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人生で、最大の問題は、自分の死ではないですか?
100歳を超す寿命の人もいれば、死んでいく赤ちゃんもいる。運命としか言いようがない。
その意味で、信仰が必要なのでは?

A 回答 (33件中11~20件)

問題ととらえるかどうかはあなたの勝手なんです。


生きている限り、いつかは死ぬのだから、問題というより、当たり前ととらえることも可能です。
その意味?、「その」は何の代名詞?、運命の代名詞。
信仰の有無で運命が かわるとでも?。
それとも変わることはか叶わないのであきらめる便法として?。
信仰といっても、旧統一教会の言うがままに動くのも信仰?。
バチが当たるのが怖くて入会するのが信仰?。
運命は運命として受け入れ、何時訪れるか分からない死までをいかに生きるか?
結果は、死してのち、答えは歴史が証明してくれる、と言われる通りなんです。
早急の何らかの結論を得ようとすること自体が無理なんです。
座禅で、「よし、それでは何も考えないようにしよう」次の瞬間、警策が飛んでくるらしいです。
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この回答へのお礼

何に対して問題意識を持つかは、ひと様々です。人生という謎、中でも死は避けることのできない恐怖と苦をもたらします。

古来、人間は信仰に救いを求めてきました。そのことは、どれほど科学が発達しても変わりません。

そうしたことに関心がないのも自由です。

お礼日時:2023/05/18 21:02

このようなことは


あなたにとってどうかだけです。

人は見ているもの感じていることは人によってバラバラです。
押し付けるのは良くないので・・・。
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この回答へのお礼

自分は何も押し付けていません。
また、信仰をしている人びとは大勢います。

こういう考えはどうですかと提示し、質問しているだけです。

興味がないのなら、黙殺すればいいだけです。反対なら、それもご自由にどうぞ。

お礼日時:2023/05/18 14:01

日本では信教の自由が保証されているのでいるので好きなようにしてください。

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苦しまずに死ぬ方法があれば多くの人はその方法で自害すると思います。



よって、多くの場合は死ぬことが問題ではなく、苦しんむことが嫌なだけです。
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この回答へのお礼

>苦しまずに死ぬ方法があれば多くの人はその方法で自害すると思います。

なぜ、なんのために?

>よって、多くの場合は死ぬことが問題ではなく、苦しんむことが嫌なだけです。

死ぬのがイヤだから、抗がん剤などで苦しんでも、助かろうとするのでしょう?

病苦と戦っている人びとも、人命救助に努めている人びとも、死が最悪の不幸だと知っているから、頑張っているのです。

お礼日時:2023/05/18 13:18

人生において死は重要なテーマであり、個人にとっての最終的な問題の一つと言えます。

人々は死についての考え方や意味について様々な見解を持っています。一部の人にとっては信仰や宗教が死に対する意味や目的を見出す手段となる場合もあります。

信仰や宗教は、死と向き合う際に個人にとっての支えや希望を提供する役割を果たすことがあります。宗教的な信念や教えによって、死後の世界や生命の意義についての枠組みや目的が与えられることで、人々は死に対する安心感や希望を見出すことができる場合もあります。

ただし、死というテーマは個人の信念や価値観によって異なる解釈が存在します。一部の人にとっては、死は単なる終わりであり、個々の人生の意味や目的は生きている間に見出されるものと考える場合もあります。また、哲学的な視点からも、死とは人間の存在の一部であり、限られた時間を大切に生きることが重要であると捉える考え方も存在します。

結論として、人生における死やその意味については個人の信念や価値観によって異なる解釈が存在します。信仰や宗教が必要かどうかは個人の考え方やニーズによって異なるため、それぞれの人が自分自身にとって意味のある道を見つけることが重要です。
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個人で行う信仰は構わないが、他人を巻き込む信仰は許されない。



例えば紛争と化すイスラム教・ユダヤ教・プーチンが信仰するロシア正教や2世3世と他人を巻き込む旧統一教会、そして国家の政党である公明党が信仰する創価学会など他人を巻き込む信仰は知らぬ間に他人を傷つけている。

宗教と紛争との関係は深く、信仰の問題は時に妥協を許さず決定的な衝突を生むことがあることに執着する信仰は如何なものかと思います。
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人生で、最大の問題は、自分の死ではないですか?


  ↑
違います。
人は全員死ぬのですから、問題でも
何でもありません。

死ぬまでの時間をどう使うかが
最大の問題です。



100歳を超す寿命の人もいれば、死んでいく赤ちゃんもいる。
運命としか言いようがない。
その意味で、信仰が必要なのでは?
 ↑
死に信仰など不要です。
必要だとすれば、生きている間です。

死に信仰が必要だ、なんてことに
なると、
葬式仏教になるだけです。
あれは死体に群がるハイエナ産業です。
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この回答へのお礼

>人は全員死ぬのですから、問題でも何でもありません。

赤信号みんなで渡ればこわくない
、ですか。でも、死ぬときは一人です。死は究極的な孤独なのです。そして、家族や知人とも、住み慣れた家や街とも永遠にお別れです。自分が消滅するのだから、恐怖であり、問題でしょう。


>死ぬまでの時間をどう使うかが
最大の問題です。


価値観とは、生き続けたときに必要になるだけで、死んでいく人間には不要です。
死ぬまでの時間、すなわち余命ですが、癌告知でも分かるように、そんなことは知らないほうが気楽に過ごせます。


>死に信仰など不要です。
必要だとすれば、生きている間です。

当たり前でしょう。死を前にして、信仰はどうなのかという話です。とんちかんな事を言わないでください。

お礼日時:2023/05/18 02:00

死ぬことが、問題なのですか?


