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「中世の高野山を構成したが学侶、行人、聖について、」という説明な中で、
行人とは、僧兵を意味しますか?

A 回答 (5件)

https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%87%8E%E8%A …
高野山にあって、封祿・出納などの事務をつかさどったもの。高野三方の一つで、学侶方・聖方と区別して行人方という。行人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E …
高野三方(こうやさんかた)は、平安時代から江戸時代まで高野山を構成した、学侶方・行人方・聖方による三派の総称[1]。
学侶方 ⇒ 学侶方は、密教に関する学問の研究・祈祷を行った集団。代表寺院は、青巌寺であった。

行人方 ⇒ 行人方は、寺院の管理・法会といった実務を行った集団。また、僧兵としての役割も担った。代表寺院は、興山寺であった。

聖方  ⇒ 聖方は、全国を行脚して高野山に対する信仰・勧進を行った集団。また、高野山への納骨・納髪を勧めた。全国各地に伝わる空海による開湯・開山の伝説を生む要因となった。代表寺院は、大徳院であった。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
<行人方は、寺院の管理・法会といった実務を行った集団。また、僧兵としての役割も担った。>ですね。
僧兵も役割のなかにあったのですね。

お礼日時:2022/08/04 13:31

ついでに、


https://kotobank.jp/word/%E5%83%A7%E5%85%B5-8967 …
世界大百科事典 第2版「僧兵」の解説
そうへい【僧兵】
古代・中世における武装した僧侶の称。ただし当時の史料には〈僧兵〉の語は見いだしがたく,近世における造語と考えられる。そこで〈僧兵〉を古代・中世の歴史的用語とすることはできないが,史料上に〈悪僧〉〈法師武者〉と現れ,寺院社会内の公認の下に,時に臨み武装して社会的影響力を及ぼした僧侶集団を〈僧兵〉と呼ぶ。 畿内・近国諸寺院の僧兵のありさまは,《平家物語》をはじめ軍記物に生き生きと描き出され,また鎧に法衣をまとい,袈裟で頭を裹(つつ)む僧兵の姿は,《天狗草子》等の絵巻物に見られよう。

平家物語に「鎧に法衣をまとい,袈裟で頭を裹む」は出てこないし、
教科書などに掲載されている天狗草紙絵巻模本は19世紀に作られたもので、古代・中世における武装した僧侶がいたのか、不明です。
興福寺の僧兵はとても有名です。 園城寺、延暦寺も同様です。
ただ、貴族、院の側にとって、強訴されることが問題であって、実態はたぶん不明です。山法師、山衆は、「山=寺」が雇い入れた雑用担当・荘園支配にときによって必要な強制執行実動要員なのでしょう。 
だから、「兵・僧兵」という意識は、当時の人々にはない。
ちなみに、武蔵坊弁慶の姿も、後代の想像の産物です。
「「中世の高野山を構成したが学侶、行人、聖」の回答画像5
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2022/08/05 08:49

> <行人方は、寺院の管理・法会といった実務を行った集団。

また、僧兵としての役割も担った。>ですね。
> 僧兵も役割のなかにあったのですね。

wikipediaの高野三方の説明文にはそのように書いてあります。
ですが、「僧兵」というのは、他称です。山の側(高野山の真言宗の寺側)の認識には僧兵はなかったし、そのような役割を担当させたということはないのではないかと思います。
park123さんは、回答に対し「 <~~>ですね。 」との礼文を書くことが多いように思うのですが、マナーとして礼文を書くのはともかく、元の疑問に対しての理解のようなものは、前進できているのでしょうか。
ちょっとの手間で、ネット上だけでも結構分かることは、自分でも調べた方が、記憶に残るし、納得したような気持も起きるので、その方がイイと思います。

ところで、
wikipediaに次の説明があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E4%BA%BA …
  ~~~~ まるまる引用 ~~~~
行人(ぎょうにん)とは、古代・中世日本の寺院内における僧侶の身分の1つ。高野山金剛峯寺において行人方(ぎょうにんがた)・総分(そうぶん)として呼ばれるものも同義である。

概要
本来は修行者の意味があり、山伏などの修験者も含まれているが、寺院内部においては施設の管理や花・灯りの準備、炊事・給仕など専ら世俗的あるいは実務的な業務にあたる身分を指した。また、行人の中には実務の一環として寺領からの年貢徴収や寺院の警備にあたるものもおり、その中から僧兵などの武装をする者も現れるようになった。 学侶・堂衆(延暦寺では行人と同一視されている)などとともに大衆を構成したが、学侶よりも下の身分とみなされて、ときには双方の間で内部対立を起こすこともあった。

金剛峯寺では、宝徳2年(1450年)に学侶(学侶方)・行人(行人方)間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こし、一時木食応其や徳川家康の尽力で和議も行われたものの長続きせず、以後も250年にわたって両者の対立が続き、元禄2年(1689年)と享保元年(1716年)に江戸幕府によって行人に対する弾圧が行われている。明治維新以後、行人・行人方は解体されることになった。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「宝徳2年に学侶方・行人方間で1,000人もの死傷者を出す衝突を起こし、一時木食応其や徳川家康の尽力で和議も行われた」の記載部分ですが、(一時木食応其や徳川家康の尽力で和議も行われた)というのはいつ頃のことでしょう。
宝徳2年に学侶方・行人方間で1,000人もの死傷者を出す衝突って本当にあったのでしょうか。
永享5年の髙野動乱って結構有名です。
https://honto.jp/netstore/pd-contents_0603437181 …
https://core.ac.uk/download/pdf/35266851.pdf
正保3年(1646年)の「高野山全図」「絵図之帳」と、鎌倉時代の様子の違いを説明し、行人に詳しく触れてる中でも、「僧兵」を思わせる記載もないです。
「「中世の高野山を構成したが学侶、行人、聖」の回答画像4
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2022/08/05 08:49

お礼をいただきまして、ありがとうございます。



><修行僧>は、学侶の方でなく、行人の方なのですか。
はい。
学侶とは仏法の研究者を意味し、加えて聖は寺院を離れ村や町へ仏法を説き巡る遊行僧を意味します。行人とは、苦行する僧を意味します。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
<侶とは仏法の研究者>
<聖は寺院を離れ村や町へ仏法を説き巡る遊行僧>
そして<行人とは、苦行する僧>なのですね。
「中世は」は、とくに意味がないのですね。

お礼日時:2022/08/04 13:28

いいえ、修行僧のことです。

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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<修行僧>は、学侶の方でなく、行人の方なのですか。

お礼日時:2022/08/03 10:36

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