レギュレーション変更で4輪車以外禁止されました。

足を引っ張られたんですね。

マーチも6輪車作りましたが、上記ののレギュレーション変更で出場はできませんでした。
https://www.webcartop.jp/2016/10/50583/2/

ブラバムのファン・カー(車体下の空気をファンで吸い込んでダウンフォースの足しにする)BT46Bなんかも禁止されています。
https://jp.motorsport.com/f1/news/banned-brabham …
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タイヤが増える=走行抵抗が増える



よう知らんけど
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