生まれれば必ず死ぬに決まっています
「その意味で、信仰が」に至ってはもう全くの論外
日本語になっていませんね
詭弁の見本のようなもの
いくら匿名のネット社会が嘘ニュースで塗れているにしても、これは酷い
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この回答へのお礼

>死ぬことが、問題なのですか?
生まれれば必ず死ぬに決まっています

他人の死であれば、何の恐怖も苦もありません。
ご自分の死について、思い浮かべてください。
死んだら、その先はないのです。
どんな希望も成立せず、ただ真っ暗な暗黒があるだけです。

お礼日時:2023/05/21 03:15

あくまでも、私は……ですし、無宗教者なのですが。


スピリチャルや不思議や輪廻転生や私独自の神様論は信じています。

人間はその都度その都度、自分で自分の人生シナリオを好き勝手に書き、何百通り〜何万通りものピン〜キリまでの様々な人間として生まれ変わりながら、自分の魂が納得のいくまでこの世に魂磨きの学びにやって来ながら、やがでは人間界を卒業し、八百万の神々の一員になるべく、リアルなRPG(ロールプレイイングゲーム)の主役になって学んでいるのだと思っています。

生後間も無く病や事故や戦火の下や人攫いや虐待死をさせられ、命を落としてしまうような最も悲惨な人生〜生まれて死ぬまで全てが順風満帆で幸せ以外の何ものでもないような人生に至るまで、ありとあらゆる人生モデルを一度ずつ一通り体験しながら、喜怒哀楽や艱難辛苦や、感動や愛を学びながら、いつかは神の一員になるための此処は(地球は)自動車教習所のような場なのだと。

なので、私は死ぬことは、単に一教科を終えるごとに一度天の国に帰り、神様に一教科終了のハンコを貰い、少し空の国で自由気ままに休憩し、また次のシナリオを書いて、次の科目を学びに来るだけ。
そんな気がしています。

一生懸命勉強した神様からのご褒美の休憩。それが死だと。( ◠‿◠ )
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人間は死によって、人間は己の有限性に気づかされる事になります。


どんなに無限の『富』や『権力』を手にした人間であっても、
いつかは死ぬという定めからは、絶対に逃れることはできません。
この有限性を自覚し、死の恐怖や不安を克服するために、
人間は何らかの永遠性に参画し、動物的本能の生き方を超えて、
一個の人格となることができました。
宗教が人類史とともに古いゆえんであります
人間の有限性。人間は必ず死ぬ。そうした問題は
永遠性の認識なくしては思考し得ない、まさに人類の歴史とともに
宗教は始まったというのです。

ルソーは『社会契約論』のなかで「市民宗教」について説いている。
それはプロテスタントのキリスト教をよしとして、
宗教を個々の市民が自由に信仰できるようにすることが
必要であるとしています

またトインビーは宗教の必要性について次のように述べている。
「私は宗教こそは人間本性にとって必要であり、
不可欠な一部をなすものであると考えている」
さらに優れた宗教を選択する大切さにまで言及してトインビーは語る。
「われわれは、何らかの宗教をもたないかぎり、人間ではありえません。
そこでなされるべき選択は、宗教をもつかもたないかの選択ではなく、
優れた宗教をもつか、劣れる宗教をもつかの選択なのです
と言っています

「宗教は、使い方によっては〝悪魔〟となる。人々を結びつけるべき宗教が利用され、かえって分断を煽っている。これほどの不幸はない。
どこまでも『人間のための宗教』が根本とならねばならない。『宗教のため
の人間』では絶対にない。『二十一世紀の宗教』の、これは根本原則です
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この回答へのお礼

仰るとおりだと思います。

人間の有限性を当然とせず、そこに苦を認めるには、なんらかの縁に触れて(愛する人の死、自身の大病など)、人間の有限な存在が苦であると悟る必要がある。あるいは苦しさの余り、自殺して解放されようとする人もいる。

宗教の祖、卓越した宗教家は、若くして死は苦であると悟り、苦からの解放を見い出した。が、凡人は「太陽と死は直視できない」ので、若さの本能的な力で生き続ける。

自分は凡人なので、高齢になって死がちかくなって、人間の有限性に苦を認めた。老境による悟りです。「信仰心」即「悟り」という。

あなたが言われる「永遠性」への認識と参画は、人間の有限性による苦しみからの唯一の救いだと思います。

ある人は「死は眠りのようなものだ」と言った。それなら、目覚めは、と思う。

現象と本質。
人間という現象の本質が、生命の永遠性であることによって、生老病死の苦から解放され、脱出できる。これは理屈でわかるのは簡単だが、信仰の力で体得していくほかない。
おおむね、そのように思います。

不備がありましたら、お教えください。よろしくお願い致します。

お礼日時:2023/05/20 16:06

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