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弥生時代は中国の方との交流が始まった時期です。
中国人が日本にきて稲作を教えてくれたり、逆に日本人が中国に遣いを送ったりしていますが、この時言語でのコミュニケーションはどのようにしていたのでしょうか?

また、中国人に「中国から日本に金印が送られた」ということを話したら、「なぜ金なのだ。中国ではこのようなものは昔からない」といわれ、昔中国でつかわれていた印は緑の石(表現がわからずすみません)である。と教えて頂きました。

これは、中国にとって金の価値が当時低かったので、中国ではつかわないような金印を送ったということですか?それとも普段自国でも使わないような高価な金を贈り物として日本に贈ってくれたということでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 皆様ご回答ありがとうございました。学びを深めさせて頂いたことに感謝申し上げます。ベストアンサーを決めきれず申し訳ありません

      補足日時:2024/05/19 16:11

A 回答 (11件中1~10件)

>「漢委奴国王」の読み方は本当に


「漢の委(倭)の奴の国王」:「カンのワのナのこくおう」
「漢の委奴(伊都)国王」:「カンのイトこくおう」
などの読み方における説があるが、
どちらの説も本当に正しい読み方か疑問。
偉い大学者先生さんがそういうふうに解読したのだから
そのどちらかを採用すべきだという信仰心に基づいてないだろうか
今一度原点に帰って考え直すべきとは思わぬか。

卑弥呼は一体誰なのか、
邪馬台国には九州説と大和説が主流だが、本当はどこなのか、
これらの場所を含めた確定が急務な気がする。
何か何百年経っても決着つきそうもないが、
今のやり方は邪馬台国=大和朝廷以外の説は
明らかにご当地ソングで自分の都合のいい土地へ
読者を導いて誘導しようとする魂胆見え見えという気もする。
この辺を明らかにしたほうがいい気がする。
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No.3です。

 「漢委奴国王」以外の中国から贈られた金印の中で、とくに有名なのは、魏志倭人伝に登場する金印です。 3世紀の中国の歴史書『三国志』魏書の「魏志倭人伝」に記載されている金印です。 卑弥呼が魏から受け取った「親魏倭王」の称号が刻まれた金印とされるものです。 この金印自体は現存していませんが、歴史的文献にその存在が記されています。

古代日本における金印の使用は、中国との外交関係を示す重要な証拠となっており、中国から送られた金印は倭国にとって大きな政治的・社会的意味を持っていました。これらの金印は、外交関係の樹立や承認、封建的な主従関係を象徴するものでした。 よって、卑弥呼の跡を継いだ、壱与女王やさらにその後に続いた4女王国の女王たちも、中国から金印を送られたと考えられています。

具体的な金印については発見されたものが少なく、文献や考古学的発見に依存する部分が多いですが、上記の例のように中国と日本の古代の交流を示す重要な遺物として評価されています。

因みに、稲作は、約3000年前の寒冷期に中国北部から南下してきた騎馬民族(畑作牧畜民)により滅ぼされ、 逃れた一部の長江流域の稲作漁労民が雲南省や貴州省を経て日本へ稲作文化を伝えたと考えられています。 朝鮮半島を経由してきたと言う説を唱える人が今でもいますが、直接中国大陸から伝わったと言う説が、現在では一番有力な説となっています。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。金印は卑弥呼の時は文献に残っていて、その後も金印を送られただろうとされているのですね。
稲作の流れについて教えて下さりありがとうございます。朝鮮との関わりがよくわかりました。この時代がいろいろな説があるのですね。

お礼日時:2024/05/19 15:59

稲作のどこから中国人が? 半島経由なので朝鮮人やその北の人々(まぁモンゴル人)でしょう。

言語学的にも日本語はそちらの言語です。

中国が金印を贈ったのは日本だけではありません。ベトナムだったかな?のほうでも同時期に贈られた金印が発見されており、日本で発見されたものと形の似ていて、日本の金印が偽造品でないことの裏付けの1つになっています。
中国でも金は価値のあるものでしたが、鉄剣などの金象嵌というのかな?にも金が使われていたりしますね。

