No.4ベストアンサー
- 回答日時:
はっきりしていることは、この3人とも自分で書いた書物は残っていない、少なくとも彼らが書いた明確な証拠のある書物も、彼らが書いたという伝承のある書物もない、ということです。
では彼らが書いた書物は本当に無かったのか?
少なくとも体系的な書物や、手紙なども書いた形跡がありません。
手紙ぐらい書いているだろう、と思われるかもしれませんが、郵便制度の無い時代、手紙を書くのは書物を書くのと大差ない行為でした。少なくとも現在残っている当時の手紙は実は論文であったりします。
なぜ残さなかったか(残らなかったか)は、学説の問題になりますが、結局のところ書かなかったから、というのが最も説得力があります。もしいくらかでも彼らの書いた文書があったとして、あるいは書いたものがあったという伝承があったとして、後世にいくらか断片でも伝わるか、あるいは捏造さえされていないのはおかしいでしょう。このことからほぼ無かったのだと言えると思います。
なぜなかったかはそれこそ学説の問題で、それだけで論文が書ける内容だと思います。
ただ私見としていわせてもらえば、私は教師稼業なのですが、人にちゃんと物を伝えるにはマンツーマンでないとほんとには伝わらないな~、といつも痛感しています。また生徒との対話の中からこそ、考えの深化、発展があります。彼らもまたある意味教師だったと思うので、そういうひとりひとりの人との対話をこそ重視したんじゃないかと思うんですが。
一冊の書物を書くのは教師稼業と同時に進めるのは困難です。とりわけ彼らは新しい考えを作っていっている現場にいたのですからなおさらだと思うのですが・・・・(私見です、あくまで)
さらに当時の社会が必ずしも書物を中心とはしていなかった、ということもあるでしょうが、このあたりこの3人では多少事情が違うと思います。
いずれにせよ少なくとも書いたものを人に読ませる、という行為はある程度文書そのものを広める、という意思の元で行われる行為ですから、彼らには無縁だったと思うのですが。
コメントありがとうございます。
やはり彼らが書いた書物は無いのですか。書こうという意思すら記録されていないということですね。対話を重要視していたというのはわかりますが、対話を補助するための本人直筆の絵とか図なんかも記録にないのでしょうか?
もしそうなら、記録することを目的とせず、土の上に棒で図・絵や言葉を書いては足で消している光景が思い浮かびます。いわゆる現代でいう黒板ですね。
No.10
- 回答日時:
本を読むことが出来ない人がたくさんいる。
以下で分からなかったらどうしようもない。ヨハネによる福音書
6-41「彼らはみな神によって教えられる」
7-14「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」
16-13「真理の霊が来ると・・・自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げる」
マルコによる福音書(マタイによる福音書、ルカによる福音書)
6-8「旅には杖一本のほかには何も持たず、パンも、袋も、また帯びの中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」
10-20「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊(聖霊)である。」
コメントありがとうございます。
冒頭は、本を読むことができない人にレベルを合わせた、ということですね。
そして福音書の引用の内容ですが、「それ」は、何かを耳(という機能)を使用して聞いたり、何かを目(という機能)を使用して読む、という人間の機能を使用した行為によって得られるものではなく、自身の心の中(脳の中)に直接作用するものである、ということと解釈しました。・・・(1)
そもそも引用いただいた内容のなかでイエスが言っているのは、真理や神の教えそのものではなく、真理や神の教えの“性質”についてですよね。・・・(2)
ゆえに(1)と(2)からわかることは、「真理や神の教えは、人(イエスも含む)との対話や書物でわかり得る性質のものではない」ということですね。非常に納得できました。ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
>記録することを目的とせず、土の上に棒で図・絵や言葉を書いては足で消している光景が思い浮かびます。
いわゆる現代でいう黒板ですね。これについては、イエスの場合はヨハネによる福音書にファリサイ派との問答の最中に、指で地面に書いていた(内容は不明)という記述があります(8-6)。
ここは説明のためではありませんが、恐らくおっしゃるようなことはあったと思います。
ご解説ありがとうございます。
記録としての自書、教えの解説としての自書はないにせよ、「書いて(描いて)示す」という行為はあったのですね。大変参考になります。
