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死後の世界ですが、宗教によって様々な解釈がなされています。

仏教では輪廻転生、キリスト教では天へ召されるとの解釈です。
イスラム教では生と死の境界は無いそうです。
いずれも宗教的解釈なので、どれが正解とは言えません。

ただ、宗教的解釈を排除し科学的に考察すれば、
死後の世界は完全なる無であると言えるでしょう。
ノンレム睡眠時のような無の状態です。

死後の正解について、
宗教的には様々な解釈がなされていますが、
死後の世界は完全なる無ですよね?

A 回答 (32件中1~10件)

禅を学ぶなら理解する事が出来る可能性はあります。

何故ならば『禅には持つべき教義などは何もない』事が謳われていますが、一方では、疑問を抱く時その疑問の中にこそ、答えは隠されている(用意されている。)が禅の本音だからです。

死後の世界は無なのか?を本当に本気で解き明かそうとするなら、その疑問が湧き挙がる丁度その瞬間に立ち会うなら、答えが用意されていると先人は云っています。

その時とは、『父母未生以前本来の面目』が心に沸き上がる瞬間の事です。

人間の意識が発生する瞬間の事ですが、天地創造の瞬間と云っても良い時ですが、禅問答がその消息を良く物語っています。

自分の意識が、正に発生する直前の刹那の事です。

禅の師匠様なら『何故お前はそう思うのか?』と、きっと問い詰めると思います。

ヒントを上げるなら、人間の意識は絶えず、無意識の自分と交替する時を相談しながら決めています。その相談に違和感を持つ人を『苦しんでいる人とか、悩み深い人とか』という様です。

全くその交替劇が順調に行っていて、一切違和感がない人を『健常者』という様です。心の苦しみが理解出来ない人の事です。
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この回答へのお礼

なかなか難しい宗教観ですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/17 09:34

霊魂を信じない人は、墓地の近くや事故物件に住めるのでQOLが高められて羨ましいです。

信じないことは個人の合理性の問題なので自分自信のなかで結論を持っておけばいいだけの話で、それを他人に共感を求めることはナンセンスです。
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この回答へのお礼

出来れば墓地周辺や事故物件には住みたくないですが
他人に共感は求めないほうが良いですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/15 09:52

質問者さんがコメントされている


完全な無とは死んだ者から見た話で死んだ者を見ている生きている者の話しではないと言う事ですね
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この回答へのお礼

そういうことになります
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/15 09:52

No.25 続きです。



死後の世界
人に多大な迷惑をかけた人、犯罪をして処罰を受けずに死んだ人は悲惨です。この世では眠ったら休んだり忘れることはできますが、死後の世界には眠ることができないので処罰を受け続けることしかできないので、要するに逃れることはできないのでそれはもう辛いとある本に書いてありました。

それに対して
周りの人を愛することは大切です。
周りの人を愛せば愛するほど人からの愛を受け取る事ができ
死後の世界は幸せになります。

君ならどうするという本がありますが。映画化されましたが・・・。
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この回答へのお礼

後者を選ぶ人が大半だと思いますが、
実際周りの人を愛することはなかなか難しいですよね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 11:33

完全な無とは


あるものから見たらあらゆるものが無くかつそのものも無いという事なのか?
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この回答へのお礼

骨などは残るかもしれませんが、
意識は何もないということですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 09:32

「無」がその人にとってロマンチックであれば、無でもいいのです。


要は浪漫がない死は死に際に恐怖だけになるということで、
あるのは死の恐怖です。
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この回答へのお礼

死んでしまえば恐怖も無くなると思います
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 09:33

人それぞれ違う学校に行って、違う会社に就職して、それぞれの家庭を持っているように、死後も人それぞれ異なるのかもしれません。



信じるものはと言われますが、無であるはずと心から信じる人は、もしかしたらそうなるのかもしれません。

自動車の免許を持っている人であれば、だろう運転ではなくかもしれない運転と習ったと思いますが、どなるにせよ、こういうこともあるかもしれないと心の片隅に置きながら、気をつけているのが良いような気がします。
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この回答へのお礼

人それぞれということですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 09:35

死後の世界は肉体がなくなるだけです。



自分からは全てそのままです。
回りの人からはあなたを見ることはできません。

死んでしまったら、世界旅行してもタダです。
異性の風呂にも入れます。
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この回答へのお礼

無ではなく意識だけが残るということですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 09:36

>死後の世界は完全なる無ですよね?


