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ピョートル大帝は日本(ジバング)に関心を寄せ、日本人の漂流民はピョートル大帝以降、貴族のような生活を送れ高待遇されていましたよね。
漂流民は皇帝への謁見も許されていたし、日本語学校の教育者として一目置かれ、ロシア貴族の館に招かれたりと親交もあったし。
日本語学校や日露辞典ができたのは、女帝アンナの時代だったでしょうか。

A 回答 (6件)

ピョートル大帝は1697年にオランダに4ヶ月滞在して造船所で


働いて造船技術を習得していますが、この頃に日本の情報を
入手したと考えられます。
当時、鎖国下にあった日本はヨーロッパで唯一オランダと
だけ長崎で貿易を行っており、オランダには日本関係の情報
が豊富にあったのです。日本が陶磁器や漆器を産出する文明
国であることを知ったピョートルは、日本に興味を持った
ようです。そこで、当初は貿易を行うことを目的に日本と
接近を図ろうとします。

1689年にロシア帝国は清との間にネルチンスク条約を結んだ
ことでアムール川河口から南下することができなくなったため、
カムチャッカから日本へ接近しようと考え、コサック隊長
ヴラジーミル・アトラーソフに探検を命じます。
そしてアトラーソフは、難破して原住民の捕虜となっていた
デンベエ(伝兵衛)という日本人一行に遭遇し、彼らを解放
させてモスクワに連れ帰ります。

これを聞いたピョートルはデンベエと直接会って、デンベエ
にロシア語の習得と日本語をロシアの青年に教えることを
命じます。1705年には勅令を出して、数名の青年にデンベエ
の下で日本語を学ぶように命じ、同時に日本との通商を開く
ことを目標に掲げます。

デンベエは帰国を望みましたが、許されませんでした。更に
デンベエが亡くなったら日本語を教えることのできる日本人が
いなくなってしまうので、日本の漂流民を探索して連れ帰る
よう命じます。こうして次々と日本人を連れてきて、日本語
教師となる日本人が増えたことで、女帝アンナの時代に日本語
学校が作られます。ある意味、北朝鮮の日本人拉致と似たよう
なことをやっていたと言えます。

ピョートルの命令でカムチャッカ、オホーツクを探検した者の
中にヴィトゥス・ベーリングがいます。彼は1725年に命令を受け
1728年にユーラシア大陸とアメリカ大陸とのあいだの地峡を
発見します。これがベーリング海峡です。
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No.4 です。

「お礼」に書かれたことについて。

>ロシアの極東って、蝦夷地と同じように発展もしてなければ何もなかったんですよ。
>遥か遠くのペテルブルクから物凄く遠いのでね。
>地図で確認してみてください。車がない時代です。

日本人の漂流者って、大黒屋光太夫らのことですよね?
大黒屋光太夫自身が、サンクト・ペテルブルグまで行って女帝エカテリーナ2世に謁見しているし(帰国したのだから往復している)、そもそも漂着した大黒屋光太夫らを助けたロシア人が毛皮の捕獲のために極東まで来ていたのだから、「何もなかった」とか「物凄く遠い」というのは何の理由にもなりませんよ。
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No.2&3 です。



言いたいことは、日本人の漂流民が高待遇されたり、日本語学校の教育者として一目置かれたのは、日本をリスペクトしていたわけでもなんでもなく、要するに

「日本を占領して属国にする」

ことを考えていたからでしょう。
今の「ウクライナ侵攻」と同じように「日本侵攻、占領」も考えていたということです。

現在でも、クリミアの海軍基地を使用するにはトルコとの国際関係を良好に維持することが必須条件ですが、極東の海軍基地(ウラジオストク)はいかなる国にも気兼ねすることなく使用可能です。
そういう海軍基地を保持して維持することが、ロシアの悲願なのです。
なので、これといった産業もないシベリアをロシアは手放さず、北方領土も返還する気がないのです。
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この回答へのお礼

ロシアの極東って、蝦夷地と同じように発展もしてなければ何もなかったんですよ。
遥か遠くのペテルブルクから物凄く遠いのでね。
地図で確認してみてください。車がない時代です。
だから、ジバングは憧れの地だったんですね。

お礼日時:2022/12/24 21:09

No.2 です。



>・アゾフ海、黒海はオスマン帝国に押さえられていたし、ボスプラス海峡を通過しないと地中海にすら出られなかった

「ボスポラス海峡」ですね。

黒海に面したクリミア半島には、ロシアの海軍基地があります。
なので、ウクライナ領になったクリミア半島を、ロシアは手放すわけにはいかないのです。
ウクライナが親ロシア政権であるうちはよかったのですが、反ロシアの政権になったため力づくでクリミア半島を奪い取るしかなかったのです。
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マルコ・ポーロの「東方見聞録」で、ジパングは黄金の国と紹介されましたからね。



また、海外貿易や植民地獲得で富を得たいヨーロッパ諸国の中で、ロシア帝国は
・首都ペテルブルグのあるバルト海の出口はスウェーデン、オランダなどに押さえられていた
・アゾフ海、黒海はオスマン帝国に押さえられていたし、ボスプラス海峡を通過しないと地中海にすら出られなかった
ので、自由に海に出られる極東地域に関心があったのでしょうね。
その情報が日本人漂流者から得られたのでしょう。
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あ?そうなの?


昔話はよくわからないけど、ロシア肯定したいならさっさと北方領土返せよ^^
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