No.8
- 回答日時:
書物を残さなかった理由は以下のようなことだと思います。
(1)真理の本質は、書いたもの(一方通行)では伝えられない。すなわち、真理の本質は、人と人との「対話」を通して初めて伝達可能。
(2)「書く」という行為は、多大の時間が必要、しかも、(1)の理由で効率が悪い。そのため、「書く」より「行動」することが必要。
(3)古代においては、「口承」が「書物」より権威があった。「口承」を通しての記憶能力は現代人よりはるかに高かった。
(4)古代においては、「書物」という伝達手段は一般化していなかった。印刷技術はなかった。字が読める人もあまりいなかった。
(5)宗教の対象者として、為政者、金持ち、貴族、知識人よりも、庶民、貧乏人、困窮者、被差別民、教育機会のない人をより重視した。すなわち、多くの字が読めない人が対象(哲学のソクラテスの場合は、これに該当しない)。
コメントありがとうございます。
私も“(1)真理の本質は、書いたもの(一方通行)では伝えられない。”ということを彼らが何らかの確信を持って理解していたことが大きな理由ではなかろうか、と考えています。
(2)の“多大な時間をかけて書く”というのは、必要であれば多大な時間をかけて書くはずです。ですから効率の問題ではない気がします。
(3)、(4)、(5)は彼ら本人から来る理由というより、当時の社会背景や周囲の人たちに起因する理由だと思いますが、それを彼らが書かない理由とするのは、なんだか俗っぽい感じがします。あくまで仮定として、彼らが現代のような情報化社会の人だったら書物を記したのでしょうか?それでもきっと記すことに意味を見出さなかったのでは、と予想します。
対話という手段を使用しても、実は彼ら自身の(真理にもとづく)価値感や感性を相手にもたらすという目的を達成しえないのではないか、と彼ら自身が強く理解していたものと推測しています。「真理」とはそういう性質のものである、と考えていたのではと予想します。そうであってもやはり対話の方が書物を記すよりは遥かに良いと彼らは考えていた、というのが表面的な理由と推測しています。
では、本質的な理由とは?というところに興味があります。
No.6
- 回答日時:
孔子の場合:弟子ー師いわく(先生はこのようにいわれました)
イエスの場合:弟子ー(マスターはこういわれた)
ソクラテス:プラトンー(マスターはこういわれた)
以上のような大先生は、良き弟子を連れているということですね。弟子は師の一言一句も見逃しまいとしたから師は教えを説くことに専念したのですね。それを師はまた良しとしたわけです。現代風に言えば、教授の講義を弟子が本にしたということですね。
大教授は、思考時間があれば凡人の何十倍もの仕事ができるでしょう。書けば効率が落ちるということですね。多くの弟子が一生懸命聞いて書き残したので世界的な思想や宗教になったということです。現代では師と弟子の関係が理解できなくなってきてますから理解できないかもしれませんが、不立文字といって口述のみもあるのですね。上に行けば行くほど不立文字になってきますね。師は弟子を選びますからね。
コメントありがとうございます。
師は世界的な思想や宗教を目指していたわけではないと思いますよ。ただ師の教えを理解していない一部の弟子達の優秀なる書物によって世界的な思想や宗教に発展したとは考えられます。
No.5
- 回答日時:
#4です。
ついでですが、釈迦、イエスについてはそもそも本人どころか直弟子の書いたものも残っていません。
イエスの場合パウロはイエスに会っていませんし、使徒のかいた、とされる文書(これは存在する)も、実際には使徒本人が書いた可能性はない、というのが学説です。つまり重要な部分はすべて口伝であったらしい。まあ失われたものでQ資料というのがあって、これが文書かもしれないですが、いずれ存在を推定されているだけで書かれた、という記録はありませんから当然筆者もわかりません。
釈迦の場合も第一回結集が釈迦死後100年ですから、当然ながら直弟子は生き残っていません。この場合も弟子が書いた、とされる文書があるだけで、事実は不明です。というより口伝であった可能性の方が高いです。
ということなので直弟子が書いたとはっきり解っている文書があるのはソクラテスのみです。
補足のコメントありがとうございます。
なるほど、釈迦やイエスの直弟子は師匠の「いちいち記録するな」という意向を理解していた可能性が高いということですね。
プラトンはきっと師匠の教えを記録したかったのではなく、師匠を見て感動した自身の気持ちを表現し誰かに伝えたかった、と現代人の私は勝手に解釈することにします。
No.3
- 回答日時:
すこしみなさんとかぶるかもしれませんが推測程度の私見です。
彼らは、後世に名を残そうとして活動していたわけでないから(おそらく)、当然その必要性に関しては感じなかったからではないでしょうか?