石は翡翠(ヒスイ)が有名ですが、それらを用いた璧(ヘキ)というのもあります。(壁(カベ)に似ていますが別物ですw)
傷一つない璧のことを完璧と言い、今でも普通に使われる単語として残っていますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ベトナムと中国の金印のやりとりは非常に興味深く検索したのですが、見つけられませんでした。日本語検索では見つけられないだけかもしれませんね。
壁についても調べました。こちらは初めてみました。完璧の由来にもなっているということでとても興味深かったです。ありがとうございました。

お礼日時:2024/05/19 16:03

#7です。

補足有難う御座いました。
文面が長くなったので、言語交流については割愛しちゃったので改めて。
朝鮮語と日本語の文法の並びが同じなので、単語を覚えれば、容易に
習得出来ます、中国語は英語と文法の並びが同じなので、漢文を
訓読みで読むのに、返り点などの補助記号が必要なのです。

飛鳥時代は北九州地域と南朝鮮地域は、共通語の様な物が有り、
日常での意思疎通は充分なレベルで行えたのではないかと言う
言語学者がいます。
漢字から万葉仮名を作った知恵のある倭人ですから、古墳時代に於いても
意思疎通の方法を編み出していたと何等の根拠が無いのに推測してます。
その答えは、難波に有る巨大古墳群に有りそうなのですが・・・
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小判大量流失の続き・・・
米国の南北戦争終了にて不要になった鉄砲を複数の藩が購入して、
小判にて支払いました、米国は大量に得た小判をロシアから購入した
アラスカの支払いに充てたと囁かれています。
生麦事件後の薩英戦争での賠償金で20万両薩摩藩が支払い。
長州藩が外国船を砲撃した賠償金30万両を長州藩が支払えなかったので
幕府が肩代わりしました、泣き面に蜂状態ですね。
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。朝鮮語と日本語の文法が同じということや、飛鳥時代の北九州と南朝鮮が共通語のようなものがあったという推測は大変興味深かったです。
金の関係も大変面白かったです。まさか日本がアメリカから鉄砲を買えるだけの金は、アメリカにしたらロシアからアラスカを買えるぐらいの価値があったのですね。また賠償金の流れも知りませんでした。ありがとうございました。

お礼日時:2024/05/19 16:09

金印について。


江戸時代に見つかった当初から金印は日本人が作ったとの疑惑は、
完全に払しょくされてません。
何かの遺跡・遺構から出土したのではなく、農民が水田の耕作中に
見つけたとか巨石の下に有ったとか不確定なのです。
更に発見の経緯を奉行所が記した「百姓甚兵衛口上書」は紛失していて
現在有るのは複製なのだそうです。

現在、発見場所とされる叶ノ浜には、金印公園となっていますが、
これとて、大正時代に九州帝国大学のお偉い先生が黒田家に残る
古文書から推測した場所なのです、日本の考古学の、お寒い状況
が丸出しで、信用出来ないのです。

日本各地の遺跡から発見された米粒のDNAから、大陸⇒朝鮮半島
からだけでなく、南方経由からも来ている事が解って来ました。
縄文と弥生時代の歴史が塗り替えられるのは時間の問題です。
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東アジアでは、銀が主でした、銀は金の 1/4の価値でした。
欧州は金が主で、金の1/10が銀の価値でした。
江戸時代の幕末では、東アジアと欧州の金と銀のレートの差を利用され
日本から大量の小判が流失して、物価が高騰して、幕府が終焉となった
大きな要因の一つになりました。
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この回答へのお礼

大変興味深いお話を聞かせて頂きありがとうございます。金印にそのような不確定な話があるなんて初めて知りました。幕府の終焉に金が関係していることも知りませんでした。ありがとうございました。

お礼日時:2024/05/15 20:04

古代中国で最高の鉱物は「玉(ぎょく)」と呼ばれた宝石で、中国では主に翡翠でした。


翡翠の最高級品は日本の糸魚川産などの固い硬質翡翠(硬玉)ですが、中国産はほぼ軟質翡翠(軟玉)と比較的柔らかく、緑色のものが多い。
ただし、中国産の玉でも上質なものほど硬く無色になる。