無い、と言いつつも、表現可能ということなんですね、矛盾します。
無いもの名前があるはず在りません、においも、形も、音も、気配すらも・・・・完全でない「無」?、無いものに完全もへったくれもありませんよ。
死後の世界なんてありません、それだけの事なんです。
無い、といった以上、それについて何を論じることまできません。
>ノンレム睡眠時のような無の状態です
これが全く見当違いなんです、脳細胞が存在しています、その上でのノンレム睡眠なんです、存在はしているが、秩序だった状態がないため、人間が有効に利用可能な情報?が発生することがない状態?とでもいえばよいのかな。
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この回答へのお礼

死後の世界など無いということですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 09:36

生命の起源や「意識がどうして存在するのか」については科学的には解明されていません。

そのため「死」については「生きている側からの見え方」でしかなく、意識としての主観が本当に消えるのか否かについては二説あると思います。

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

・別世界から仮想世界であるこの世界へログインしているだけ
・本世界での活動が観察できないので論じても意味がない

前者は死後の世界があると考えています。今風に言うと「現実が仮想現実」という説であり科学を信じる人であってもその様に唱える人もいます。後者は死後の世界は「生きている人にとっては無に等しい」と言う話であって「死後の世界の有無を言及している」わけではないです。議論をしたくないというスタンスでしょう。

「思い直して復活できたという事例が無い」

という事は死後の世界があろうとなかろうと「この現実」に愛着を持つ人にとっては衝撃的な話です。

例えばネットワーク・ゲームなど(MMOなど)で友人を作りキャラを育て「やりがいを感じていた人」がいたとします。しかしうっかりと死亡判定をされてしまい「アカウントを削除」されたとしましょう。

「そのゲーム内の人はそのプレイヤーには二度とあえない。
 またアカウントを消されたプレイヤーは二度とゲーム世界
 の人と交流できない」

となるわけです。

この時に「また会えるかもしれない」と考えても良いのですが「諦める」人の方が多いと思います。それが故に「死亡判定」を怖がるという文化が根差すと思います。

今現在私たちが捉える「死」とは上記の様な例えに近く「死後の世界があろうとも」実際的には意味が無く、救いには成らないと(多くの人が)認知しているのです。二度と出会えないからです。

「いったりきたり出来ないというのが本当の問題。不可逆な
 ものであるというのが人間のストレスとなっている」

死と同じ状態になったあと再度復活する事が出来ると成ったら「寝ているのと同じ」と捉えて「死後の世界があるか否か」について論じる人は居なくなると思いますよ。恐らく「夢の世界」と同等の扱いに成るはずです。

「本当は生き返る事を望んでいるのであり、その妥協案とし
 て死後の世界を定義して誤魔化している。本当望みが叶う
 となったとき死後の世界に興味を持つ人はいないだろう」

この点が分かって居るため「輪廻転生」と言う概念が次の妥協案として魅力的に成るのです。

しかし生き返るだけが望みかと言うとそうではなく「さっきの続きが出来る」のが本当の望みなのです。なので記憶がまっさらな状態で別人として生まれ変わる事は救いには成りません。つまり「輪廻転生」ですら救いに成らないのです。

「生き返ったら何百年も経っていた。家族や友人はもう生き
 ていないよ。どうすりゃいい」

この様に記憶を引き継いだとしても「やり残した事」「継続したかった事」があり「これを二度と取り返せない」となればやはり救いに成らないのです。

「セーブデータが消えちゃった。初めからやり直しとか・・
 しかもあの世界は二度と再現できないとか。俺は何を失っ
 たんだろう」

自分が自分として復活するだけでは「死」がもたらす恐怖は消えないという事です。今現在続けている事を継続できなければならず、意識を取り戻した後に「変わり過ぎている」ようでは救われないのです。適応できたとしても「あの後どうなったのか?」試すことは二度と出来ないんです。この不可逆については死と同等の衝撃があるという事です。

死に対する恐怖が本当は何であるのか「自分の思考によって」導くことが出来ないと行けません。ここに至った人は「今思い残すことがあっては意味がない」とし一生懸命に生きるという答えに達します。しかし「今現在に絶望し死後の世界に期待する」人もいるでしょう。

そういう人に対して「(死後の世界があろうとなかろうと)どちらにしても今を一生懸命に生きる方がベストである」と説いても意味がありません。また「無いと否定する根拠」もないと気が付きます。

しかし心配になるのは、

「あんたは転生しても同じ結果になりませんかね?」

と言う疑いです。

死後の世界の方がもっと酷いかもしれないと怯える人であれば「用心深い」と思えて心配をしません。しかし今が苦しいので新しい世界に期待する人は「自分が適応できていない」という意識が低く「死後の世界でも適応できず失敗が続く」可能性は高く成りますよね。

