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古墳時代、難波の住之江あたりにまで唐の船が来たら、四天王寺が見えるようにできていた、そうです。
古墳も同じようなものがあったそうですが、
その見える(見せる)古墳はなんでしょうか?

A 回答 (5件)

仁徳天皇陵(伝天皇名で書きます)だけでなく他の2つも考慮に入れた方がいいでしょう。

時代背景とかいろいろ気になる所があって調べ直しているのですが、あまり進展していません。回答の締め切りまでには間に合いそうもありませんから以後は補足は付けられないと思います。
 住之江からどのように見えたのかが気になる所の一つです。住吉津(すみのえつ)が現在の住吉大社のあたりとされているみたいなので、そこからのようすを考えてみます。この場所は、古墳から真北にあります。古墳は南北に長いので思ったよりは迫力がなさそうです。住吉津に向けて作られたものではなさそうです。カシミール3Dというソフトで山の見え方が確認できるのでやってみました。描かれた図を添付します。
 135mmの望遠レンズで写した写真と同じになるように出力しています。図の横幅は前に出した握り拳の大きさくらいの範囲になります。これだと、何かあるなというくらいの感じでしょう。古墳の向きが近づいてくる船を想定しているようにも見えますが距離が遠くなる分さらに小さく見えますからどれほど効果があったのかよくわかりません。反正天皇陵が書かれていませんが、仁徳天皇陵の手前側の斜面上に小さく見えていたはずです。
 港から都まではまっすぐ西に進んでいけばいいので、これだと古墳から遠ざかっていく一方です。河内付近が湿地帯になっていたようなので、これを南に迂回するとなると少しは古墳に近づいたかも知れません。でも、3つの古墳がアピールするには弱そうです。
 渡来者がさらに進んで行くと古市古墳群の真ん中を通ります。百舌鳥古墳群よりたくさんの古墳がありますし、かなり大きなものもたくさんありますから、こちら方がアピール力は大きいような気がします。見せるという意味ではこちらにある古墳(応神天皇陵とか)を挙げた方がよさそうです。船からは見えないというのが難点になります。
「古墳時代、難波の住之江あたりにまで唐の船」の回答画像5
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
深く研究されていますと、おいそれと断定でないのですね。
(どの分野もそうなのでしょうが)

お礼日時:2022/09/04 15:50

古墳時代に渡来人がやってきた時に見られた景色の復元図を見たことがあります。

探してみたのですが見つけることはできませんでした。
 まず、どの古墳が見えたのかという問題ですが、大仙古墳(伝仁徳天皇陵)は間違いないでしょう。これは、百舌鳥古墳群に属していますから、一つだけということではなかったでしょう。当時に比べて高い建物がたくさん建っていますから見通すことはできませんが、高い所からのようすが堺市役所展望ロビーのページに載せられていますから確認してみてください。見下ろす感じになっていますが、少ししたから見ていると想像してみるのがいいでしょう。
展望ロビー:https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/73
切る変わる3枚の写真の1枚目です。中央より左側の小高い森が大仙古墳、右側に、上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)が見えます。これより左に離れた所には田出井山古墳(伝反正天皇 百舌鳥耳原北陵)もあります。この3つがセットになって見えていたようです。
 古墳がどのように見えていたのかということについては、神戸市垂水区の五色塚古墳が参考になるかと思います。条件的には百舌鳥古墳群の立地条件と似ています。当時の状態で復元されています。どのような感じで見えていたかの参考になるかと思われます。比較的きれいに写っているものをグーグルマップにアップされている中で1枚見つけました。
グーグルマップの写真:https://www.google.co.jp/maps/place/SPA%E5%B0%82 …
 左側が前方部になり上部に円筒埴輪が並んでいます。右側が後円部になっていいます。前方部の向こう側なので低く写っています。

 解答はここまででじゅうぶんと思われますが、補足しておきたいこともあります。続けさせてもらいます。ただし、歴史については素人なので誤認してる所もあるかと知れません、その上でお読みください。
 質問では「古墳時代……唐の船が……四天王寺が見えた」と書かれています。四天王寺は聖徳太子(厩の皇子といった方がいいのかな)の建立とされています。そこで、時代的として結びつくのは飛鳥時代です。一応古墳時代に含められていますので問題にするほどのことではありませんが、古墳そのものは衰退し仏教関係の施設に移り変わっていった時代です。聖徳太子自身も古墳に入っていますから、古墳時代ではないといいきることもはばかられます。
 聖徳太子で連想するのが遣隋使です。ということで当時はまだ唐の時代になっていません。7世紀中頃になってからではなかったかと思います。つまり、古墳時代と唐はわずかに重なっているだけです。質問の主旨はこの時代に限ったことと断定しているものと解釈させていただきます。
 ところで、大仙古墳に埋葬されているとされている仁徳天皇は宋書に記述のある倭の五王の内の讃に対応できるという考えもあります。ほぼこの時代であることは間違いないでしょう。
 これからすると、大仙古墳の作られた頃は宗と交易があったことになります。その後中国は戦乱の時代に入り長年にわたって交易が途絶えて、復活するのが遣隋使の時代ということになります。
 一つ気になるのは、この間に古墳群の古墳がそのままで維持されていたのでしょうか。大仙古墳だけでも膨大な経費がかかりそうです。それがたくさんあります。交易のシンボルという位置づけもなくなれば、うち捨てられたということも起こっていたかも知れません。つまり、唐の船がやってきた頃には今見るように大きな森といったようになっていた事起こっていたかも知れません。このあたりのところは専門家に聞いてみた方がよさそうです。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうござます。
<大仙古墳(伝仁徳天皇陵)は間違いない>ですね。

<今見るように大きな森といったようになっていた>こともあり得るのですね。」

お礼日時:2022/09/03 07:51
「古墳時代、難波の住之江あたりにまで唐の船」の回答画像3
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございます。
仁徳天皇陵なのですね。

お礼日時:2022/08/31 16:22

古墳時代という年代を考えると、現代の私たちが考える住之江区は無くて海だったはずです。

 

現在の位置に四天王寺があったとしたら上町台地の高い位置なので、海面から見えるのは間違いないと思います。

大山古墳も高さがわずか40メートルほどですが、当時は海岸に近い位置にあったので船から見えたか可能性は高いですね。

ちなみに天王寺に行く機会があったら、四天王寺から逢坂を下ってみてください

今では信じられない光景ですが、古墳時代は逢坂を下りきった辺りが海岸線だったそうです
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<大山古墳>なのですね。

お礼日時:2022/08/31 16:08

大仙古墳でしょう。

住之江から5、6キロメートルなら良く見えたでしょう。他に巨大古墳はみあたりません。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
<大仙古墳でしょう。住之江から5、6キロメートルなら良く見えた>のですね。

お礼日時:2022/08/30 13:32

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