最高級の印章に翡翠(玉)が使われたのは、軟玉でも印章としての硬度は十分である上に、極めて割れにくいという特長があったからだ。
金は玉の次に貴重な素材ですから、価値が低い訳ではありません。最高級ではないにしてもかなり敬意を払った品と思います。

公式コミュニケーションは漢字を使った筆談と、通訳がいれば通訳も使っていたでしょう。日常的にはボディランゲージでもけっこう伝わるもんです。
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この回答へのお礼

中国では玉の次に金だったのですね。中国の方が話していた意味がよくわかりました。高級でなくとも敬意を払っているということで理解しました。
ありがとうございました。

お礼日時:2024/05/15 20:06

東方の黄金の国・・・ジパングの歴史は、近隣の中国韓国の影響も受けながら遠くユダヤの影響もあったのですかね。



金の算出は、日本は多かったですが、中国はヒスイや水晶黒檀の産出が多かったのです。ゆえに、金鉱石を渡して、金印にされたのかもしれませんね。

古事記や日本書記、そして中国の古代史でも正確な歴史は解明されていません。また、言葉は、漢字のあった中国の影響で、漢字が主流のようでした。
ゆえに古墳から出る木簡も漢字で記述されています。

そして、君が代は、ヘブライ語で理解する事も出来るのです。
実に不可解な国です!?
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この回答へのお礼

中国と日本では金とヒスイの産出量も違っていたのですね。古墳時代の木簡が漢字なんて知りませんでした。教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2024/05/15 20:21

あなたは日本人だと思いますが、日本の歴史的なことを聞かれてどこまで正しいことを答えられますか?


その「中国人に~」というくだりのお知り合いの中国人は、本当に昔のことに詳しい学者さんのような方なのですか?
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弥生時代において、中国との交流は文字を通じて行われていました。

現代の日本人が当たり前に使っている漢字は、弥生時代の頃に日本に伝わってきました。文字が伝わったのは弥生時代の中頃で、当初は交流のあった中国や朝鮮半島の人々との意思疎通や外交のために必要とされていました。

邪馬台国の女王卑弥呼も、中国や朝鮮半島との交易を進めるために文字や言葉を使ってコミュニケーションを図り、外交を行っていました。彼女は中国の皇帝から金印などを賜ったとされています。

さて、金印についてですが、中国の古代の印は、材質(玉・金・銀・銅)、つまみの形(龍・亀・駱駝・蛇)、印に通す紐の色(黄・紫・緑・青・黒)によって、それを持つ人の立場を示す役割を果たしていました。金印は一番上で、皇帝の親族や有力諸侯に送られたものであり、権力の象徴でもありました。

「漢委奴国王印」という金印は、日本で出土した純金製の王印で、後漢時代のものです。この金印は、日本と歴代の中国王朝との間で様々な時代に送られていました。金の価値が低かったために中国では使われないような金印を日本に贈った可能性も考えられますが、具体的な理由は明確ではありません。

いずれにせよ、金印は外交的な意味合いを持ち、贈り物として高い価値があったと考えられます。
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この回答へのお礼

弥生時代から漢字があったなんて情けないことに知りませんでした。金印はが日本と歴代の中国王朝との間で様々な時代に送られていたというお話も大変興味深いです。自分でも検索したのですが見つけられませんでした。もしよろしければ、弥生時代以外のどの時代で日本と中国で金のやりとりがあったか教えて頂いてもよいでしょうか

お礼日時:2024/05/15 20:29

交流は身振り手振り・絵に書いて、また、頭の良い人が言語を覚えて通訳したんだと思います。



緑の石・・・・翡翠です。故宮に<白菜>という有名な彫刻があります。

キット、金の方が細工し易かったんだと思いますし、純度がどの位かは聞いたことがありません。

昔の人は凄かったですね。
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この回答へのお礼

白菜という有名な彫刻しらなかったですが、検索しました。とても美しいですね。いろいろと教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2024/05/15 20:35

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