「死後の世界に期待をする考え方が原因かもしれないよ?」

このあたりは回答している方々も薄々感じているでしょう。もし本当に死後の世界があったとしても「だから今は適当でも大丈夫」とやってしまえば他の人より不幸に成りそうですよね。

そしてもし死後の世界が実際にあったとしても結局は昔の仲間が皆で移住をしてきて「適応力で負けてしまい、相対的に不幸なポジション」に落ち着き「死後死後の世界」を求めるようになると思えます。

「いまここで解決していなければまた繰り返すと思わない
 かい?」

結局のところ「生き返っても生前の記憶が無い」「自分らしく復活しても死ぬ前の続きができない」「自分らしさの中に適応できないという本質的問題がある」という要素があれば「死後の世界」には意味が無いと成ります。

「私は死後の世界に意味が無いという事まで結論付けました。
 しかし死後の世界に期待する他の人について心配です。
 もし本当にそういうものがあっても彼は再度苦しむだけに
 思えます。この世界の残りの人生で彼の問題を彼が解決で
 きる様に指導します」

宗教が目指しているのは上の様な趣旨に思えます。

「自分を反省して進歩しない人にとっては残りの人生も死後
 の世界も何の意味も無いのだ」

という事だけは(死後の世界の発見できずとも)分かるというわけです。なので宗教は「死後の世界を話題にしたとき特別に興味を持つ人」を対象に指導(カウンセリング)を繰り返しているのでしょう。

「あなたはカメを信じますか?」

「なにそれ?」

「死後の世界を保証する海生生物です」

「おおお、キター。そこんとこ詳しく」

「カメを信じる人は俗世界を捨てて私たちの教育施設で修行
 をすることになります。それでも良いですか?」

「おおお。転生できるなら何でもしますよ」

「はい。おひとり様ご案内~」

自分の進歩無しに世界を変えても「幸せに成れるイメージが湧かない」のは当たり前です。世界の何を変えたらよいのか妄想することは出来ます。しかし現実感が無くなるだけで「やりがいも達成感も感じない」世界になるでしょう。

私たちが「死」を恐れるのは不可逆であるからとしました。その上で「継続できない事態に陥る不可逆」が恐怖の本質であるとしました。更にこの継続には「困難を乗り越えて適応する」という欲求が含まれており、世界の改変による困難の排除を望むと「生」その物の意味が薄れるとお話ししました。

「断念せずに適応し続ける自分を感じ続けたい」

というのが私たちが生死を問う時の本質的な欲求であるということです。死後の世界を望む気持ちが「まだまだ楽しみたい」と言う話であれば誰もが「肝要に肯定(天国について話す)」します。しかし逆に「今の世界から逃げたい」という話であれば「そんな旨い話はないと否定(地獄について話して脅す)」するわけです。

「死後の世界の有無については、死後の世界を望む人の
 理由についても考えて答えるのが人である」

自分が「本当は何を望んでいるのか?」について、ストレートに辿り着けることが大事だと思います。そういう訓練は生きているうちにやって置けば「もし本当に死後の世界があった場合にはスタートダッシュ」が出来るでしょう。もう一度、他人から出遅れる経験をしたくないなら「いま生きているうち」に練習をしておくべきです。

「死後の世界があったとしても今抱える問題と同じ問題
 に苦しめば、死後の世界と言う実感が湧かないだろう。
 そういう人にとって死後の世界は無いのと同じである」

私たちは「睡眠時に毎日死んでいる」とし「起床と共に生き返っている」とすればよいわけです。この形は理想的な死後の世界なのです(記憶を伴う復活であり、世界は激変しておらず、やり残したことを継続できる)。これ以上に都合の良い死後の世界は無いでしょう。

それ以外の死後の世界があると「孤独感」や「適応の難しさ」が増し精神的に追い詰められるでしょう。人は環境が変わっただけでうつ病になるわけです。世界を都合よく変えても、実際は精神が参ってしまうのだと思います。だとすると寝て起きる程度の変化が死後の世界の限界と言えます。

「あまりにも理想的な死後の世界なので自分がずっと生
 きているように錯覚していました。実は毎日死んで復
 活していただけなんですね・・・」

という分けで私たちは既に最も理想に近い死後の世界を毎日体験しています。人は死ぬまで3万回以上も理想的な死後の世界を体験することになっております。

好きなところで「ここは死後の世界だ」と思えば宜しいと思います。その世界が自分にとって好きか嫌いかは関係ありません。「死後の世界」があるとしても自分の好き嫌いとは関係ないのです。

「自分の好き嫌いに気を使う世界は生前だろうと死後だ
 ろうとないのだ」

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

死後のあり方については色々な考え方があるのですね
ありがとうございました

お礼日時:2024/01/14 09:38
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