歴史というものに対しての意思が希薄、あるいは、重要視しなかったのかもしれません。
イエスのみについて語るならば、彼は神の子ですから(宗教上は)、自身では書き残さず、人が(神の使役として)述べ伝えるべきかもしれません。
また、実際上は、宗教、哲学というものは、内容に齟齬、誤りがないように体系化するのは大変なことであり、優れた弟子あるいは後継者が矛盾の無いように文字化するべきかもしれませんね。
最後に逆説的ですが、もしかしたら歴史には文字化されなかった偉人もいるのかもしれません。
コメントありがとうございます。
当時、書物を記すことは後世に名を残すための活動だったと断定はできませんよね。日記やメモのようにプライベートな書き物をしてもいいのではと思います。
No.2
- 回答日時:
何の根拠もないただの推測を述べます。
「書物」を書き記すことの意味とは著者の考え方を流布することにあると思います。
質問者さんが挙げた釈迦、ソクラテス、イエスは別に自らの考えを広く知らしめることよりも
目の前の一人ひとりに対して真摯に自らの考えを示したかったからなのではないでしょうか?
たとえばソクラテスでいうならば対話法を手法として取り入れていたことに
その精神(?)を感じることができる気がします。
また、書物を書き記すことで考え方を流布しようとするのは
むしろ弟子たちがこんなにすばらしい考え方なのに知らない人がいるのはかわいそうだという
まさに第3者であるからこそ着想しうる行為なのではないでしょうか?
また、こんな風に考えることができると思います。
どんなに一流の考え方でも一般の人に理解できなければ
ただのたわごとに過ぎないという考え方です。
つまり一流の考え方に弟子たちの残した書物などの一流の「解説書」があるからこそ、その考え方が一般に定着したと考えることはできないでしょうか?
コメントありがとうございます。
自らの考えを広く知らしめることよりも目の前の一人ひとりに対して真摯に自らの考えを示したかったから、ということを弟子達に伝えなかったのはなぜでしょうか。なぜ一部の弟子達は「自らの考えを広く知らしめることよりも目の前の一人ひとりに対して真摯に自らの考えを示す」を守らずに書物に頼ってしまったのでしょうか。
疑問はつきません。
No.1
- 回答日時:
私が自分で考えだした説ではありませんが。
。。釈迦は仏教徒ではなかったし、イエスはキリスト教ではなかったらしいです。彼らは宗教を起こすことを目的としたのではなく、実践として、ちゃくちゃくと行動したり語ったりしていただけだ、と。悟りであったり、救済であったり。書物を書くのに時間をついやすよりも、行動したり人と出会うことに彼らは意義を感じていたからではないでしょうか?それに感銘をうけた弟子たちが、本人がいなくなったあとでも自分たちがうけた感銘を後世の人たちがうけられるようにと願って書物を残したのでは?
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