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はじめまして!!!kyanmuriです。
今中学一年生です。
もうテスト二日前なんですが、
倭王武って誰ですか???
あと倭王武の手紙って倭に対しての手紙だったのですか?
文章わかりずらくてごめんなさい。
全てがわからないので簡単にお願いします。

A 回答 (7件)

「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王です。


「倭の五王」の在位年と『日本書紀』での各天皇の在位年とが全く合わない。また、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など1字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しない、中国側が勝手に東夷の王に中国風の名を付けることなども例が無く考えられないので、「倭の五王」はヤマト王権の大王ではない。
畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しつつ同時にこのような大規模な土木事業を多数行うことは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造ったのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったと見られる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。
『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=中国・四国・畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E% …
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!!!kyanmuriさんごめんなさい。


462年は「倭王興立つ」とされている年でした。
ringouriさん訂正ありがとうございます。何しろ目も見にくくなっている老人なものですから、年表を見間違えました。
!!!kyanmuriさんしっかり勉強して下さい。決してムダになる勉強はないと思います。
蛇足
私も歴史は大好きですよ。こいつらアホや、とは今でも思っていますが...
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試験には「倭王武=雄略天皇」と書かないと間違いにされます。


倭王武の上表文(手紙のこと、国書)は(南朝劉)宋の順帝に宛てたものです。(昇明2年/478年、『宋書』夷蛮傳)

【以下、蛇足】
本当は、倭王武は雄略天皇ではありえず、それをほのめかす史料さえも残ってはいません。政治的に大和朝廷は北朝との関係を重要視していたので、南朝に上表文を送ることは非常に考えにくいのです。

では、なぜ「倭王武=雄略天皇」という説が認められているのか、というと、中国の史書に「倭王」とあると、大和朝廷の天皇の誰かにあてはめる、という(根拠のない)論理が、大前提として存在しているからです。つまり、倭王は本当に大和朝廷の天皇を指すのか?という検討をせずに、昔の偉い人の説を多くの人達が(プロも含めて)鵜呑みにしているからです。....少し史料に記載している事実を真剣に検討してみれば、上記のような前提が、まったく根拠のないものだと分かります。

古代史は面白いです。でも試験には、最初に記したように、通説を書くことをお薦めします。
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 棺桶に片足突っ込んでいる老人です。


 倭王武の上表文のことでしたら、西暦462年南朝宋への上表文ですから、宋に出した手紙ということになるのではないでしょうか?
 倭王武が誰かと言うことになると諸説紛々で不明というのが正確ではないでしょうか?
 私は50年ばかり前、倭の五王のところで、「こいつら(歴史学者)アホや!」と思った事があります。試験には出ないとおもいますよ...。
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再び連続投稿すみません。



調べてみましたところ、雄略天皇が上表文を記した事は残っていますが、呈したという事実は残っていないそうです。つまり、どこに宛てたのかの以前に、献上したのか否かすらはっきりしていないという事です。
曖昧な歴史はテストには出ないでしょうから大丈夫だと思いますよ。
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連続投稿失礼致します。



手紙とは、倭王武の上表文の事でしょうか?
上表文は、対朝鮮半島の外交を有利にするため宋の皇帝の権利を借りて記されたものだと考えられているのだそうです。
権利を借りて有利に運ぶため、というくらいなので、詳しくはわかりませんが、外交相手である朝鮮半島へ宛てられたものなのではないでしょうか。
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倭王武とは、雄略天皇のことでしょう。


『宋書』倭国伝に記載されている、讃・珍・済・興・武の武に当たる、「倭の五王」の一人です。
手紙の事はよくわかりませんが、埼玉県稲荷山古墳より出土した鉄剣、熊本県江田船山古墳より出土した鉄刀に刻まれた「獲加多支鹵大王」というのも雄略天皇の別称です。
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